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【試し読み】1月初旬に続編発売!『グルメ警部の美食捜査』(斎藤千輪著)第一話公開

 「ビストロ三軒亭」シリーズの斎藤千輪さんが贈る、飯テロ描写満載のグルメ警察小説の第二弾が1月7日に発売されます。二巻の発売に先駆け、一巻の第一話を試し読み無料公開します。

<あらすじ>大食いチャレンジに失敗したものの、お金を持っていなかったカエデは、居合わせた久留米斗真に救われる。彼は警視庁所属の警部で、カエデは運転技術を見込まれ、そのお抱え運転手となった。捜査と言いながら、高級レストランや美食家が集まるパーティーに行ったりするばかりの久留米にカエデは驚くが、不思議とそれが事件解決の手掛かりとなり……。おいしいものと謎が絡み合う連作ミステリー。文庫書き下ろし。


1 完璧なるステーキと痛恨の失態


 ああ、美味しい。でも、苦しい……。

 燕カエデは、左側から切り分けた肉片を必死で頰張っていた。

 じっくりと熟成され、特製スパイスで下味をつけた分厚い牛ロース肉。新鮮さを強調する濃いピンク色と、グリルプレートでついた格子状の焼き跡が見事なコントラストを描き、その中央でひとかけらのバターが黄金のごとくきらめきながら溶けていく。

 そんな、これぞステーキ!と叫びたくなるほど完璧なビジュアルの肉が、手を触れたら火傷するであろう鉄板皿の上で、耳心地のよいジュージューという焼き音とステーキ独特の香ばしい湯気をまとい、堂々と鎮座している。
 ソース入れで提供されるのは、すり下ろした玉ねぎとニンニクなどで作り上げた、ご飯にぴったりな醬油ベースの濃厚ソースだ。そのソースをたっぷりとかけ、絶妙な焼き加減で提供された肉にナイフを入れると、あふれんばかりの肉汁がしたたり落ち、ソースと相まってさらに芳しい香りが立ち上がる。
 フォークで肉片を口に入れると、柔らかすぎず固すぎない絶妙の嚙み心地と共に、美味しさの塊が口内中に広がっていく。ほのかな脂っこさとソースの塩味は、白い平皿に盛られたご飯を頰張ることでほぼ解消されるのだが、その分、旨味も薄まってしまうため、即座にステーキへと手が伸びてしまう。

 誰が考え出したのか知る由もないが、醬油ベースのソースがかかったステーキと艶々に炊かれた白米ほど、食欲を刺激する組み合わせはない、とカエデは常々思っていた。

 肉。ご飯。肉。ご飯。肉。ご飯――――(以下略)。
 果てしなく続く美味のループ。永遠であればいいと願わずにはいられない、口福な瞬間の連続――ではあるのだが……。
 残念なことに、人が胃袋に収められる食べ物の量には限度がある。

 鉄板皿からはみ出しそうなほど大きな五百グラムのビッグステーキ。小山のごとく盛られたご飯は同じく五百グラム。それを三セット、三十分以内に食べきらなければ、カエデは経済面で大打撃を被ってしまうのだ。
 二セットまでは、わりと順調に胃に収まった。もちろん、この店のステーキがものすごく美味しいからだ。

 しかし、満腹感というのは突然やって来る。美味しさには一ミリの変化も起きないのだが、胃袋がどうしても受けつけなくなるのである。最後の一セットが難関であることは、これまでの経験からわかっていた。
 できれば相まみえたくなかった大いなる敵、汝の名は満腹感。ここで来ちゃったかあ……。
――とは言え、鉄板皿のステーキもご飯も、すでに半分は平らげている。

 「残り時間、あと七分。カエデさん、わかってると思うけど、添え物のコーンも食べきってくださいね。あと、前にわざと肉やコーンを床に落として量を減らす人がいたんで、もし落としちゃったら申告してください。その分だけ付け足しますから」

