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黒い扉の中で‐2004年の精神科病院-【完全版】

医者から学生時代の成績を何度も無理矢理聞かれ、我慢ならず机を右拳で思い切り叩いた。それに呼応するかのように敵意剥き出しで精神科医も立ち上がってくる。父が精神科医を制止しようとしたのだろうか。ゆっくりとしたタックルを医師の胴体に見舞った。すると、「あなたは何をするんだ」と神経質な声とともに、父の顔を鷲掴みにして、顔を起点に身体をねじ曲げようとした。すると今まで感じたことのないような感情が自分の中で起こった。間髪入れずに精神科医に、思わず頭突きを見舞った。その後、何人もの看護師が診察室に入ってきた。揉みくちゃにされながらも、右手の人差し指と薬指で、精神科医の眼球を突こうとしている自分がいた。

その後、警備員と2人にされた後、2人の警察官が入ってきた。恐いタイプの警察官と穏やかなタイプの警察官だった。保健師2人に同行され、車に乗ってしばらくしたところに病院があった。森の中にあるのどかな病院だった。昭和中期を思わせる病院だ。入院病棟らしき建物の外には、広めの庭があり、古びたバスも置かれていた。時々、人が通り過ぎていく。お見舞いなのか、どうかは分からない。少しずつ少しずつ、扉は開けられるのを待っているようだ。その後の世界で待ち受けている世界は、健常者時代とは異質な世界であった。

顔中にナメクジが張り付いたような男の顔があった。覇気などというものは微塵もない。半袖に短パンの姿で、ただ立ち尽くしている。

見たこともない機械があった。煙草を吸うために数十秒押し付けていると発火する装置だった。 

やがて1人の男性を看護師から紹介された。初めまして桑田です、と中年の男は言った。向こうもこちらを警戒しているのが見て取れる。こちらも挨拶をし返した。同部屋の桑田さんだった。

他にも挨拶をしていると神経質そうな男が

話しかけないで、あと距離を取ってと言葉を警戒のための武器として使っていた。

俺が一番強い、俺が一番強い、と壊れたおもちゃのように繰り返し言い放つ男もいた。

色々あった一日が終わろうとしていた。過度に疲れていると薬なんか飲まなくても眠れそうだった。

目を覚ますと、自分が誰だか分からない。

どこに自分がいるのかも分からない。少しずつ状況が分かってきた。そうだ、ここは病院だ。昨日入院して、今日は2日目だった。早朝特有の感じが心地良かった。

6時になると朝食の時間だ。刑務所の食事はこんな感じなのかなと思うくらいにマズかった。食事というよりも、体内に固形物を流し込むという作業のようだ。食事を済まして、早く煙草を吸いたいかった。

とにかく時間があり余ってしょうがない。食事や排泄も、時間潰しになっていた。煙草は1日に一箱と決められていたので、あまり自由気ままに吸えなかった。配分をつい考えてしまう。

3時間後の朝9時になると主治医の塩田先生との診察があった。体調の報告や考え方、今後の希望を出した。

診察を終えて、みんなが集まる所に出て行くと、ひときわうるさい男がいた。テンションが高いまま、その状態が持続されている。話してみると、同じ年齢だった。双極性感情障害の男性だ。たくさん患者がいる中、同年代の男性は珍しく、話しは尽きなかった。

数日後、食事の後に薬を飲むため、看護師の前の列の中に体格のいい男性がいた。日本のマフィアと言ったらいいだろうか。興味本意で話してみると、元傭兵で元右翼、ユダヤ教に入っていると言っていた。

やがて正午前になると、お見舞いの家族も来ていた。写真を常に携帯している男性の元へ、兄弟と思わしき男性が近づいて話していた。お兄ちゃん、また来てね。お兄ちゃん、また来てね。何度も繰り返し別れの言葉を言う男に妙な印象を受けた。

