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ある接骨院の思い出

この話をある接骨院のGoogleマップのコメント欄に書こうと思ったのですが、なんだか押し付けがましい感じがして恥ずかしくなったので、ここにそっと置いておきます。


まだこの診療所が山の向こう側にあった頃、僕は小学生でよくこの接骨院にお世話になった。その頃はちょっと足をひねったとか、転んだとか、昭和の男の子なら唾をつけて治されるような事でも、なにかと理由を付けてはこの接骨院へ足繁く通った。

ある時は友達と(その彼は高いところから飛び降りたり崖をよじ登ったり上級生と殴りあったりの本気の怪我が多いタイプだった)今年は何回この接骨へ通ったかを競争していたくらいだ。

今から思えば思春期をむかえた少年にとってここは家と学校以外の大切な居場所の一つになっていた。

その理由は3つある。

ひとつは僕が体育嫌いだったからだ。その頃は昭和の男の子なら誰もが憧れるスポーツにも興味がなく、その他強制される運動という運動が僕にとっては苦痛でしかなかった。だからちょっとした怪我でも接骨院に通っていれば体育をサボる理由になると、すこしズルく考えていたのかもしれない。ふざけてワザと、しかしどこか狙って足を挫きにいったこともなきにしもあらずだったと思う。

いや、接骨院の先生は少しも悪くない。昭和のドラマに出てくるような下町の豪胆な先生ならそれを見越して、こんくらいはアカチン付けとけばなおるわガハハと追い返えすのかも知れないが、こちらの先生方は怪我の程度によらず丁寧にみてくださった。

二つ目の理由は、いつも先生方が僕をチヤホヤしてくれたことだ。

ちなみに先生"方"というのは、ここの接骨院は後輩の育成にも力を入れていて、院長先生の他にも何人もの若い先生が下宿しながら修行に励んでいたからで、その先生達がよってたかって僕をチヤホヤしてくれたのだ。思春期のもはや可愛い子どもとはいえない図体になった内気でスポーツの苦手な少年にとってチヤホヤされる場所なんてそうそうない。

何故チヤホヤされたのかは個人の特定に繋がるのでここではあえて控えるが、とにかくこれ程チヤホヤされる場所はもっと幼い頃の盆暮正月の親戚の集まりくらいでさえ遠い記憶だったのだ。

チヤホヤのおかげでさらに心地よかったのは先生方が僕の話を面白がってよく聞いてくれたことだ。スポーツが苦手で、代わりに本を読み過ぎて頭でっかちになった少年の問答によく付き合ってくれた。

特に覚えているのは、ある時僕が「自殺する人はすごく勇気がある」と話しだしたときだ。高いところから飛び降りたりなんていうのは勇気がなければ出来る事ではないと思ったのだ。その発言の裏には思春期特有の死への畏れと欲動みたいなものが渦巻いていたのだろう。そんな時も「そういうのは勇気とは言わないよ」と先生の誰かが優しく諭してくれたのだった。そうやって突拍子もない僕の話を聞いてくれる場所は他には無かった。

最後の理由は、今から考えればそうだったのかもしれないと思ったことだ。

最新の接骨院の治療法はどんなものか僕は知らないが、当時は患部を手でマッサージしてくれる事が多かったと思う。その際、床屋やタクシーならサービス中に目を合わせることはあまりないが、ここではたいてい対面なので、否が応でもマッサージ中は皆んな世間話に花を咲かせていたのだ。

おそらくその時間は、部屋にこもることが増え、親におんぶや抱っこをされなくなった一方で、強烈に他者を求めるようになった思春期の少年には大切なコミュニケーションとスキンシップの時間だったのだと思う。

今でこそただ手を握るだけの心の治療法などもあるときく。きっとこの場所のそんな癒しの効果にも惹かれていたのかもしれない。

さて、思い出話ばかりになってしまったが、あらためてこの接骨院の素晴らしさを伝えてこの文章を閉めたい。

冒頭に書いたように、この接骨院は後輩の育成、指導にとても力を注いでいたように思う。

ニーチェ曰く、樹木で大切なものは「果実」ではなく本当はその「種」だと。

きっとこの成熟したベテランの接骨院から溢れたいくつもの種は世界中にひろがって、やがて芽を出し、いつの日か大きな樹木になって地域社会を支える。この小さな町の接骨院はそのような場所でもあるのだと思う。

昔も今もこれからも。

小さな思い出話にお付き合いくださいましてありがとうございました。


令和3年8月23日 少しずつ秋の気配に

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