 テーブルのすぐそばにいた細身の青年がにこやかに話しかけてきた。長尾、という名の彼は、大食いチャレンジのジャッジを任されている古株のスタッフだ。趣味でロックバンドのギターをやっているらしく、いつも後ろで縛っている長い髪が特徴だ。片手でストップウォッチを固く握りしめている。
 念のため床に目をやる。――大丈夫。何も落ちていない。
 よし、身体を動かそう。

 カエデはすっくと椅子から立ち上がった。その勢いで膝に置いていた紙ナプキンが落ちてしまったのだが、長尾がいそいそと厨房に戻り、新しい紙ナプキンと交換してくれた。
 「ありがとうございます」と言いつつもナプキンには目もくれず、軽くジャンプをするような動きをその場で行う。こうすると胃の位置が下がり、もっと食べられるような気がしてくる。喉の渇きを覚えたが、ここで水など飲んではいけない。肉汁以外の液体を摂取してはいけないのだ。
 ふと店内を見回すと、他の客やスタッフたちが固唾を呑んでこちらを見つめていた。

 「残り時間、あと五分」

 ストップウォッチを睨んだ長尾が、興奮気味に告げる。
 彼はカエデが来るたびに笑顔でもてなしてくれる好男子だ。実は、「大食いの女性、素敵ですよね」と何度も言われ、こっそりデートにお誘いされたことが数回ある。自分のバンドのライブに招待されたりもするのだが、そのたびに丁重にお断りしている。
 お誘い自体はありがたいのだけど、カエデはアニメとかゲームとか、二次元の推しを眺めているだけで満ち足りていた。生身の男性とのデートなど想像すらできない。それに、今の自分にとって大事なのは、色気より食い気、なのである。
 ジャンプをしながら視線をぐるりと一周させる。

 渋谷と恵比寿のほぼ中間にある超人気ステーキ店『MANPUKU』。いつもは満席なのだが、今は平日夜の閉店前ということもあってか、十二卓ほどの四人掛けテーブルは、おひとり様客であるカエデを入れて五卓しか埋まっていなかった。クスクスと笑い合う若いカップル、スーツ姿の男性二人組、大学生らしき男女四人組。そして、カエデと同じくおひとり様でロングヘアの女性だ。
 カエデが入店したとき、この厨房に一番近いテーブルに据え置きされているナイフ・フォーク入れの籠は、長尾が馬の尻尾のような後ろ髪を揺らしながら片づけていた。しかし、彼は大き目の前歯を見せて「どうぞこちらへ」と誘い、再びセッティングをし始めてしまった。
 カエデは他の席でもよかったのだ。なぜなら、他の空席はまだセッティングをしたままで、即座にオーダーができたから。
 それでもわざわざし直してくれた理由を、「そのあいだにカエデさんと話ができるから」と長尾はいかにも楽しそうに説明していた。
 こんなチビなのに大食いで、しかも無職の自分に好意を寄せてくれるのは本当にありがたい以外の何物でもない。しかし何度も繰り返すが、色気よりも遥かに食い気を重視するのがカエデなのだ。むしろ、一秒でも早くステーキが食べたいのに……と、かすかなイラ立ちを覚えてしまったくらい、頭の中は食べる欲求で一杯だった。

 ちなみに今宵のカエデは、大食いチャレンジをするときの定番スタイルで勝負に挑んでいる。
 ジャージ素材の黒いパーカーと、同じ素材・色のストンとしたロングワンピース、黒は生地に脂がはねても誤魔化せる色。そして、ウエストマークのないワンピースは、当然のごとく胃を締めつけないためのチョイス。履物は、床に散っている油でジャンプをする際に転んだりしないよう、ラバーソールの黒いスニーカー。セミロングの髪の毛は、いつものように頭の上部で結んであった。