同年齢の新井とは、よく机を卓球台代わりにして遊んだ。その光景を斜視の男性が見つめていた。

新井が言うことには嘘が多かった。本人が言うには将来は警察官僚になるとのことだった。斜視の金子は、警察学校の食事はうまいだろう、と言っては新井に話しかけていた。

学生時代は授業は嫌いだったが、こうも暇だと午前午後に1つずつあるプログラムが有難かった。習字のプログラムを楽しんでやるなんて自分でも変だった。

少しずつ夕方に近づいていた。夜6時になると早めの夕食を強制された。きっと看護師たちの勤務時間の関係もあるのだろうと思った。

昼間の明るさが消え、夜になって暗くなると人間はこうも不安や恐怖が出るものだ。とにかくマイナスの感情しか出てこない。度々、看護師に相談していた。

そしてまた1日が終わろうとしていた。

アップライトピアノが置かれていた。高校時代を思い出すかのように、ガンガン弾いていた。と突然、物音と怒号が飛んでいた。

近づいて話しかけてみると、俺の分からない曲を弾くなと中村は言う。昼の時間なら弾いてもいいかと尋ねると、ダメの一点張りだった。思わず、「あんたの考えの方がよっぽど分からないよ」と言い放ってしまった。視野が狭くなり、周りの光景が歪んで中村の姿しか視界に映らなくなっていた。もう少しで喧嘩になりそうになった時には、看護師が俺と中村を引き離していた。

夜の食事は中村から距離を取り、詰め所から近い席で食べるように促された。

今日もいろいろあったな、と振り返ってベッドに横になろうとした。とその時、廊下から何か違和感を感じた。中村が暗い廊下の中、冷静な目で俺を見つめていた。

危ない、このままいたら。相手を威嚇するために、シャドウボクシングを始めた。ドアを開け、出て行こうとすると同室の桑田さんが行くな、と俺を制止した。その僅か数秒に助かることになる。廊下の中村を取り囲むように次々と夜勤の看護師が駆けつけて来た。

ダメだよ、中村さん。滅茶苦茶にしてやるよ、の繰り返しで会話になっていなかった。

ガッチャン部屋行きだな。同室の桑田さんが言った。いわゆる保護室というものだ。「数日間は出てこれないぞ、安心しろ」と桑田さんが言うと、疲れとともに眠気がきて、眠りに落ちた。

第2病棟に移ってください、と主治医は言い放った。中村が保護室から出て来た時にトラブルを避けるためだろう。

嫌ですと断るが、考えておいてほしいと主治医は繰り返し諭してきた。

時間が経つにつれて、別に病棟ぐらい変わってもいいかなと思えてくるから不思議だ。考えや気持ちが一貫しなかった。

その意思を伝えると、主治医は少し安心したかのように、ありがとうと礼を言ってきた。

第2病棟に移る際に廊下ですれ違った女性の看護師が俺を見て、視線を下に移した。なんだか幸先よくないな、と思ってしまった。

新しい病棟は矢沢という男性が仕切っていた。

全体的に第1病棟より建物の構造が違っていて小さかった。天井が低い。トンネルを人工的に掘って、無理矢理に部屋を作った感じだ。

この病棟でも煙草を吸う時は、数十秒発火するのを待たなければいけない昭和式の機械があった。

前の病棟から俺よりも先に移動していた広沢君がいた。挨拶をしても、なぜかぎこちない。どうやら環境が変わると人格まで変わってしまうらしい。

広沢君が視線が定まらない男性と口論になっていた。

なんだよ、やるのかよ。殺してやる。殺してやるだってよと広沢君が笑っている。

第2病棟を仕切っている矢沢と広沢君は仲が良いみたいだ。

この3人で卓球がやりたかったが、卓球台が置かれている部屋は台の上まで荷物でいっぱいだった。

ふとその隣の部屋を覗いて見た。ドアがないから変な感じがした。 

未成年らしい少年が佇んでいた。チラシらしき紙をこれ以上チギレないというくらいチギッていた。そのチギッた紙は、山のように積もっていた。

と目の前に男性の手が出て来た。看護師の手だ。見ないほうがいい、という合図だった。

この病院には建物の中央部分に庭がある。四角形の中の空白部分が庭になっている。

正午のお昼ご飯の前になると、平日はラジオ体操があった。その時間を見計らって、第1病棟の人たちと話をしたかったが、病棟ごとに数分ズラして体操をするため、話ができなかった。

第1病棟の人たちが建物の中に入り終えると、第2病棟の人たちが中庭に行くことになる。

体操が始まる前に、俺は第1病棟の方へ駆け寄った。話をしたくて、鉄格子を挟んで声を発した。

名前を覚えていた中年の男性に声をかけたが、もう違う場所の人という認識で見られているのが明らかに分かり、これ以上声をかけるのを諦めた。

大人しくラジオ体操をして、寂しさを紛らわした。

第2病棟に移って来てからも夜を迎える度に、また不安や恐怖が膨らんだ。

朝になると、また自分が、場所が分からない。

3日目の夜には、当直の副院長に診察をお願いして、病棟を元の第1病棟に移してもらえるように必死に頼み込んだ。主治医は第2病棟に移った日に、出張に行ってしまっていたのだ。

