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2台ピアノ編曲ノート 赤毛のアン

とあるコンサートのために大量の2台ピアノアレンジを進行中のピアニート公爵こと森下唯がその内容について個人的なメモとして書き残すnoteです。前回のノート(アクエリオンEVOL)に続いて今回は赤毛のアン! どんなラインナップだ!? と思われたみなさん、ぜひ詳しく見ていってください。


なぜに赤毛のアン?

そうさのう……それにはいくつもの理由がある。まず言わずもがな原作小説が名作だ。アニメ版も名作であり、かつ日本のアニメ史の重要な資料ともいえる(高畑勲、宮崎駿がいて、そこに「とみの喜幸」も名を連ねているスタッフリストは実際に目にするとなかなか感じ入ってしまう)。
そして、アニメ版の音楽(特に主題歌)がこれまた伝説的な作品となっている。
あとイベントタイトルに「想像力の音楽」と入ってるからね……アンは想像力にまつわる物語でもある。

これだけ重なれば、むしろ取り上げないわけにいくか? くらいのものだ。

三善晃と毛利蔵人について

「赤毛のアン」の音楽は歴史的な偉業と言ってよい。アニメとしての名作を格調高く彩った、ということもあるけれど、主題歌が三善晃作曲ということ自体がとんでもない。当時の三善は桐朋の学長業をはじめ多忙を極めており、そのため赤毛のアンでは主題歌を含めた歌ものを5曲ほど担当。残る劇伴などすべては毛利蔵人という弟子に託された。

ちなみに毛利蔵人は「もうり・くろうど」と読む。これは言ってみれば「江戸川コナン」みたいなもので、モーリス・ラヴェルとクロード・ドビュッシーの名前を並べた形になっている。話によればそのペンネームを後に法的にも本名にしちゃったとかで、筋金入りのフランス音楽愛好者ということ、三善晃直系ということがめちゃくちゃに伝わってくる。

三善晃さんにはいちどだけご挨拶したことがあった。東京音楽コンクールの授賞式のとき。短い時間だったが、深い眼差しというのはああいうことを言うのだろうという印象が強く残っている。

三善晃の楽曲の「手心」

三善は難解で複雑な音楽をたくさん書いているし、その高度に知的な作風で印象づけられているけれど、さまざまなタイプの作品に等しく真摯なスタンスで取り組んでいたように見受けられる。子どものためのピアノ曲集などが知られているのもその一例で、平易さと奥深さの興味深いバランスが実現している。

多くの他者に理解され得るレベルに降りてこようとすることで初めてとれるバランスというものはあるし、表現の目指す方向性を大勢が了解している状況の中でこそ読み解きが可能な細部の魅力もある。個人的にはそんなふうに思っている。赤毛のアンの楽曲の素晴らしさも、そうした部分にあるのではないか。

スコアを見ながらの編曲

手書きのスケッチとスコア(のコピー)を特別に見せていただけた。編曲作業の効率という意味でもありがたかったし、純粋な喜びでもあった。スケッチの段階でどう発想し、スコアにする際にどう発展させ、レコーディング現場でどのような判断や変更が加えられたのか、すべてが見て取れる貴重な資料。

譜面にする作業は耳コピ採譜より遥かに楽ではあったが、やはり情報量と密度は思い知らされることにはなった。2台のピアノでようやくなんとかなるレベル。とてもソロでは弾けない、全部の要素がないと成立しない音楽、という意味では前回の話と通ずる。

スコアを見て改めて感じたのが、安全策をとるとこうはならない、攻めた絡みが頻発するにもかかわらず、それらが絶妙にコントロールされているということ。そもそも楽器編成も変則的なのに、すべての響きが重なるとどうなるかというヴィジョンがかなり正確に頭にあることが見て取れ、感嘆する。

歌ものであること

今回の「赤毛のアン」の曲は、すべて歌もの。

三善晃は日本語のイントネーションを大事にするスタイルを持っていて、それは毛利蔵人にも受け継がれている。たとえば、1番と2番で歌詞が変わると、メロディーが変わったりする。時代的なものともいえるが、アニメの主題歌としては珍しい。

今の時代は、どんなイントネーションの単語でも同じメロディーに詰め込んでしまうのが当たり前のスタイルになっているが、言葉を優先する美しさというものも確かに存在する。

ピアノでは歌詞は消えてしまうけれど、おふたりが大切にした言葉が聴こえてくるような編曲を目指した。

各曲について

原曲の作詞はすべて岸田衿子、歌唱は大和田りつこ。

きこえるかしら

三善晃作曲、オープニング主題歌。第1話、駅で迎えの馬車を待つアンの期待に膨らむ心情を表した内容で、躍動する馬車がアンの想像の中を飛んでゆくいきいきしたアニメーションにあてられている。