 「残り三分です!」と長尾が鋭く叫ぶ。
 よっしゃ、ラストスパートだ。

 再び椅子に座って残りのステーキ肉を半分に切り、ワシワシと食べる。というか、ちょっと嚙んでマルっと飲みこむ。続いてご飯も大口で頰張り瞬時に飲み下す。
 ――カエデの胃袋は宇宙だな。膨張する無限の空間。最高だよ。好きなだけ食べていいぞ。
 亡き父の声が聞こえた気がした。昨年、病で他界してしまったやさしくて穏やかな父。いつも笑顔でカエデの大食いを見守ってくれた。
 一方、今も健在の母は、「燃費が悪いわねえ。誰に似たのかしら」と文句を垂れることが多かった。それでも、せっせとお代わりをよそってくれたのだから、感謝以外の言葉が浮かばない。

 元々、胃下垂かつ食べたモノがすぐに排出される体質で、ビフィズス菌など腸内フローラの量が多いからなのか血糖値も上がりにくく、一般的な人に比べて満腹中枢が刺激されないという、〝痩やせの大食い〞の条件を満たしていたカエデだが、中学生まではここまでの大食いではなかった。
 高校生になっても華奢でチビのままだったため、もっと背丈が伸びるように限界まで食べまくって栄養を摂り、運動をして努力を重ねたのだ。

 しかし、その努力は報われなかった。
 どうしても百四十八センチ以上の身長にはなれなかったのだ。それは、カエデが目指そうとしていた職業にはなれないことを意味していた。
 越えられない壁に悔しい思いもしたが、今夜のような大食いチャレンジの成功率は上がったし、大食いタレントのスカウトも来るようになったのだから、努力が泡と化したわけではない。
 ただし、タレントになるつもりなど毛頭ないため、今のところ〝無駄に大食いのチビ痩せ女、しかも無職〞でしかないのだが。

 「すっげ、見てくださいよ。チャレンジ成功しそうですよ」

 近くの席にいた男性のささやき声がした。ごく普通のサラリーマン風スーツ姿の男性。年齢は二十代半ばくらいだろうか。地毛なのか染めているのか栗色でやや長めの髪が、どことなくチャラ男的な空気感を放っている。

 「私としては、もっと味わって食べてほしいけどね」

 チャラ男的な人と同席している男性が、皮肉めいた言葉を発した。
 素人目にも高級感が伝わってくるネイビーのピンストライプ・スーツ。同系色のネクタイに、ライトブルーのコットンシャツ。無造作のようでありながらしっかりと整えられたショートヘア。オシャレな黒縁メガネが印象的な、どことなく品のある顔つき。年の頃はチャラ男風よりも上、三十前後といったところだ。

 どこかで見たような人……と思って気がついた。英国人俳優ダニエル・クレイグが演じた映画版『007』のジェームズ・ボンドを彷彿とさせるのだ。
 顔は全然似ていない。ダニエルのような渋い系ではなく、甘目で柔和な表情の優男だ。ダニエル版007シリーズでたとえるならば、英国人俳優ベン・ウィショーが演じたMI6(英国諜報部)の秘密兵器開発担当・Qのほうがまだ近い。
 だが、醸し出す雰囲気がそれっぽくて、007か!と言いたくなるくらい洒脱ないで立ちをした男性である。正直なところ、この大衆向けのステーキ店の中で、彼だけが異彩を放っていた。

 「あんな飲むような食べ方をされたら肉が気の毒じゃないか。緻密な計算のもとに熟成された、素晴らしいステーキなのに」

 007風の人がいかにも残念そうにつぶやき、グラスをゆっくり取って赤ワインを飲む。これまた英国紳士ばりに優雅な手つきだ。左腕から高級ブランドの〝オメガ〞らしき時計が覗いている。オメガの時計といえば、映画版ボンドのお気に入りアイテムとしてあまりにも有名だ。
 しかも007風の黒縁メガネをよく見ると、テンプルに金属の〝Tマーク〞が施されている。あれは、ダニエル版ボンド御用達のメガネブランド〝トムフォード〞のマークだ。映画の007はサングラス姿が印象的だけど、フレームのカタチが劇中のサングラスと極めて似ている。