懇願しても、状況は変わらなかった。

病棟を移ってから4日目を迎えた。苦しい、真綿で首を締め付けられているようだった。時間が経つのがやけに長く感じる。

逃げたい、逃げ出したい、逃げれない。何かをやろうという気持ちが、蒸気のように抜け出していく。

また副院長に診察をお願いした。うなだれている自分だったが、なんとか懇願した。このままでは自殺か発狂だと。その言葉を聞いた医師も驚いていた。

その場にいた2人の看護師も、この病棟は天井が低くて狭い、同年代の話し相手がいない、と助け舟を出してくれた。

分かりました、1日待ってくださいと医師は言った。

翌日、母と祖母がお見舞いに来ていた。男性の看護師に病棟の移動を確認すると、1時間後だと言われ、思わず崩れ落ちてしまった。糸の切れたマリオネットのように膝が抜けた。何も考えられない。母、祖母共に3人で抱き合っていた。自然発生的にだった。

元の第1病棟に戻ると出張から帰って来た塩田先生が苦虫を噛み潰したように怒っていた。

なぜ第2病棟に適応できなかったかを紙に書き出すように言われ、1つ1つ書き出した理由を聞き出された。

まさか嘘をつくわけもなく、医師の考えが分からなかった。

第2病棟に移動する前に、連日診察してもらった時、学生時代からの振り返りをはじめ、長年の話を聞いていて、うまくいかなかった時の癖を見つけ出そうとしているのだろうか。自分で思いつく限りは書き出してみたものの、本質的な原因が分からない。

主治医は聞き取れない声で独り言を呟いていた。

1週間の終わる金曜日に音楽のプログラムがあった。スマップの世界に一つだけの花が流行っているのだろうか。ベルで鳴らしながら、音楽を楽しもうという内容だった。

とにかく外の生の情報が入ってこないせいか、新聞の活字をたまに読んでいても、いまいちピンとこなかった。たまに知る断片的な情報では理解できなかった。

暑い8月も終わる頃にカラオケ大会があった。部屋対抗の部、個人の部とあり、俺は両方とも参加した。 部屋対抗の部では課題曲を歌い、個人の部では自由に曲を選んでもいいということだ。

音楽のプログラムで知った、スマップの曲を歌うことにした。それまでカラオケで歌う時は、歌詞を通して情景が浮かぶ事はなかなか無かったのに、この時は自然と現実とシンクロしていた。歌詞の意味と同化して歌えたような感じがした。カラオケの審査員を務めていた内田医師が優勝は俺だと言った。やはり賞を取るのは嬉しいものだった。

もう一度第1病棟に戻って来てからは8人部屋だった。前にいた時が2人部屋だっただけあって苦痛だった。幸いにも廊下側のベッドで良かった。

入院中は暇過ぎるから、電話も楽しみだった。公衆電話が2台置いてあり、テレホンカードが必需品だった。その公衆電話で家族や友人、先に退院していった人にかけていた。

その中の自称元傭兵の芦原さんに電話をかけていると、君が今いるベッドは私がいたんだよと言っていた。正直少し驚いた。私の念が残っているよ、と困惑することも言われた。そう言われるとそんな気になってしまうから不思議だった。

将棋もよくやるようになった。暇だからだ。中年のおじさん達とよく将棋をやった。オセロだと俺が圧勝して怒らせてしまうこともあったからだ。

将棋の強弱で、人としての優劣まで決まってしまうような感じもあった。「中村さん、将棋やる?」と試しに言ったら意外とすんなりやると答えて来た。俺を夜襲おうとした中村さんだ。保護室から出て来ていたのだった。狭い空間だからいつまでも敵対しているのも疲れてしまう。お互い距離感を調整し合いながら、コミュニケーションを取っていた。

だがたまには怒りだすから困った。桂馬は横には動かない。そう連呼していた。それはそうだ。持ち駒から取ってまだ1コマも動いていない桂馬の隣に置いたのだから。2人部屋で同室だった桑田さんを呼んで来て、仲裁に入ってもらったりした。少し穏やかな日々が流れていた。

平日はまだプログラムがあったり、看護師が多くて会話ができたが土日になると辛かった。プログラムもなく、看護師が少なく会話がほぼできなかったからだ。

若い男性の看護師に苦しいと伝えると、なぜか笑顔で「もうちょっと」と言っていた。何がもうちょっとだ、ふざけるなと正直思ってしまった。苦してもその状況に耐えながら機を伺うしかない、そんなことも紙に書いたりしていた。紙とペンは親からの差し入れだった。

