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はじまりはいつも猫 第一章(4)

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第一章(4)


 もう、どうでもいい……佐伯昌枝のピアノの調律は、誰に何と言われようが、私はやってあげない!
 そう決めた直後のこと、いきなり決意が揺らいだ。我ながら、「朝令暮改」ですら念入りな計画に感じるぐらいの変わり身の早さだが、私のスマートフォンに着信が入ったのだ。ディスプレイには、電話番号のみが表示された。つまり、アドレス帳に登録していない人からの着信だ。しかし、私はその数字の配列に見覚えがあった。先程、運送屋にそらんじて伝えた佐伯昌枝の電話番号だ。
 刹那、私の思考は硬直した。そして、直ぐに「今更何なのよ?」と怒りが膨れ上がった。しかし、爆発しそうになる寸前に、「仕事」というブレーキが作動する。それでも、慣性の法則で走り続けようとする怒り。制動距離は、何処まで延びるのだろうか?
 要は、電話に出るのか無視するのか……それだけのことだ。それだけのことに、感情も理性も逡巡する。同時に、着信履歴を見て掛けてきたのだろうから、やはりナンバーディスプレイを見て、私からの電話は故意に出なかったことが確定した。怒りと呆れと戸惑いが混じり合い、撹拌かくはんされたダークグレーの感情が噴き出してくる。
 その間も、着信音は嫌味ったらしく鳴り続ける。と言っても、まだ鳴り始めてから僅か三秒ぐらいしか経っていない。その数分間にも感じる長い三秒で、様々な葛藤と闘った。
 結局、私は渋々ながら、スマートフォンの通話ボタンを溜息でタップした。しかし、一秒もしないうちに後悔した。「もしもし……」と言い終わりもしないうちに、昌枝はマシンガントークのトリガーを引いたのだ。

「貴女、どういうつもりなの? どうせ茂原の方でしょ? 毎日何回も何回も、ホントしつこいわね。こんなこと、いつまで続けるつもりかしら? 番号は、会長さんから聞いたのでしょ? おたくの自治会は、個人情報も守れないのね。もう家は解体したじゃない。そりゃ、申し訳ないと思ってるわよ」
「いえ、あのぉ、私はピア……」
 途中で口を挟もうとしたが、無駄だった。私の発言など、耳に入れるつもりもないらしい。昌枝は、言葉に言葉を被せてくる。
 どうやら、私からの着信を、クレームや嫌がらせの電話と勘違いしていたようだ。それを訂正しようと試みたものの、昌枝は一方的に、且つ、一定のペースでネチネチと隙間なく言葉を並べるのだ。
 時々、会話の出来ない人に出会うことがあるが、どうやら彼女はその人種のラスボスのようだ。疑問形を多用するくせに、こちらの返答に耳を傾けるつもりはないらしい。しかも、ヒステリックに喚き散らすならまだしも、コツコツと軽いジャブを放ち続けるように、いつ息を吸ってるのか不思議なぐらいのペースで、ボソボソと絶え間なく喋り続けるものだから、精神的に鬱々と重くのしかかるのだ。鰓呼吸なのかもしれない。

「だから、会長さんからお手紙を頂いてから、直ぐに手を打ったでしょ? そんなに困ってたのなら、いつでも言ってくれればよかったのに。直ぐに対処したわよ。知らなかったで済まされないって言うかもしれないけど、実際に知らないものは、どうしようもないじゃない。何ヶ月も我慢してたって言われても、私も我慢させようなんて微塵も思ってないわよ。勝手に貴女達が我慢してただけでじゃないの? それに、本当に悪いのは私じゃなくて、騒いだ子ども達でしょ? どうなのその子達と親御さんには、慰謝料の請求とかしたの? 法的な措置も取ってないのでしょ? 私は被害届出したわよ? だって、私も被害者なのよ? 不法侵入と器物破損ね。貴女達もそんなに迷惑したのなら、まずはその子達と親御さん達を相手に訴えを起こさないと、単なる被害妄想と同じじゃない? そんなこともそっちのけで私だけを責めるのは、全くを持って筋違いってものよ」

 その時、一瞬だけ言葉と言葉の間に隙間が出来た。このタイミングを逃すものか! と私は大きな声で、単語をくさびのように打ち込んでみた。
「すみません、こっちの話も少しだけ聞いてくだ……」
「だって、私はそんなことになってるなんて知らなかったんだもの……」
 しかし、また失敗に終わった。こちらが何を言おうが、彼女の語りは止まらないようだ。さて、どうするべきだろうか? 考えている間も、一人語りは継続する。ひょっとすると、超アナログタイプのボットなのかもしれない。いや、逆に超最先端のボットなのだろうか?