原曲で印象的なのが、低音楽器が左右にふられて、別々の動きをしているところ。具体的にいうと、トロンボーン群が左のチャンネルにいて、サックス群(バリトン含む)が右側にいる。

低音域が極端に広がっているという音像は録音作品として一般的ではないが、この曲では両側に振られた低音が楽曲を縁取り、また支えるような効果を生んでいて魅力的だと思う。まるででこぼこ道で馬車の両輪がそれぞれに振動を伝えてくるかのような……。

本来なら低音に別々の動きをする楽器が混在するのはなかなか勇気のいることだけど、両側に振る前提もふまえ、これで大丈夫だとわかって作曲している。

「きこえるかしら ひづめの音」という歌詞とともに、まさに馬のひづめのリズムを思わせるボンゴなどもはいってくる。ピアノだけだとそれらチャカポコが入れられないのが残念だけど、全体のリズムが十分その要素を持っているので(クラシックの編曲技術に精通していると自ずとそうなる面はある)、今回は鍵盤以外を叩くようなことはせず、具体的なひづめの音要素はまるっと諦める方針でいった。リズムだけでどんなふうに馬車の感じが出せるのか、実際の演奏を聴いてみていただければ。

森のとびらをあけて

三善晃作曲。肩の力をぬいた曲。ブルースふう。
スコアを見ておもしろかったのが、(ハープはペダルで音階を決めるが、そのハープのペダルが)楽譜に書かれているのと録音で違っているようにきこえるところ。レコーディング時に変更があったのではないかと考えられる。

今回の編曲では、あえてスコアに書いているほうを採用。スコアにはブルーノートスケールのような響きのでる音が書かれていた。ブルーノートスケールとは、長調の3度の音と短調の3度の音が混在しているような音のことで、ジャジーな雰囲気が出る。そういう、三善さんが当初想定したようなおしゃれ感が、2台ピアノではちょうどの塩梅で表現できるのではないか。

こういうこと、ふだん編曲してるときは言わないし書き残さないんだけど今回は出しちゃう。

わすれないで

毛利蔵人作曲の挿入歌。原作アニメを見た人はわかると思うけど、ダイアナと友情の誓いをするときに流れる、大切な曲。
歌にたいして明確に管楽器の対旋律をあわせていくのが毛利の十八番とも見え、そこが曲の構成として重要。
音域も重なるふたつの旋律が同居するので、ソロアレンジにするのはなかなか難しいタイプの曲であり、だからこそ2台でやることに意義があるのではないかと思う。

毛利さんの曲はスコアがない状態(耳コピ)で編曲したので、三善さんの曲と比べて再現度に差が出ないよう、細心の注意を払った。

涙がこぼれても

毛利蔵人作曲。アニメ最終盤の重要演出としても使われている曲で、ついマシュウの名台詞を思い出す人も多いのでは。ただ、この曲自体は明るい曲で、涙がこぼれても自然とか見ていると消えていくね、というようなどちらかといえば軽やかな歌。

前曲と同じく歌のメロディーと管楽器のメロディーと、それぞれ印象的なものがあわさっているので、別のものとして聴こえてくるように編曲した。歌詞による旋律の変化が、維持されるオケとやや馴染みづらいところがあって、原曲では成立しているがすべてピアノの音色になるとちょっと怪しい。そのあたりは編曲にあたってオケ部分に手を加えた。

さめない夢

原曲も出だしからピアノのころころと回転する動きが印象的。2台ピアノ編曲としてはまずこれがやりたかった、というところがあるのだが、ちゃんとみてみるとピアノとマリンバとチェレスタがそれぞれ別々の動きで追いかけまわったりしている。ピアノ2台で再現はどだい無理なのでは?

……となりかけたけど、なんとかできた。結果的に弾く人は大変だと思うけれど。当然ながら、それらの細かい音が入っていればそれでよいという話ではなく、歌手の歌声の、無垢な感じやのびやかさ、景色の広がりも出さないといけないのだ。

サビになるまえにオケだけでやる印象的な場面がはさまっているのだけど、そこはスケッチにない。スコアになる段階で挿入されている!
経緯を想像すると興味深かった。尺の問題が主たるものであろうが、作曲家の思考の流れが垣間見えるというか、結果的にそこの盛り上がりもすばらしい場面になっている。

OPとEDについては、特に情報量が多くて密度が高かったから譜面に落とし込むことに苦労したけれど、最終的な演奏難度としては、ちょっと苦労するけど耐えられないほどではなく、心を込めて音楽に向きあえるレベルの編曲に仕上げた……つもり。あれだけの豪華なオケと歌が、どう2台のピアノに凝縮されているか、会場で目撃して欲しいなと思う。

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