「人の役に立ちたい」と「自分らしく生きたい」は完璧に両立できる
バンドをやっている大学生というのは、楽器を持っていなくても大体わかる。服装や髪型、何よりその目付きや口ぶりから醸し出す、世の中に対する態度(アティテュード)がそれを教えてくれる。「パンクとは態度(アティテュード)だ」とは、イギリスの伝説的なパンクバンド「ザ・クラッシュ」のボーカリスト、ジョー・ストラマーの言葉である。
僕もそんな大学生だった。軟派なサークルでカジュアルな恋愛に明け暮れ、青春を謳歌する友人たちとは一線を画していたつもりだった。ただ、先生たちからしたら、みんな一括りに、「学業に精を出さない今時の学生たち」と目されていたのだろう。その中の「さらに悪い方」だと思われていたのかもしれない。
そんな訳もあってか、卒業論文のレビューで教授の部屋に呼ばれた時、先生の顔はこわばっていた。ドアをノックする音で一度姿勢を正したのであろう先生は、僕の顔を見るなりもう一段階背筋を伸ばした。僕は文学部英文学科だったので、イギリスの作家エミリー・ブロンテの「嵐が丘」という小説を題材にした論文を提出していた。先生はブロンテの学会にも属する専門家だったので、僕のような浮ついた学生がブロンテを論ずることに何か一言あるのかもしれない。その時はそう思った。
普段とても温厚な先生だったが、その日は見たこともないような鋭い眼光が僕の目を射抜いた。「この論文は、本当に自分で書きましたか?」というのが最初の質問だった。「はい」。質問の趣旨をまだ測りかねていた僕は、少し間をおいてそう答えた。「では、この漢字は何と読みますか?」「この慣用句はどういう意味ですか?」「この言葉を別の言葉で言い換えるとどうなりますか?」
僕が質問に答えるたび、先生の口調は問い詰めるような調子から、どこか戸惑いを帯びたものに変わっていった。そして最後にこういった。いったいあなたはどうしてこういう文章を書くのですか?
当時の僕は明治時代の文学に傾倒しており、特に夏目漱石の文体に憧れていた。そして、まるで漱石のような文章を書いていた。今考えると子供じみた趣味だけど、同時はそれが自分を表現する手段の一つだった。ただ、同時に、それは読む方にとっては読みづらくて仕方ないだろうし、それを卒業論文に用いるのは甚だ不適切だという自覚はあった。僕はそれを必死に詫びた。
すると、先生は、少年時代の親友に50年ぶりに再会したような笑顔になり、僕の膝に手を置いた。私はあなたを誤解していた。この文章があまりに素晴らしく、内容も目を見張るものなので、明治かそこらの論文を見つけてきて丸々剽窃したのかと思っていた。あなたのような青年が現代にいるなんて、想像もしていなかった。あなたのような文学青年に出会えてとても感動している。先生はお酒に酔ったような饒舌でそうまくし立てた。
その後、先生との心の交流が始まった。先生は、その思想を理由に迫害され、投獄された明治時代の不遇の詩人を父にもつ。明治時代を思わせる僕の文章に感じ入るところがあったのもそのためだろう。僕の論文を家に持ち帰り、奥様にも読んで聞かせたらしい。同じく明治時代の文学を愛する奥様も、私の論文を気に入っていただけたようだった。
ただ、先生と僕の交流はあくまで「心の交流」にとどまった。その後も学会に誘ってもらったり、教授が集うビアガーデンに誘ってもらったりしたのだが、自分を深く知られる事で失望させてしまうのが嫌で、そうしたお誘いは何かしらの理由をつけて全てお断りしてしまった。そんな心の奥を知るよしもない先生には、当時寂しい思いをさせてしまっただろう。
先生と私を結びつけた論文のテーマは「視点」だった。小説が誰の視点で描かれているか、という事を深堀した分析だ。小説の視点には、大きく分けて3つの種類がある。主人公の一人称、「オムニシエント」と呼ばれる神の視点、そして客観的な立場の語り部による三人称。「嵐が丘」は最後のパターンで、物語とは直接関係のない第三者が、さらに別の語り部に話を聞く、という珍しい構成になっている。この二人の語り部、ロックウッドとネリーは通常全く注目されない空気のような登場人物なのだが、僕の論文ではこの二人に脚光を当てた。物語は、実は二人の主観で歪められている、という仮説を深堀りしたのだ。
