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はじまりはいつも猫 第一章(2)

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第一章(2)

 猫が決め手になったわけではない……そう、自分に言い聞かせた。
 自他共に認める猫好きの私は、人一倍「猫」に弱いことも自覚している。捨て猫を見つけると無視出来ないし、猫を飼っているお客様とは、良好な関係が築けることも多い。猫グッズを見掛けると、無用な物でも衝動買いしてしまうことも多々ある。だからこそ、夫は、佐伯昌枝が猫を飼っているという情報をアピールしてきたのだろう。
 しかし、それを受託の理由にしたくはないという些細なプライドが私の中に残っており、管に据えられた弁のように私の性格を「単純」から「複雑」に、「素直」から「捻くれ者」に変えるのだ。猫が決め手になったわけではない……そう、自分に言い聞かせたのも、調律師としてのプライドを保つ、私なりの目一杯の抵抗なのだ。

 私には、調律師の道しかない。
 他の仕事なんて出来ないし、趣味らしいものもない。唯一、猫が好きってことぐらいだが、それは単にキャラクタの一面に過ぎず、趣味でも特技でもない。自分自身のアイデンティティは、「ピアノ調律師」としてしか成立しないぐらい、悲しいぐらいに何の取り柄もないのだ。だからこそ、何処にでもいる「猫好きの女」よりも、少しは希少価値のあるであろう「ピアノ調律師」であることに執着しているのかもしれない。
 しかし、夫は違う。ギターの弾き語りの活動もしているし、音楽を通したボランティア活動も行っている。音楽仲間とのセッションもやっているし、SNSでも交友が広い。彼は、職業が「ピアノ調律師」というだけで、趣味も特技も幾つかあり、他にも「顔」を持っているのだ。そんな彼から、猫をダシにされたことに苛ついたのだ。
 確かに、断れない相手から依頼された仕事だし、女性調律師を希望されているのなら現実的に——今までもずっとそうしてきたように——私が担当することが一番理に適っていることは確かだろう。恥ずかしながら、うちには他人に仕事を回すほどのゆとりはない。だから、どう転んでも結果は同じなのだ。
 そう理解はしていても、やはり最後の後押しは「猫」だったのだろうという思いが、私自身でさえ拭え切れないでいた。「ピアノ調律師」として気の進まない仕事を、「猫」を理由で請けること。私の中では、上手く消化出来ないでいた。それでも、実際にどんな猫なのか見てみたいし、猫を飼っている人となら、多少は波長が合う気もしたのだ。少し、アイデンティティが崩れかけているのだろうか。
 しかし、この時は知る由もなかったのだが、この魅惑の動物により、予想外に困難なプロジェクトへと変貌することになったのだ。

 それ以前に、ピアノ所有者の佐伯昌枝という人物にも、とても無視出来ないような大きな問題があった。それは、最初に電話で会話した時に、すぐに気付いたことだ。
 彼女は「普通」でない——。この際、「普通」の定義はどうでもいい。偏見が生む様々な弊害は理解していても、そう断定せざるを得ないだろう……それが、彼女の第一印象だ。
 納品予定日の数日前、調律の日取りを決めたくて、私は昌枝に電話連絡を入れた。しかし、その前から昌枝に対しては、なかなかポジティブな印象は持てないでいた。
 昌枝の人物像としては、六十〜七十代の一人暮らしの女性と元請け業者から聞いていた。いや、それだけしか聞かされていなかったのだ。生涯独身なのか、結婚歴はあるが、離婚、または死別したのか。別居中という可能性もあるし、年齢的に、ギリギリ旦那が単身赴任中の可能性も排除出来ない。「一人暮らし」だけでは、人物像など見えてくるはずもない。
 当然ながら、彼女の収入源も謎と言えよう。年金暮らしなのか、資産家なのか、不労所得があるのか……或いは、かつて結婚していた場合、死別にしろ離婚にしろ、別れた旦那の遺した資産があるのかもしれない。いや、もしかしたら、子どもからの仕送りがあるのかもしれないし、昌枝自身が一財産を築いたキャリアの持ち主かもしれない。まだ現役で働いている可能性もある年代だ。
 そう言えば、千葉の実家のトラブルでは、対応が迅速だったと聞いている。直ぐに弁護士に相談し、家屋を解体し、ピアノをオーバーホールして名古屋に運び込むことに決めたのだから、それなりにゆとりがある生活を送っている可能性は極めて高いと言えよう。
 しかし、それ以上の具体的な話なんて、流石に業者も聞き出せるはずはない。知り得ることは、そこまでなのだ。その分、色んな想像も出来るし、実際に、色んな可能性も有り得るので、先入観への戒めにもなる。確実なことは、彼女は一人暮らしをしていること、そして、猫を飼っていることだけだ。

 また、送られてきた顧客データの住所から推測すると、彼女の住まいは、名古屋市内の三大ターミナル駅の一つから、徒歩数分圏内にあるようだ。そこは、明らかに住宅地ではない。しかし、駅前のオフィス街からも少し離れている。雑居ビルや商業ビルが建ち並び、様々な小売店や飲食店が所狭しとひしめき合う繁華街で、住民の少ない地域でもあるが、地価は市内でもトップクラスだろう。
 念の為、グーグルのストリートビューでも検索してみると、その外観は、どうやら一軒家ではなく三階建てのビルのような建物だった。庭も車庫もない都心部にあるこんな建物で、佐伯昌枝という女性は、果たして一人でどのような生活をしているのだろうか。先入観や偏見は禁物だが、客観的に見て、最大限に好意的に受け止めても、一般的な人生は想像出来なかった。

 とりあえず、佐伯昌枝が一人暮らしであること、そして、六十代以上の女性ということは、確かな情報と信じることにしよう。すると、どのような生活スタイルかは定かでないにしろ、夕方以降は高い確率で在宅していると思った私は、夜の七時ぐらいに電話を掛けてみた。業者から頂いたデータには、固定電話の番号しか記載されていない。しかし、呼び出し音は虚しく繰り返されるだけだ。留守電にもファックスにも切り替わらない。不在かもしれないし、たまたま手が離せないだけかもしれない。その後、三十分置きに数回掛け直したが、結果は同じだった。
 よく考えてみると、六十代、いや七十代以上でも、まだまだ現役で働いている方は沢山いる。彼女も、まだ仕事をしているだけかもしれない。彼女の素性が全く分からないくせに、夜なら在宅しているだろうとほぼ決めつけたこと自体、既に偏見や先入観に惑わされていたのだと気付き、私は反省した。
 明くる日、今度は午前中に電話することにした。十時ぐらいに掛けてみたが、繋がらない。およそ三十分後に、更に三十分後にも掛け直したが、やはり繋がらない。結局、その日は午後からも一時間に一〜二回の頻度で、夜の九時まで、何度も掛けてみたが無駄だった。

 調律師の仕事をしていると、普段からアポを取る大変さは痛感している。基本的に移動を伴う仕事だが、時間も場所もそんなに効率よく予定組み出来るとは限らないのだ。いや、それ以前の問題で、今回のようにお客様となかなか連絡が付かずに苦労することも多いのだが……直感的にこれは厄介なケースかもしれない……と思った。
 この程度のことなら何度となく経験したこともあるのだが、後ろ向きな気持ちでの取り組みのせいだろうか、嫌な予感しかないのだ。そして、私の場合、何故か嫌な予感ほどよく当たるのだ。これもまた、趣味にも特技にもならないことだが。


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