 もう間違いない。この男性は007マニアだ!
スパイや刑事ものが大好きなカエデは密かに胸を躍らせたのだが、007の無情な声が耳に入ってきた。

 「美食とは、動物の中で人間だけが会得した能力なんだよ。ただ生きるために食料を摂取するのではなく、作り手が創意工夫を凝らした料理を五感で楽しみ、味わう。酒との組み合わせも重要な要素となる、実に崇高な能力だ。それを冒瀆するような食べ方を見てしまうと、切なくなってくるね」

 余計なお世話じゃ! 味わって食べてたら破産するんじゃい! 
 躍った心を急速で戒めてから、カエデは最後の肉とご飯をかっこむ。

 「残り十秒! 九、八、七、……」

 緊迫した声を長尾が発し、カウントダウンを始めた。鉄板皿の上には、添えてあった焼きコーンの粒が残っているだけだ。大急ぎで焦げ目のついたコーンたちをスプーンでかき集め、ゴックンと飲みこんだ。

 「……終了! チャレンジ成功、おめでとうございます! 令和元年になってから、初めてのチャレンジ成功です!」

 長尾の宣言で、店内中からパラパラと拍手が響いた。

 「あ、ありがとうござい、まふー」

 ポッコリと盛り上がったお腹を撫でながら、カエデは息も絶え絶えに礼を述べ、内心でウォ―――と勝利の雄叫びをあげた。

 これで賞金の一万円をゲットできる。もしチャレンジに失敗したら、食べた分の料金、一万円以上を払わなければならなかったのだ。貯金も底をついているカエデにとって、一食に一万円もの大金を費やすことは自殺行為にも等しい。
 そのリスクを背負いながらも、大食いチャレンジ店を巡っては得意の大食いを武器にタダ飯をいただいたり、お小遣い稼ぎをさせてもらうという、どうにも情けない日々をカエデは過ごしていた。

 短大卒業と当時に就職浪人となって以来、アルバイトを転々としてきたのだが、つい先日、バイト先の飲食店がつぶれて給料未払いのまま放り出されてしまったのだ。そのため、次のバイト先が見つかるまでは、こうして凌ぐしかないのであった。

 「ご馳走さまでした。いつもすみません」

 恐縮しながら小声を出し、席を立とうとしたそのとき、信じがたい発言が長尾から飛び出した。

 「カエデさん、前言撤回で申し訳ない。チャレンジ失敗です」
 「えっ?」

 驚いて長尾を見ると、彼はテーブルの下を覗きこんでいた。カエデもその視線を追う。

 「見てください。コーンがいくつか落ちてます」

 ……確かに、カエデのスニーカーの先に黄色い豆状のものが点在している。ステーキに添えられていたコーンと極めて似ているので、見間違いではない。

 「残念だけど、床に何か落ちたら申告しないと失格なんです。カエデさんがわざとやったとは思わないけど、それがルールなんで料金をいただきます。ホントすんません」

 「そ、そんな! 落とした覚えなんてないのに」

 うろたえるカエデを長尾や他のスタッフが気の毒そうに見つめている。拍手を送ってくれた別テーブルの客たちも同様だ。

 「もしかしたらだけど、カエデさん途中で立ち上がったじゃないですか。そのときに落ちたんじゃないですか? ほら、紙ナプキンを落としたとき」

 そうだ、落としたとしたらその瞬間以外考えられない。勢いよく食べていたため、膝の上にコーンをばら撒いたことに気づかなかった。それが、ナプキンと一緒に落下してしまったのか……。

 「マジで残念ですけど、またチャレンジしに来てください。じゃ、一万二千円いただきます」

 ガーン、という漫画のような効果音が頭の中で響き、目の前が真っ暗になった。
 カエデの財布には千円しか入っていないのだ。退路を断つことが成功を呼びこむと思った、という理由だけではない。単純に今月はもうそれしかお金がなかったのである。これまでチャレンジに失敗したことがないステーキ店だったから、つい甘く考えてしまった自分を投げ飛ばしてやりたい。
 ちなみに、この店ではカードを取り扱っていない。たとえカード払い可能だったとしても、引き落とせるお金が口座には入っていなかった。