「……指摘されたら直ぐに動くのに、ずっと何も言ってこなかった貴女達自治会にも責任の一端はあるでしょ? 何もしないで我慢して、我慢してきたんだから責任取れって、いくらなんでも勝手過ぎるわ。それに、私はやることやったじゃない。これ以上、どうしろって言うの? 家はもうないでしょ? お詫びもしたし、十分な寄付もさせて頂いたわよ? 和解書にもサイン頂いたわ。いい? 貴女のしていることは犯罪よ? これ以上しつこいと、出るとこ出ますから。会長さんにも、和解を反故にしたこと、伝えますからね。場合によっては、寄付金の返還も要求します。こちらはね、きちんと弁護士を立てて動いてるの。意味分かる? もう、合意の上で解決したことなの。貴方は、それをぶち壊そうとしてる。貴女一人の所為で、和解が反故になるのよ。そうなったら貴女、責任取れるの? ほら、何とか言いなさいよ!」

 最期の捨て台詞に、私は笑いそうになった。何も言わせなかったくせに、よくそんなこと言えたもんだ。でも、彼女の長い退屈な独演会のおかげで、私は少し冷静になれ、頭の中を整理出来た。そして、今、ようやく発言権が与えられたようだ。
「佐伯さんですね? 私は茂原とは関係ありません。○○楽器から、佐伯さんのピアノの調律を依頼されました」
「え? あれ? あのぉ……貴女、調律師さんなの?」
「はい、何度も電話してすみませんでした」
「あら、ごめんなさいね。このピアノがあった場所で、まぁ私の実家になるんですけどね、もう何年も誰も住んでなかったの。そしたらね、もうそれは大変なことが起きちゃってね、恥ずかしい話なんだけど、向こうの自治会の方と少し揉めてしまって。少し前にも、毎日嫌がらせの電話が沢山掛かってきたの。その時は、弁護士が自治会に苦情を入れてね、自治会で話合いが行われて、会長さんが直々にたしなめてくれたのでね、二〜三日で治ったんだけど、それから知らない番号からの電話を出るのが怖くなっちゃって、一切出ないようにしてたの。貴方の番号はもう覚えたから、これからは大丈夫よ。ごめんなさいね、何回も掛けてくださったのね。私、また嫌がらせが始まったのかと勘違いしちゃって、でも、このまま泣き寝入りも嫌だなぁと思って、意を決してこちらから掛けてみたの。ほら、うちは猫ちゃんもいるじゃない。猫ちゃんはね、私が不安がってると何か察するみたいでね、ニャーニャー鳴いたり走り回ったり、袋を噛んだり、もう荒れて荒れて大変なのよ。でも、良かったわ。調律師さんだったのね。あ、そうそう、このピアノはね、私が小学生の時に父が買ってくれたの。近くに素晴らしい先生がいてね、ピアノ弾くのが楽しくて楽しくて、毎日何時間も弾いていたわ。でもね、二十四歳で家を出たのだけどね、いえ、追い出されたのかしら。それからは、四十五年間で数回しか実家には帰ってなくて……」

 私が茂原の住民でないという誤解は、さっきまでの一人語りは何だったの? ってぐらいに呆気なく解けたようだが、お喋り怪獣の本質は変わらない。今度は、聞いてもいないのに、どうでもいい彼女の半生を語り始めたのだ。どうせなら、面白おかしくフィクションを交えてくれればいいのに、下手なアマチュア作家の無計画なプロットを聞かされているようだ。伏線も回収もオチも起承転結も何もなく、お経の方が面白いかもしれない話に付き合わされた。
 そして、相変わらず、私が口を挟む隙を与えない。いや、強引に割り込んだところで、彼女はお構い無しに喋り続けるだろう。既に、やってみようという気すら起きなくなっていた。


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