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引越し

(本作は2,572文字、読了におよそ4〜7分ほどいただきます)


 浩美が引越しを思い立ったのには、理由がある。 

 浩美がこの街に越して来て、もう七年になる。基本的には、会社と家を往復する毎日を過ごしている。そもそもは、当時交際していた恋人と同棲を始める目的で借りた部屋だった。しかし、彼とは三年前に別れた。その後も浩美は一人でこの部屋に住み続けたが、そのことに特に理由があるわけではない。これといった出会いもなく、友達や近所付き合いも少ない浩美だが、住めば都というように、一人暮らしにしては広過ぎるこの部屋を、浩美は結構気に入っていた。一人になっても住み続けている理由らしきものがあるとすれば、引越す理由がないからということになるだろう。

 ただ、唯一の問題は、変質者がよく出没する地域ということだ。このことは、越してくる前から話には聞いていた。それでも、諸々の条件が良かった上、当時は結婚する前提の恋人と同居だったこともあり、さしたる問題とも思わなかったのだ。 
 しかし、この数ヶ月、この近辺を中心に起きているある事件が、マスコミを賑わせるようになっていた。

 猟奇的な犯罪がエスカレートすることは、広く知られている。そして、この事件もその例に漏れなかった。 
 最初は野良猫だった。この辺りは、野良猫が非常に多い地域だ。発情期になると、人間の赤ちゃんを連想させる独特の鳴き声が至る所で聞こえ、猫好きの浩美でさえ、単にうるさいだけではなく、ある種の不気味さも感じていた。 
 ある日のこと、片方の前足を切断された猫が見つかったのだ。偶発的な事故とは考えられず、明らかに何者かが刃物で切断したのだろう。しかも、複数匹……
 この猟奇的で残酷な事件は、住民の通報から一気に情報は拡散され、二、三日後には全国放送のワイドショーでも取り上げられるようになっていた。 

 さらに、数週間後には、「被害者」は飼い犬にまで及んだ。動機は分からない。だが、野良猫と同じように、「手首」から切断されていたらしく、警察は同一犯と断定した。 
 そして、ついにこの事件は最悪の事態へと発展した。新たなる被害者として、犯人は人間にまで触手を伸ばしたのだ。
 ある日の夕方、大型ショッピングセンターで親からはぐれた男の子が、何者かにより手首を切断されそうになった。子どもの必死の抵抗と泣き叫ぶ大声で怯んだのか、犯人は途中で断念して逃げ去った為、かろうじて切断は免れた。それでも、男の子は深い傷を負ってしまった。この事件により、マスコミの報道は一気に加熱した。全国ニュースでもトップを飾り、警察の捜査も大掛かりになった。昼夜問わず、街中で警察やメディアの姿を頻繁に見掛けるようになった。 
 しかし、捜査の合間を縫うように、また警察やメディアを嘲笑うかのように、数日後、犯人は再び別の子どもに手を掛け、今度はやり遂げたのだ。切断された手首は見つかっていない。

 この頃、ワイドショーでは、この事件についての特集で持ちきりだった。有名な犯罪心理学者が、ある作家の短編小説に影響を受け、触発された者の犯行だろうと分析した。すると、瞬く間にその見解が一般的になり、その作家の短編集はベストセラーとなり、全国至る所で模倣した事件も発生した。 

(評論家やコメンテーターって、ホント、好き勝手なことばかり言うわね……)
 浩美にとっては、部外者による犯人の分析などどうでも良かったのだ。そんなことよりも、一刻も早く、この地を離れたい……こういった背景に後押しされ、浩美は引越しを決断したのだ。 

 とは言うものの、浩美にとっては、たくさんの思い出が詰まった部屋でもある。条件も良く、名残惜しい感情が湧き上がることは否めない。しかし、後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、部屋探しを始めることにした。 
 すると、意外と簡単に新居は決まった。今程広くはないが、今より綺麗な部屋であり、何よりも、通勤時間を20分程短縮出来ることが大きな魅力だった。これを機に、色々と自分の人生を見直してみよう……そういった思いを胸に、引越の準備を着々と進めた。 

 今と比べ、一部屋減ることになるので、荷造りよりも不要な物の処分から始める必要があった。まず目に付いたのは、大きな洋箪笥。新居には、クローゼットが備え付けられてある。この洋箪笥は彼が買った物で、浩美の衣服は殆ど入っていない。処分はすんなり決断出来た。 
 他にも、彼が残した物を中心に、処分していった。大量の服や靴、本、CD、DVD……いつかふらっと帰って来るのでは? という叶わぬ期待を捨て切れず、今まで大切に保管していたものだが、引越を機に人生をリセットすることにした浩美は、今回ばかりは躊躇いを吹っ切ることが出来た。売れそうなものは残し、売れないものは可燃、不燃、資源……分別しながら、処分するものを袋に詰めていった。
 唯一、感傷に浸ったものが、彼の趣味だった釣り道具だ。時間を見つけては黙々と手入れしていた彼の姿を、どうしても思い出してしまうのだ。 ゴツゴツした大きな手に不似合いな、細かく繊細な作業を器用にこなす彼の指先、何故か正座で作業するその後姿……つい、思い出に浸ってしまう。しかし、ここで時間が止まってしまってはいけないと自分に言い聞かせ、覚悟を決めて全て処分することにした。 

 いよいよ引越の前日になって、浩美は肝心なことを思い出した。 
(そうだ、業者さんに言われていたこと、すっかり忘れていたわ……) 

「冷蔵庫は前日の夜までに空にして、電源を切っておいてください」 

 浩美は、慌てて冷蔵庫の整理を始めた。買ったばかりの野菜や牛乳、賞味期限の切れてない食材も大量にあった。 
(ちょっと勿体ないけど、捨てるしかないわね……幸い、可燃ゴミの収集日は明日なので、引越業者が来る前には出せるんだけど……) 
(問題は冷凍庫ね。こんなことなら、彼のクーラーボックス、捨てるんじゃなかったわ……今から電源を切ると、明日の朝には絶対に臭いが出るし、だからと言って捨てる訳にも……) 

 今、苦労して収集したそれらは完全に凍っている。大小様々な大量のコレクションを眺めながら、浩美は途方に暮れていた。 
 どれぐらいの時間が経ったのだろうか、浩美はあることを思い付き、うっすらと笑みを浮かべた。 

(そうだったわ、まだその“手”があったわね)