小説がむいていないと気付いた日


小説を書きたいと10年ほど葛藤し、努力をしてみたが、どうあがいてもできないことだと今頃になって気がついた。

幼少期から内にに引きこもりがちだったので、ご多忙にもれず読書しがちな学生時代を過ごした。
裕福な家庭ではなかったので、小説は文庫本を買い、なるべく厚さのあるものを求めた。
安くて分厚ければ、長い期間をかけてじっくりと読めると思ったし、経済的にも負担が減ると考えたためだ。

ずっと小説が好きなんだと思い込んで生きてきた。
だが、ここ数年、HSPという自らの気質と向き合っていくなかで、
どうやら違うことに気がついた。

小説より、写真集や歌集、詩集、絵本など、言葉の少ない本のほうが、
そして、写真や絵が文字より圧倒的にページ内のスペースを占有している本が好ましいと感じるようになった。

さらには、小説の創作感がなんとも落ち着かないのだ。
小説とはそういうものだが、どうにも「作った感じ」がするのが、胸につかえるようになった。読書で胸やけとはなんとも奇妙な話だし、小説とはつくったものであるわけで。
そうさ、本末転倒だとも。

年齢を重ねるごとに、小説を読むよりもエッセイや脚本集のほうが肌になじむようになった。
……悪く考えるのはよそう。良いほうに転がったのだ、そう思おう。

「何か文章を書きたい」
学生時代より切望していた感情は、いい大人になっても消えず、「文章」とはすなわち「小説」だと一辺倒に考えて生きてきた己の思考の狭さに、今はただ、「そうやって人は学ぶのだ、気に病むことはない」と言い聞かせている。

数年前のNHKの朝ドラ「エール」(作曲家 古関裕而氏をモデルにした作品)のなかで、森山直太朗さんが演じる主人公の担任教師がいったセリフ。

「人よりほんの少し努力するのが辛くなくて、ほんの少し簡単にできること」(一部抜粋)


その言葉がずっと心にひっかかっていた。

小説を書くことはつらく苦しいことだ。たいていの指南書にそう書いてある。小説家のドキュメンタリー映像、インタビューも、しかり。
だが、小説家は軒並み、そのつらさと向き合い、小説を書く。
だから、自分も努力すればいいんだ。
安直で、単純に考えていたものだ。

起承転結、序破急、登場人物のプロフィールと、指南書通りにやっても、
どうにもうまくいかない。
そもそも、書き続けられない。

登場人物が動き出さない。好き勝手にしゃべらない。
とてつもなく努力しても、簡単にできない。

無いものをあると言えない。あるのに、無いと言えない。
無いのにあるというのが、あるのに無いということが、苦痛で仕方がない。

そこでようやく気がついた。

「努力以前に、素質がない」


向き不向き、というのはあるのだ。

「好きなことと得意なことは、違う」


まずそこに気づくべきだった。

「文章を書く」とは、なにも「小説」に限ったことではないのだ。
今、書きなぐっている(打ちなぐっている?)これも、立派な文章である。

「自分に自信をもて」
「好きなこと、楽しいことをやろう」
「方法はひとつじゃない」

小学生のころ、自分の体験をもとにした文章を書くのが好きだったことを思い出した。
実際に体験したこと、感じたこと、考えやアイデアをひとに伝えるのが好きだった。
そして今も。

目の前にひろがる現実と向き合い、感じたことを、書けばいい。
簡単なことだった。ずいぶんと遠回りをした。
けれど、この遠回りもまた、己を成長させる糧となり、文字になるのだろう。

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