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はじまりはいつも猫 第一章(3)

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第一章(3)

 調律師の仕事で一番大変な業務は、アポ取りだと言われている。私の場合、名古屋を拠点に、殆どは50km、最大では約100km圏内で移動する為、方面と時間を上手く調整しながら予定を組まないと、下手すれば赤字の仕事になることもあるのだ。もっとも、本当に赤字になることは滅多にないのだが……しかし、予定組みの効率性により、収益が大きく変わってくることは事実である。
 例えば、ある日の午前中に、名古屋の南西約80キロにある隣県の県庁所在地、津市で予定が入ったとする。すると、移動距離、移動時間を考えると、出来れば午後の仕事は名古屋に戻る途中にある四日市市や桑名市などで、最悪でも名古屋市内で組みたいと考えるのは自然な帰結だ。
 もし、それが上手く組めないと、その日の仕事は午前中の一件だけになりかねない。そうすると、一件だけの為にガソリン代と高速代を使って遠方に出向いたことなるのだ。同じ方面でもう一件組めると、経費は同じで売上は倍になるのだから、単純な理屈でもある。
 しかし、二件目を組もうにも、名古屋を通過する場所、例えば岡崎市や豊橋市、岐阜市などで予定を組むことは時間的にほぼ不可能だから、顧客の選択肢が大きく制限されることになる。結果、遠方の仕事はなるべく避けたいと考えるのは必然だ。
 調律師のセルフアピールで、「地域密着型」「地域に根ざした活動」なんて謳い文句をよく見掛けるが、その理由の大半は調律師自身の都合でもあるのだ。

 一昔前から既に、ピアノ業界では、上手く調律の予定を組む技量は重視され、営業成績にも反映されていた。逆に言えば、アポ取り業務はそれだけ困難な作業だと認知されていたのだ。近年になると、それはもっと厳しくなったと言えよう。調律顧客自体がかなりの減少傾向にある上、予定を組むこと以前に、連絡を取るだけでも困難な時代になってきたのだ。
 一方で、ある程度付き合いが深く、信頼関係が築けているお客様の場合は、昔と比べると年々便利になっている面も否めない。電話が唯一のコンタクト手段であった時代から、FAXやメールが発展し、九十年代には携帯電話も爆発的に普及した。更に今世紀に入ると、携帯のメッセージ機能、LINEなどの通信アプリ、SNSのDMなど、様々な手段で連絡を取り合うことが可能になったのだ。
 ただ、幾ら通信手段が多様化されても、まだ付き合いの浅い方や初めてコンタクトを取る方の場合、今でもほとんどのケースでは電話連絡から始めることになる。電話だけに限定すると、昔と比べ、確実に困難になったと言えよう。と言うのも、ナンバーディスプレイが当たり前になった今、知らない番号からの着信には出ない人が多いのだ。



 佐伯昌枝とコンタクトを取る手段は、私には固定電話へ掛けるしかなかった。それ以降も、いろんな時間に何度となく掛けてみたが、一向に繋がることはなかった。ひょっとして、繋がらないのではなく、電話に出ないだけではないだろうか? そんな疑問と不安を懸命に拭いながら、とにかく何度でも掛けてみるしかなかったのだ。
 もし、意図的に出ないのなら……日取りの相談も出来ないし、それどころか調律に伺うことも不可能だ。そして、特にやりたくもない仕事の為に、無駄に振り回されていることになる。意図的に出ないのなら……その可能性もあると思いつつも、必死で打ち消すようにしていた。
 そのまま、色んな時間に何度も電話を掛ける生活が五日も続いた。予定では、既にピアノは納品されている筈だが……と、その時、ふと気付いたことがある。果たして、運送屋は彼女とどうやってコンタクトを取ったのだろうか?
 通常は、運送屋はお客様へ納品日の打合せの為に、必ず一度は電話連絡をするはず。それに、納品日の前日にも訪問時間の連絡を入れるのが慣例だ。話によると、佐伯昌枝の納品に関しては、予め下見にも行ったと聞いていた。つまり、運送屋は、確実に何度か昌枝と連絡を取り合っているのだ。
 すぐに運送屋へ電話を掛け、その点を確認してみた。すると、意外な答が返ってきたのだ。