 「す、すみません、持ち合わせが足りなくて……」
 「近くにコンビニありますよ。銀行のATMも」
 「それが、貯金も全然なくて……」

 消え入りそうな声でカエデが言うと、全スタッフの目つきが鬼のように変化し、「カネがないのに食いに来たのかよ」「失敗したらどうするつもりだったんだ」「無銭飲食で警察に通報するぞ」などと罵倒されたような気がした。

 「……あの、借りてくるのでちょっと待ってもらえませんか? 二時間もかからないと思うので」

 神奈川県の実家で肩身狭く暮らしているカエデは、母に土下座をして借金をする覚悟を決めた。
 短大を卒業したら自活せよ、と母からはきつく言われているので、家賃として毎月三万円を家に納め、自ら生活費を稼がねばならなかった。公務員である母は自分にも他者にも厳しく、放任主義だった父とは対照的で几帳面な女性。借金を申し込むなら、金利もしっかり払う覚悟でいなければならない。

 カエデは今夜、父から譲り受けた愛車でこの店に来ていた。ペパーミントグリーンのミニクーパーだ。かなりのクラシックカー、というよりオンボロ車だが、エンジン回りはチューンアップしてある。高速を飛ばせば二時間以内に戻ってこられる……。

 「二時間も待てませんよ。うちらが終電逃しちゃう」

 長尾が困った顔で告げる。

 「……ですよね」とカエデは肩をすくめる。

 最悪だ。胃痛がしてきた。大食いチャレンジ直後だけに痛みも相当なものである。冷や汗もじっとりとかいている。
 一体どうしたらこのピンチを逃れられるのか。わたしを明日からバイトで雇ってください、そのバイト代から差し引いてください、とでも言ってみようか。いや、こんな恥ずかしい失態をやらかしてしまった店で、屈託なく働くことなんてできるのだろうか。というか、雇ってくれないよな、きっと。

 うつむいたまま思考を巡らすカエデ。誰もが無言のままだ。陽気なラテン系のBGMだけが鳴り響いている。
 「じゃあ……」と長尾が何かを言いかけたところで、ふいに男性の低い声が響いた。

 「私が払おう」

 あわてて主を見る。007マニアの男性だ!

 「え、な、な……」なんで、と言いたいのに驚きのあまり口が回らない。
 カエデが呆気にとられていると、007が黒革の財布を取り出した。

 「ここのテーブルとあちらのお嬢さん、合わせて支払いを頼む」

 「さすがグルメ先輩」とチャラ男風の連れが小さくつぶやき、「ゴチになります」と調子よく手を合わせる。

 グルメ先輩? 007の名はグルメというのか?

 事態が呑みこめずに目を見開くカエデ。長尾はまだ何か言いたそうだったが、ため息を吐いてから無表情で007の元へ行き、札を受け取って「領収書はどうされますか?」と尋ねた。いや、と彼は軽く手を振り、長尾はレジへ直行する。

 「長尾さん、ちょっと待って!」

 そんなことしてもらうわけにはいかない、と長尾を止めようとしたカエデのすぐ耳元で、「大丈夫。気にしなくていい」と声がした。いつの間にか007がカエデのすぐ横に立っている。
 鼻筋が通っていて琥珀のように美しいブラウンの瞳。純粋な日本人じゃないみたい。もしかして、本当に英国人の血でも入ってる……?などと007の顔に釘づけになっていたら、彼はすっと屈んでテーブルの下を覗きこみ、「また紙ナプキンが落ちている」と、すぐさま立ち上がってナプキンをテーブルの上に置いた。

 「では」と挨拶を残して颯爽とレジに向かう007。そのあとに続く後輩らしきチャラ男風の男性が、「大食いチャレンジ、カッコよかったよ」と右の親指を立ててカエデに笑みを見せる。非常に愛嬌のある人だ。
 「あ、あ……」ありがとうございます、と言いそうになって口を閉じる。それではまるで、奢ってもらったことへの礼のようになってしまう。
 レジの前で長尾が礼を述べ、007に釣銭を手渡した。