この「視点」に対する興味は、その後ずっと僕の人生を貫いている。例えば漫画を読む時でも、常に「視点」を意識してしまうのだ。「鬼滅の刃」は竈門炭治郎の視点で描かれているけど、原型である「鬼殺の流」には別の主人公がいて、炭治郎は全く同じ設定で作品の世界に存在するものの、心の中やその背景が深堀りされる事はない。というか、作者の頭の中にだけに存在していて、実際には登場すらしない。同じように、他の登場人物や、登場すらしない市井(しせい)の人物の視点で見た時、この鬼滅の刃の世界はどう見えるのだろうか。
「鬼殺の流」には登場すらしない炭治郎は、それでも作品世界の一部だ。そして、「鬼滅の刃」においては、その炭治郎の視点こそが世界の全てになる。どこに視点を置くかによって、竈門炭治郎は世界の一部にもなり、世界の全部にもなりうる。それは視点の置き場所の違いであって、炭治郎の世界と「鬼殺の流」の世界に優劣などはない。全ての人は世界の一部であり、同時に全部でもある。一部と全部は対立しているのではなく、同時に存在しているのだ。
ホールネスという考え方がある。個は国や会社などの全体のためにある、と考えるのが「全体主義」。逆に、国や会社などの全体は個の自己実現のためにある、と考えるのが「個人主義」だ。それに対して、個と全体を対立概念と考えず、同時に存在するものだとするのが「ホールネス」である。それは身体の各機関と、身体全体の関係性に象徴される。小さな臓器である膵臓も、それなくしては身体全体が立ちいかない。一方、膵臓もそれだけでは立ちいかず、身体全体があって初めて存在できる。個と全体は、対立したり優劣があったりするものではなく、お互いが支え合う事で「同時に存在している」のだ。
昨今、「人の役に立ちたい」と考える人が増えていると聞く。就職先としては国際機関や非営利団体、民間企業でも人事部門やCSR部門が人気だという。同時に「自分らしく生きたい」という考え方にも支持が集まる。この二つは一見矛盾しているようにも思える。自分らしく、自分の好きなことで生きていこうとする姿勢と、人に尽くし人のために生きていこうとする姿勢は一見相入れない。
しかし、この「ホールネス」の光を当てて考えると、この二つの考え方は完璧に両立する。ポイントは「自分らしさ」の捉え方だ。自分らしさを、ただ「自分が好きなことをする事」だと考えると、多くの人にとって「人の役に立ちたい」と「自分らしく生きたい」は両立しない。しかし、それを「最も多くの人が自分にやってほしい事」だと考えれば、それは「人の役に立つ」事に直結する。ここでも個と全体には優劣の関係はなく、個と全体はお互いを支え合い、同時に存在しているのだ。
奇しくも、「鬼滅の刃」の主人公竈門炭治郎はこの考え方を体現している。常に自分を顧みず、人のために生きようとしながらも、全体が個に勝るという全体主義的な価値観、柱を頂点とした階層的な組織には果敢に挑みかかる。鬼滅の刃が多くの人に支持された背景には、こんな時代観があるのではないか。全体主義でも個人主義でもない、「ホールネス」な世界はすぐそこまできている未来なのだ。
「嵐が丘」の論文を絶賛してくれた先生とは、自分の幼稚さと臆病さゆえ、ついには一度飲みに行く事だってかなわなかったが、最後に先生が論文の評価に添えてかけてくれた言葉はその後僕の人生の支えになっている。
「文学は役に立たないという人もいます。そうかもしれません。しかし、必ずあなたの人生を豊かにしてくれます。きっと生涯文学を愛し続けてください」。
まさにその通りだな、と思う。こんなnoteを書けるようになったのも、自分が書いた文章を少なからぬ人に読んで頂けるようになったのも、ましてや書籍を出版させていただけるようになったのも、先生の言うことに従って「役に立たない」文学を愛し続けているからこそだ。
おわり
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