「あぁ、佐伯様ですか……おかしいな、あの方はずっと家にいるみたいですよ」
「え? 何回掛けても繋がらないんですが……」
「う〜ん、番号はあってますよね?」
「052-xxx-xxxxと聞いてます」
 私は、いつしか佐伯昌枝の固定電話の番号を暗記していたようだ。何の取り柄もない私にとって、唯一と言ってもいい特技かもしれないが、数字を無意識のうちに覚えることが出来るのだ。お客様の電話番号だけでなく、会話に出てきた誕生日や車のナンバー、時にはピアノの製造番号まで、自分のことながら不思議なのだが、脳に無意識に刻まれた数字であれば再現することが出来るのだ。
 残念ながら、暗記力や記憶力とは別物のようで、覚えようとしたことはなかなか覚えられないのだが。しかも、自分でも何を覚えているのかも分かっていない。つまり、ほぼ何の役にも立たない特技だ。
 昌枝の電話番号も、何度もスマホから掛けているとは言え、発信履歴をタップするだけで、番号を入力していたわけではない。それでも、繰り返された視覚情報は、知らない間に埋め込まれていたようだ。会話の流れから、ごく自然とそらんじて運送屋へ伝えることが出来たことに、このくだらない特技も、たまにはほんの少しだけだが役立つこともあることを知った。
「番号は合ってるなぁ……僕達も何度か電話したけどね、いつ掛けても繋がりましたよ。ひょっとしてだけど、着信番号を見て、出ないだけってことも考えられますね」
「やっぱり、そう思いますか……」
「いやいや、実際は分からないですよ。ただねぇ……あまり、お客様のプライベートな話はしちゃいけないんだけど、佐伯様は特段仕事をされてる感じはないし、何と言うべきか……毎日昼頃に起きて、明け方に寝る生活だって仰ってましたね。まぁ、どっちにしても午前中は繋がらないと思いますけど、午後なら……たまたま出掛けてたのかもしれないけど、そんなに偶然が続くとは思えないですよね」
「分かりました。ありがとうございます」
「えぇと、調律に行かれるんですよね? 猫が何匹かいるから……そのぉ、言い難いけど、匂いは覚悟しておいた方がいいかも」
「あ、それは大丈夫です! うちにも猫がいますし、多頭飼いのお客様も何件かありますので、慣れてます」
「ならいいけど……ちょっと経験したことないレベルでしたので。あと、もし必要なら僕から電話しますが?」
「いえいえ、申し訳ないので、そこまでしてくださらなくても大丈夫です。根気よく掛けてみます」

 そう言いながらも、私はもう昌枝に連絡するつもりはなかった。張り詰めていた糸が突然切れたかのように、急に虚しくなったのだ。仕事はしておらず、ほぼ昼夜逆転したような生活。毎日家に閉じこもっていながら、電話には出ない。
 そして、猫……。
 数匹飼っているところで、普通に世話をしていれば、覚悟が必要なぐらいの匂いをともなう不衛生な状態にはなかなかなるものではない。実際、十匹近く飼っているお客様もいるが、それ程気になるようなレベルではない。つまりは、余程飼育を放置してるのか、トイレの掃除をしないのか……どちらも許せない。
 彼女は、毎日自宅で何をして過ごしているのだろうか。いや、もういい。佐伯昌枝のことは考えたくない。この仕事は、やっぱり断ることにしよう……勝手にそう決めたのだ。だけど、猫のことが気になる私もいた。

 だが、実際問題として、これだけ電話を掛けても繋がらない理由が、出られないヽヽヽヽヽのではなく、彼女の意思で出ないヽヽヽだけだヽヽヽということが判明したのだ。このことは、私にとっては想像していたこととは言え、やはり考えれば考えるほど腹立たしく思えてきた。
 元々が、全く望んでもいない仕事だ。止むを得ず、受託せざるを得なかっただけなのに、昌枝の為人ひととなりをイメージするだけで、調律になんて伺いたくないのが本音なのだ。運送屋に話を聞いたことで、この仕事に対する私のちっぽけな意欲と情熱は、完全に吹き飛んでしまった。


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