 「またのご来店、お待ちしてます」

 すると007が、ごく小さな声でこう言った。

 「ごちそうさま。今回は見逃すけど、店の看板には傷をつけないように」

 007が素早く自らのジャケットをめくり、内側のポケットにある何かを手にした。長尾に見せたようだ。
 はっ、と息を呑んだ長尾がグニャリと顔を歪ませたが、007はジャケットのボタンをしめ、背筋を伸ばして扉から出ていく。

 今回は見逃す? 長尾が何か不手際でも犯したのか? 
 気にはなりつつも、カエデはグルメたちのあとを追う。

 「ちょっと待ってください!」

 店の前で叫ぶと007たちが振り向く。ふたりともかなりの長身だった。身長百四十八センチのカエデは、彼らと並ぶと幼い子どものようだ。

 「あの、お金……」
 「ああ、本当に気にしないでいい。私も楽しませてもらったから。初めは飲むように食べていて嘆かわしいと思ったが、よく見たら食べ方は上品だった。それなのに驚異的な速さで、非常に驚いたよ」

 007がカエデを真っすぐ見て低く笑った。

 「君の胃袋は宇宙のようだな。きっと、芸術的なほど胃の膨張率が高いのだろう」

 その瞬間、007に亡き父の顔が重なって見えた。
 ――カエデの胃袋は宇宙だな――

 隣りのチャラ男も笑みを浮かべ、腰を屈めてカエデの目を覗きこむ。カエデもチャラ男の顔を凝視した。

 「君、まだ学生でしょ? 早く帰らないと親御さんが心配するよ。電車もなくなっちゃうんじゃない?」
 「学生じゃないです。二十三歳。今日は車で来てるので時間は大丈夫です」
 「へえ、運転できるんだ。てっきり女子高生かと思った」

 チャラ男が物珍しそうな視線を向ける。

 「よく間違えられます」

 まあ、しょうがない。大食いのくせにチビっこくて細くて、しかも童顔なのだから。

 「本当にありがとうございました。お金、改めてお返しします。連絡先を訊いてもいいですか?」

 007を見上げて問いかけると、彼はメガネの奥の涼やかな瞳を向けた。

 「君の名前は?」

 僅かな威圧感を覚え、思わず即答してしまう。

 「燕カエデです」
 「カエデ……か。いい名前だ」
 「ありがとうございます」と、一応、礼を述べておく。
 「それでカエデくん」

 くん付けで呼ばれた。なんだか新鮮だ。

 「君はあの店の常連客のようだね」
 「はい、かなりの常連です。いまバイト探しててお金がなくて、それで大食いチャレンジで食費を凌いでて……ホントすみません!」

 なぜか必死になってしまうカエデ。まさかのタイミングで現れた恩人、しかも若干の威圧感がある007を前に、どういう態度を取ったらいいのかわからない。

 「いつもあの席で食事をするのかな?」
 「いえ、あそこに通されたのは今日が初めてです。大抵は窓際の席なんですけど」
 「君のテーブルを担当していた、長尾と名札にあったスタッフ。彼とは知り合いのようだったな」
 「ええ、まあ……」
 「これからも長尾くんと会う可能性は?」
 「あります」

 大食いチャレンジに行けば、また長尾と顔を合わせるだろう。
 ってゆーか、なんでそんな質問ばかり威圧的にするの? って、逆にこちらから質問したいんですけど。
 そう思った矢先、「じゃあ、話しておこうか」と007がつぶやいた。

 「ここじゃなくて別の場所……ああ、カエデくんは車で来ていたんだな。店から離れた場所で話したい。駐車場に行こう」

 さっさと駐車場方向に進む007。そのあとに続くチャラ男。
 ちょっと、なんなのよ、勝手に主導権握っちゃって。まあ、支払いで世話になったから仕方がないけど。
 若干の不満を抱きつつも、カエデは「こっちです」と、愛車のミニクーパーまでふたりを連れていった。

