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長谷川白紙「魔法学校」は何を試みたのか

はじめに

批評における大前提として私は音楽を芸術だと考えている。これは私個人の考えだが芸術とは創造的な行為であり、創造とは新しい表現を生み出す事であり、よって既存の作品の模倣に終始した作品や車輪の再発明的に出来上がったものなどの新しくないものは芸術的と呼べない。というのが私の立場だ。なので実験性のない楽曲はどれだけ好きでも評価出来ない。そういう人間による批評だとご理解頂けるとありがたい。

魔法学校は何を試みたのか

「声」の実験性

「魔法学校」で最も重要なのは「声」だろう。あらゆる歌唱法の実践という肉体的なアプローチ、声をサンプリングし加工するという電子的なアプローチ、ファルセットにオートチューンなどのエフェクターをかける肉体的でありながら電子的という境界を曖昧にするアプローチ。あらゆる方法で声に対する実験を行った事がわかる。

Apple Musicが行った長谷川白紙へのインタビューには「声」に関する重要な制作の意図が記述されていたので引用する。

「一つの音響を発する一つの身体という一元的な
つながりをかく乱し、ぼやかすことが最終目標でした」

「何かの音を聴いて、それを発した人の身体を想像するというプロセスはあまり意識されていないけれど、とても大きいことのように私には思えるんです。例えば電話を受けた時、相手の容姿や体勢などを声から想像して加工するようなことは誰もがやっている。ならば、その加工のプロセスにどうにかしてアプローチできないかと思って制作を始めました」

インタビューの発言に私から何か付け足す必要はないが、聴き手が歌手の声質や歌い方から歌手の容姿や性別を想像して決めつける行為に対する批判的な意図が込められていると私は解釈している。

「Boy's Texture」はまさに「声」で構成された曲だし、あらゆる声色を実践した「Departed」からアルバムが始まり、重厚なコーラスの「Outside(Soto)」で終わるのも非常に一貫している。また歌詞も自らを曝け出し受け取り手の無意識への問いかけが含まれ、明確なメッセージがある。聴き手を「撹乱」しつつも煙に巻く事はせず、自らを曝け出すという行為は挑戦的でありながら誠実で敬意を表したい。

より複雑化された曲の構造

「エアにに」

「魔法学校」は前作の「エアにに」から大きく楽曲の構造が変化した作品だと思う。前作との比較の為に「エアにに」のソングライティングがどういうものだったのかを振り返ろう。「エアにに」を構成する重用な要素に「装飾」という概念があったと思う。「装飾」とはかねてより長谷川白紙自身が言及している概念である。これについては「夢の骨が襲いかかる!」のリリースに際して長谷川白紙が寄せたコメントが最もわかりやすいので引用する。

-これまでのわたしの曲の多くは、混沌とした膨大な細部が歌によって半ば強引に接着されるような構造を取ってきました。わたしはいつも装飾が本体に成り代わる瞬間を探してきたのだと思います-

これに対する私なりの解釈を簡潔に述べると、はじめに曲の「本体」となるピアノなどの「伴奏」があり、そこに緻密なパーカッションやシンセサイザーなどを付け足し続けていく事で、いつしかそれらの「装飾」が曲のアイデンティティを形成し「本体」と「装飾」という関係性が逆転するという流れが「エアにに」の主軸となる作曲法だったように思える。

しかし「魔法学校」収録の「Departed」「KYÖFUNOHOSHI」などの楽曲はコード進行が存在しながらも、以前に比べて「伴奏」の要素が希薄だ。つまり「エアにに」で確立した「本体と装飾」という関係性を根本的に破壊して更に進んだ作曲を実現したのだと私は考える。ここにも本作のテーマである「撹乱」を感じる。

音楽性の幅広さ

「魔法学校」は声の実験に留まらず、あらゆる挑戦をしているのは一目瞭然だろう。

中でも個人的に高く評価しているのはサンバを取り入れ、リズムの追求をした「Mouth Flash(Kuchinohanabi)」だ。7/8拍子、6/8拍子、ポリリズムなど複雑なリズムの変化があるにも関わらず、ベースもグルーヴィーで踊れる曲を実現しているのが素晴らしい。

「KYÖFUNOHOSHI」では打ち込みのサウンドと生演奏のサウンドが深く絡み合っているのも新しい。轟音のパーカッションが鳴りながら、サックスソロといったバンドのアンサンブルのような演奏もあり見事に電子音と生演奏の感覚が混ざりあっている。