自分の考えを紙に書き出して、それを眺めて色々考えていた。プロレスや格闘技、武道の雑誌も読める時は読んでいた。だが読める時はほんの僅かで、読もうとしても読めないことのほうがほとんどだった。

自称元傭兵の芦原さんに、武道の話をしたりすると、知ってると何を聞いても言っていて胡散臭かった。時々、本当に傭兵だったのか本で知った知識なのか分からないけど、的確にこちらの言動に合わせてきて不気味だった。

アル中の永松さんは反省も兼ねて入院したと言っていた。娘が受験で、とてもこんな姿見せられないですよと言っていた。初めは夜飲むのがやめらなくて、そのうち昼間でも飲んで、しまいには職場の日本酒を隠し飲んでたんですよ、私板前だったんで。

永松さんは苦笑いしながら言う。これで煙草もやめたら私の楽しみ何もないですよ。

色々な患者を見ながら、こうはなりたくないなとか、昆虫図鑑に採集していくかのように、人生のサンプルにしている自分がいた。

そんな態度が気に食わなかったのだろうか。昼食を食べた後に横になっていると宮城さんが急に廊下の窓ガラスを開けて、「私を踏み台にしないで下さい」と言ってきた。正直に踏み台にしようとしている自分がいると告げると、宮城さんは、あなたの年齢ではそう思うのもしょうがないとすんなり許してくれた。

看護師がアルコール中毒で入院している永松さんの名前を呼んでいた。永松さん、解放病棟に上がる準備をして下さいと看護師が言うと、男性ばかりの第1病棟は、おめでとう、と言う拍手で包まれていた。

開放病棟の第6病棟は、老人ホーム化してしまっているらしい。長期入院だったり、身寄りがない人達で固定してしまっていて回転が悪いというのだ。家族の事情も兼ねて永松さんが選ばれたのだろうか。俺も何も問題を起こさなければ、開放病棟に上がれるのだろうか。

まだ分煙が普通だった状況で、俺は煙草を燻らせていた。

だんだんと苦しくなってきていた。同い年の新井を初め、話し相手が退院したりで少なってきていた。

廊下を、俺は行ったり来たりしていた。ブツブツと独り言を言いながらだ。幻聴からくるものではなく、肯定的な言葉を呟いていないと、ますます気がおかしくなりそうだった。

ツイてる、ツイてる。大丈夫、大丈夫。周りからどう見られているか、どう思われいるかなど気にしていられなかった。苦してしょうがなかった。

9月の中頃だった。「明日、開放病棟に移れるよ」と俺に男性看護師が言ってきた。

看護師長の勧めもあって、前日に見学をすることになった。第2病棟でうまくいかなったこともあって、環境に慣れることを重視されていた。

開放病棟は日中は冷房が切られていて、少し蒸し暑かった。

開放病棟の部屋は男性だけの8人部屋であった。桑田さんに手伝ってもらって、閉鎖病棟から荷物を上げていった。少し名残惜しさもあったが、嬉しさのほうが勝っていた。

夜、消灯時間が過ぎた。歯磨きをしてから、偶然桑田さんの部屋を覗くと、目が合った。呼び止められ、部屋に入っていった。開放病棟に行く祝いということで、一緒にポテトチップスを食べた。バレてももうなんてことはないだろう。桑田さんの笑顔が屈託なく、こちらまで嬉しくなってきた。お前とも今日で最後だな。そう言っていた桑田さんの表情が印象的だった。

翌日、開放病棟に上がった。建物の構造も兼ねて2階にあるので、みんなは上がる、という表現を使っていた。

中央の所はみんなが使う場所で、その奥のいくつかの部屋が女性の第5病棟になっていた。

看護師から、ここから先は行ってはいけないと言われた。当たり前だ。せっかく苦労して開放病棟に上がったのに、みすみす自ら閉鎖病棟に落ちるようなことはしない。

共同の食事処には少し段差があり、畳が敷かれていた。そこではトランプの遊びを女の子同士でやっていた。一緒にやるかと言われ、とりあえずやることにした。トランプに集中していた。「ねえ、私と付き合って」1人が言ってきた。開放病棟に上がってきたばかりで、とてもそんな気になれなかった。体良く断った。トランプの大富豪の遊びは集中できていなかったせいか負けてしまった。