 「申し訳ないのだが、人には聞かれたくない。後部座席に座ってもいいか?」

 007の鋭い視線を受け、はあ、と答えるしかないカエデに、彼は目尻を緩めながら「怪しいものではない」と言って、胸元から名刺を取り出した。

 「これって……警察……」
 「そう。こちらは警視庁・警務部の久留米警部。で、オレは強行犯捜査係・巡査部長の小林。警察には見えないってよく言われるんだけど、勤務中は意外と真面目に仕事してたりしてるんだよね」

 チャラ男も名刺を取り出したので、二枚の名刺をまじまじと見る。
 007の名刺には「久留米斗真」とある。グルメは聞き違いで、久留米という苗字だったのか。この若さで警部、ということはおそらくキ ャリア組。〝国家公務員採用総合職試験〞を経て採用されたキャリア組は、みな警部補からスタートするので、警部であるグルメ(とカエデは呼ぶことにした)は一階級出世していることになる。

 だが、警務部に所属している、ということは事件担当ではない。警務部とは、主に人事や経理を担う管理部署だ。
一方、チャラ男に見えて実は巡査部長だった小林幸人は、警部補より下の役職だから キャリアではないはず。しかし、警察官の役職は巡査からスタートする。すでに巡査から巡査部長に出世している小林は、どことなく優雅なグルメ警部と比べると身のこなしが軽いから、凶悪犯罪を担当する強行犯捜査係で機動力を発揮しているのかもしれない。
 ……などと瞬時に分析するカエデ。

 実は、カエデは警察官に憧れていたのだ。そのため、警察の組織図も基本的な部分は把握していた。
 しかし、女性警察官の採用には百五十センチ以上の身長制限があったので、それに満たないカエデは泣く泣く警察官になることを諦め、短大に入学したのだった。
 結果、卒業しても就職が決まらない、という憂き目にあってしまったのだが。

 ――とはいえ、今でも警察官に未練がないわけではない。そんなこともあり、思いがけず出会った警視庁の男たちに好奇心をかき立てられていた。

 「警部、何か気づいたんですか? さっきのステーキ店で」

 小林巡査部長が狭い後部座席に窮屈そうに乗りこみながら尋ねる。グルメ警部もその横に座る。カエデも運転席に乗りこんだ。

 「大食いチャレンジの直後に落ちていたコーン。あれは店側の仕込みだ。おそらく、テーブルを担当していた長尾くんの仕業」

 自信たっぷりにグルメ警部が断言する。

 「ええっ?」と驚くカエデに、グルメ警部は「私は仕事柄、どこにいても周囲を観察する習性があるんだ」と告げ、淡々と根拠を語りはじめた。

 「長尾くんは片づけはじめていたテーブルに君を通し、わざわざセッティングをした。その席は厨房に一番近い席だった。私は視覚の隅で君の席をとらえていたのだが、その時点でテーブルの床には何も落ちていなかった。そのあと、君が三皿目に手をつけ、途中で立って上下運動をしたときも同様だ。落ちたのは紙ナプキンだけ。コーンの存在を床の上に認めたのは、君が座り直して食事を再開したあと。つまり……」

