子どもはまだ人生を知らない
数日前、かれこれ三十年来の友人の誕生日でした。
おめでとうと一言メールを送ったのですが、その返信で彼のこれまた四十年来の友人の話が出て(仮にS君)、S君もまたおめでとうとメールをくれたのだと。
でも、そのS君。昔から山あり谷ありの生き方をしていて、S君が今どこで何をしているのか仲間の誰も知らないと。
その時に僕が返したのが、
たとえどんな状況であっても。
弾丸が飛び交っていたり、荒れ狂う猛吹雪の中だったりしても。
ああ、今日はアイツの誕生日だったな。
元気にやってるかな。
あの時は楽しかったな。
と、友を思い手紙をしたためる。
その時間こそが人生だと思う。
なーんてことを。
だから、そのメールのやりとりの時はS君も彼も私も人生の真っ只中にいたといえる。
ひるがえって子どもらは
ただひたすら動いている。
ただただピンポールの如く。
発射された玉があっちにこっちにぶつかり穴に落ち、またよじ登って発射して。
ただただ動き回っている。
それで良いのだ。
いや、私の価値観や許可など関係なくそうなのだ。
そして、それこそが来たるべく人生のための貯蓄ではないのか。
この世界に発射され
未だ終わらぬピンポールの如き生活の中、
ふと立ち止まって友を思う瞬間のための。
だから今のうちにたくさん動き回ると良い。
背中をどつかれ坂を転がり、あっちにこっちにぶつかって池に落ち、よじ登ってまた突き落とされて泳いで渡って見知らぬ場所でまたどつかれ…
とにかくうんとたくさん心や身体を動かすと良い。
なんて命令なんかには従わない子どもらは
今日も激しくピンポールの如き世界を走り回っている。
令和3年2月11日 ピンポールって知ってる世代?
※写真は今年の河津桜。もう春ですねえ。
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