消灯時間になり寝ようとすると、ギシギシ物音がし始めた。気配もおかしい。周りを見渡すと同室の俺以外の7人が、筋トレを始めていたのだ。ベッドの柵に手を当ててスクワットをする初老の男性。黙々と腕立て伏せをする筋肉質な人。ジムでもないのに異様な光景だった。少しでも筋力を落とさないためだろうか。夜の精神病院はジムだった。

開放病棟に上がった日に、もう1人女の子から告白されていた。左手には無数の傷があった。最初はなんだかわからなかったが、リストカットの痕だった。左手首から肩の下まで、びっしりと傷があった。その傷1つ1つが独立した線のように感じた。

最初の1週間は開放病棟の外へは出ていけないというルールだった。食事の時以外の飲み物は、熱い麦茶だけだった。それ以外は水を飲むしかなかった。

煙草は喫煙室があり、その中で吸えばいいみたいだ。閉鎖病棟とは違って、喫煙者が喫煙室の中に入るのだ。ねえ坊や、私の煙草と交換しないと言ってきた中年女性もいた。あっさりと断った。

やがて1週間が経ち、病院の敷地内なら出ていいことになった。

入院前に見たバスが置かれている所で、男女交えながら4人で話していた。病歴が30年以上あるという男性が「君たちとは訳が違う」と自慢げに強気に言っていた。長い病歴が自慢なのだろうか。板ガムを女の子2人に渡して、立ち去って言った。

開放病棟に上がると、毎日母からお見舞いの手紙が届いた。その度に病院の受付へ取りに行った。

金曜日の音楽プログラムに出るために、閉鎖病棟に降りて行った。何人かの看護師は、俺が問題を起こして降りてきたのかと勘違いしていた。

ベルを使った内容で、ジングルベル、ジングルベルとみんなで言いながら遊んでいた。

ある時、同室の淀川さんがインフルエンザに罹ってしまった。いつも黒いサングラスをしていて、筋骨隆々な人だけあって、正直意外だった。開放病棟では面倒を見られないということで、閉鎖病棟に降ろされいた。

不可抗力だよ、と隣ベッドの岸さんは怒っていた。スピリチュアルな話で俺と気が合っていた。音楽の好きな歌手が共通していたのも、仲が良くなるきっかけとなったのだ。

神との対話は読むなって主治医に言われてるんだよ。僕は薬飲むのは、もう止めていいんだと言っていたのが印象的な岸さん。

あまりにもスピリチュアルな発言が多かったため、俺はスピリチュアル中毒ですねと言ってしまった。だが以外にも怒ったりはしなかった。

やがて病院の敷地外でも行っていい許可が降りた。近くのコンビニに行くのが楽しかった。コンビニではおでんを1つ買うと、あと2つおまけで付いてきていた。たまごや大根をおまけでよく買うようになっていた。

なんだろう。元気が出ない。少し疲れているのだろうか。塩田先生に不調を告げると、不調でもなんでもないですよ。気にしないことですと言われ、そんなものかなと思った。

同じ患者同士で会話をしていても、何か間が抜けているというか、変な感じがしてしまう。男性の看護師から声をかけられた。少し様子が変だね。気づいてる人は気づいているのだろうか。不調にもかかわらず、いえ大丈夫です、と強気に言ってしまった。

少しずつ意識が薄まっているような、歪んでいるような気がする。なんだかおかしい。だけど、どうおかしいのかを言葉にするパワーがまだなかった。

開放病棟に上がってきてから、3週間ぐらいが経っただろうか。中村さんが新しく開放病棟に上がってきた。

彼は畳の部屋だった。正直、畳の部屋だと毎日布団を押し入れの出し入れがあったから、ベッドの部屋で良かったと思った。

第2病棟で一緒だった広沢君も開放へ上がってきていた。環境が変わることで、また人格が変わってしまうのだろうか。見ているこらち側が不安だった。

俺、温田。インポ。初対面の挨拶にしては変わった人だった。愛くるしい顔をしていたが、言っていい事と悪い事の区別が付かないのだろうか。温田の少し後ろには彼女らしい女性がいた。漫画を描くのが特技みたいだ。見せてもらったが、とても俺には描けない感じだった。

2階からは1階の中庭がよく見えた。開放病棟は特にラジオ体操はなかった。

お昼頃になると桑田さんがラジオ体操をやっていた。数年間やっていなかったようだが、俺が閉鎖病棟の引きこもりみたいだと言った事が応えたのだろうか。よく見かけるようになった。

この中庭を起点とした四角形の病棟では、毎日トラブルや揉め事、人の数だけ悩みがあるのだろうか。ふと数秒間だったが、空想していた。早くこの空間から出たいな。











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