ただ複雑な曲だけを書くことに執着する事はせず、「Forbidden Thing(Kimmotu)」「Outside(Soto)」のように大量の装飾やリズムの複雑性を取り払ったサウンドに挑戦している姿勢は曲の完成度の議論を一旦差し置いて、まず評価すべきと考える。

批判

曲の展開にはワンパターンな面も

ここまでは賞賛が主体だったが、批判もしていく。複雑な展開の曲が多い一方で「激しい曲調→静かな曲調→激しい曲調」という展開が多用されておりワンパターンな面もある。また静かになるパートで声にエフェクトをかける事が多かったり、音数を減らす時にパーカッションだけは大きく鳴る事が多い点も似て聴こえる。気になる方は下記の再生時間を目安にして静かになるパートの前後を聴き比べてみて欲しい。

Departed 1:19
Mouth Flash(Kuchinohanabi) 3:02
The Blossom and the Thunder 1:34
KYÖFUNOHOSHI 1:07
Boy's Texture 2:50

革新性についての疑問点

「魔法学校」はあらゆる手法に取り組んだアルバムだが「革新性」という点において、その全てが成功しているとも言いきれない。

「Gone」は実験的な曲ではあるが、前半のドラムとコードのフレーズは繰り返しでワンパターンに感じる。ラップが入るパートからビートが複雑に鳴り出すが、逆に考えるとビートに依存した展開とも言える。しかし、KID FRESINOのラップは凄いのでここは必ず評価したい。英語と日本語の使い分け方や複雑なリズムへの乗り方が面白い。

「Forbidden Thing(Kimmotu)」は「夢の骨が襲いかかる!」の時に試みたような大量の「装飾」を取り払った時に残る長谷川白紙の表現とは何かというテーマと似たものを感じる曲で興味深いし、アルバムのサウンドの幅を広げているのは事実だが、新しさが殆どないので私の立場では高く評価できない。

インタールードへの疑問点

魔法学校に限らず、私は基本的にインタールードそのものに懐疑的だ。理由は2つある。

1つ目はアルバムがシングルの寄せ集めではない事を示すには楽曲そのものがアルバムとして機能する必要があると考えるからだ。インタールードを入れるという事はその他の楽曲だけではアルバムが繋がらず、コンセプト性を十分に持てていない事を証明しているとも言えるのではないだろうか。なのでインタールードは楽曲が持つべき役割を委託してしまっていると考えるので評価が低い。

2つ目はインタールードをインストゥルメンタル作品として評価した場合に革新性がないものが多いから。ただ2つ目の理由は曲のクオリティが低い場合の話であり、優れた曲は正当に評価したいと考えてる。

以上の理由から「NENNEKOKOROMI」「Mahöinter (v2)」への評価は低くなっている。

「Enbami」もインタールードだが、先程も述べた通り完成度の高い曲は正当な評価をしたい。この楽曲は「撹乱」を実現しているので無視できない。長谷川白紙印のグリッチとでも言うようなサウンド。声と電子音の合わせ方が巧みで、人工的でありながら有機的なサウンドを実現。人間ではない未知の生命体の肉体から発せられるような音を作り出し、最後に「お相手は長谷川白紙でした」という挨拶が入る事で長谷川白紙とは人間という枠組みすら超越した存在なのではとすら思わせる。

おわりに

今回引用したApple Musicのインタビューの全文は下のリンクから読める。他にも魔法学校を鑑賞する上で参考になる情報が多く掲載されているので興味がある方は是非。再生ボタンと曲目の間にある文章をタップすると読める。

批判もしたが「魔法学校」は間違いなく傑作だと思う。アルバムのコンセプト、曲の構造、展開、リズム、メロディー、歌唱、歌詞のどれをとっても実験的な曲だらけで素晴らしいし、長谷川白紙が掲げた「撹乱」は間違いなく実現されている。

今回は批評記事なので感情は抑えて書いたので伝わらないかも知れないが、私は長谷川白紙が特別に好きだ。好きなアーティストのトップ3には間違いなく入るし、長谷川白紙の曲のピアノの弾き方の動画をYouTubeに投稿もしている。私は音楽の構造を根底から変えるような音楽に惹かれるので、長谷川白紙はこれ以上ない理想的な音楽家だと思うし本当に尊敬している。

ここまで読んで頂いた方々へ感謝を述べたい。

ありがとうございました。

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