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必要とされ感謝されることは、水や空気のように、人が生きるのに不可欠なものだと解った物語

中学校の通学路の途中に大きな公園があった。竹で編んだカゴを背負ったおじいちゃん、おばあちゃんたちが、よくそこでゴミ拾いをしていた。市が募集したアルバイトか何かだったのだろう。ある朝、一人のおばあちゃんが、カゴをおろしてベンチで休憩しているところに遭遇した。ズボンに結びつけたフェルトの袋から、慎重に、宝物でも扱うように何かを取り出す。梅味の飴玉だ。蝶の羽根のようなビニールの結び目を何度かつまみなおし、ゆっくりと左右に引っ張って袋を開けた。

次の瞬間、袋から飛び出した飴玉が、勢い余って地面に転げおちてしまった。おばあちゃんは目を大きくし、曲がった背中をさらに前に倒して、地面の赤い点をじっと眺めていた。僕は立ち止まり動けなくなってしまった。しばらくすると、おばあちゃんは急に表情を崩し、子供の可愛いいたずらを許すように微笑んだ。そして想像以上の機敏さで立ち上がり、飴玉を拾って背中のカゴにいれ、ゴミ拾いに戻っていった。

僕はなんとも言えない気分になった。そして、少し早歩きでおばあちゃんの後を追い、追い越しがけに「おはようございます、いつもありがとうございます」と声をかけた。するとおばあちゃんは、飴玉を落としたとき以上に目を大きくし、そして大きく顔を崩して「はい、いってらっしゃい」と僕に言った。その笑顔を、30年以上たった今も僕はよく覚えている。

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当時は潤沢だったはずの年金がもらえ、アルバイトなんてする必要もなかったはずのおばあちゃんたちが、どうして毎朝公園の掃除などをしているのだろう。戦前の教育がそうさせるのかな。当時はそう考えていたけれど、その後現在に至るまで、戦後生まれの両親はじめ、引退して備えもあり働く必要のない人が、努めて何かの仕事を続けるのを見てきた。

「教頭」もその1人だ。ゴミ収集所の近くに住むおじいちゃんで、収集日には朝早くから収集所に出張り、住民のゴミ出しを監視していた。その姿は教頭先生のようだった。といっても口やかましく何かを言うわけではない。ただカラスよけのカゴの横に黙って立っているのだ。それだけなのだけど、変なことはできない、という抑止力になり、近所のゴミの治安は極めて良好だった。

僕もそうだけど、多くの住民は教頭に感謝していた。だから、みんなゴミをだすとき、笑顔で教頭に挨拶するのだ。そんな挨拶に、目も合わせず黙って頷き返す、ぶっきらぼうな教頭が僕は好きだった。2年ほど前だっただろうか、ある日突然、そんな教頭がゴミ収集所に現れなくなった。しばらくすると、歩行器をつけ奥様に手を引かれて近所を散歩する教頭を見かけるようになった。歩行器のせいもあるだろうけど、体を壊し収集所にでれなくなってしまった教頭は、何だか一気に老けてしまったように見えた。

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社会人になり、仕事をするようになって20年以上がたつ。その間、色々な失敗や挫折を経験し、今となってようやくわかるようになった。おばあちゃんが毎朝ゴミ拾いをしていた理由。教頭が毎朝ゴミ収集所に立っていた理由。人はみな、誰かに必要とされ、誰かの役に立って、誰かから感謝されたいのだ。必要とされ、感謝されること。それは食事や水、空気のように人が生きていくのに欠かせない。

誰かに必要とされ、誰かの役にたって、誰かから感謝されること。それこそが幸せの本質だと僕は考える。幸せの本質はお金じゃない。年収と幸福度の相関、GDPとwell-being指数の相関などといったデータを持ち出すまでもなく、それは誰もが感覚で解っていることだろう。お金でなくせる不幸はいくつかある。でも、お金で買える幸せは決して多くない。

最近は「やりたいこと」全盛の時代だけど、「やりたいこと」を貫き通しても幸せになれるとは限らない。少なくも僕はそうだった。いくらやりたいこと、好きなことをやっていても、それが誰からも必要とされなければ心は満たされなかった。反対に、自分にとっては意外なことでも、必要としてもらえることがあり、それに全力で答えて感謝されることで、精神的にも経済的にも満たされる。そんな経験を何度かした。

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FIRE(Financial Independence, Retire Early)という考え方が注目されている。若いうちにまとまったお金をつくって、あとは資産運用の不労所得で自由に、ストレスなく生きていこう、というアイデアだ。でも、おもしろいのが、それを実現していない人がFIREに憧れる一方で、上場や企業売却などで実際にまとまったお金を手にした知人・友人の大半は、引退など少しも考えず、次々と新しいチャレンジを始めていることだ。

それも結局同じことなんじゃないか。誰かに必要とされ、誰かの役にたって、誰かから感謝されること。それこそが幸せの本質なのだ。いくらお金があっても、それがないと辛い。まったくのゼロだったらきっと病んでしまう。いくら自由で何にも束縛されていなくても、水や空気がなければ人は生きてはいけない。必要とされ、役に立ち、感謝されることもそれと同じだ。人間の生存に欠かせないのだ。

だとしたら。目指すべきはFIREなんかじゃなく、自分が最も必要とされ、最も人の役に立てて、最も感謝される何かを見つけることなんじゃないか。それが「生きがい」ということなのかも知れない。あの日の通学路で、おばあちゃんは飴玉をダメにした代わりに、もっと大きなご褒美をもらえたのだ。あのとき「ありがとう」と言えて本当によかった。

おわり

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