 ひと呼吸入れてから、グルメ警部はカエデを見つめた。

 「君の膝から落ちた紙ナプキンを、長尾くんが交換したあとなんだ」

 「長尾さんが交換したあと……」

 カエデは茫然とオウム返しをすることしかできない。

 「へええ。久留米警部、よく見てましたね。オレ、職務時間外は警察モード解除しちゃうんで、全然気づかなかったです」

 小林巡査部長が感嘆の声をあげたが、グルメ警部はピクリとも反応せず話を続ける。

 「あのタイミングで厨房と席を移動した人間は長尾くんのみ。コーンはカエデくんの皿から落ちたのではなく、長尾くんが厨房から持ちこんだものを、わざと床に落としたのだと考えられる。紙ナプキンを取り換えたタイミングでね。そして、完食したと思わせたあとで床にコーンがあると君に告げた。もしかしたら、初めからどこかのタイミングでそうしようと狙っていたのかもしれない。だから、いつもは通さない厨房近くの席、しかも片づけはじめていた席に、わざわざカエデくんを通したのだろう。大食いチャレンジをする人に、どうしても他の客の視線は集まってしまう。そんな中で後ろめたい行動を取る長尾くんにとって、移動距離は短いほど都合がいい。不自然にコーンを握りしめている手を、長くさらさずに済むからな」

 「わたしが落としたのではなかった……?」

 確かに、カエデにその記憶はない。無我夢中だったから、そうなってしまったのだと自分を納得させていた……。

 「ああ。君は食べ方がとても上品だった。粗相をしたとは思えない」

 黒縁メガネの端を押さえながら、警部も上品に微笑む。そして、ジャケットの内ポケットから何かを取り出してこちらに見せた。

 「加熱された形跡のない調理前のコーン。これが証拠だ」

 それは、刑事ドラマなどで見る証拠品入れのビニール袋。中に表面がツルンとした黄色い粒が入っている。長尾にコーンの指摘を受けたときは気が動転してよく見られなかったのだが、ビニールの中のコーンは、鉄板の上で焼けていたコーンとは明らかに見た目が違う。

 「もしかしてこれ、会計前にわたしのテーブルの下から押収したんですか? 紙ナプキンを拾ってくれたとき? あんな一瞬で?」

 驚くカエデに、グルメ警部は「まあな」とだけ答えた。
 もしかしてこの007、すごい切れ者なのか……?

 「久留米先輩、マジで仕事が早いんだよ」

 すかさず小林が補足に入ってきた。

 「現場向きなのにもったいない。ずっと管理職でデスク仕事なんですよね。書類にハンコ押すだけの日も多いみたいだし」

 「そのお陰で時間には余裕がある。美食にも時間を費やせるしな。私は今のポジションで満足だ」

 グルメ警部は静かに言った。何やら事情がありそうだ。

 「おふたりは近しい間柄なんですね」

 警部と巡査部長にしては距離が近く見える、とカエデは感じていた。

 「オレと久留米先輩、昔からの知り合いなの。今もたまにメシ行ったり、いろいろ情報交換させてもらってるんだ。ねえ、先輩」

 小林はあくまでも無邪気で陽気だ。

 「話を戻していいか?」

 グルメ警部はどこまでも冷静沈着だった。

 「ああ、逸れちゃいましたね、すみません。要するに、大食いチャレンジを店側が妨害したってことですよね? それは問題ですよ。詐欺罪に該当するかもしれない」

 腕を組んだ小林に、グルメ警部が告げた。

 「あの店は歴史ある優良店だ。私も昔から知っている。客を騙して信用を落とすようなことはしないはずだ。おそらく、長尾くん個人が勝手に嫌がらせをしたのだろう。では、なぜ彼はそんな嫌がらせをしたのか? カエデくん、心当たりはないか?」

 「……あります」

 カエデは何度か長尾にデートに誘われていたが、ことごとく断っていた。それを恨んでいたのかもしれない。

 「え? なになに? どんな事情があるの?」

 小林が前のめりになったが、カエデは「それ、話さないとダメですか?」と訊き返した。
自分が彼を振ったからです、なんて、うぬぼれているようで言い辛い。もしかしたら、単なるからかい相手だったカエデに相手にされなくて、長尾がムカついただけかもしれないし。

 「いや、話さなくていい。君に心当たりがあるのなら、そういうことなのだろう。次にあの店でチャレンジするときは、最後まで床に注意を向けるべきかもしれない」

 グルメ警部が真摯に言ってくれた。
 (今回は見逃すけど、店の看板には傷をつけないように)
 グルメ警部が長尾に忠告したのは、コーンの不正についてだったのだ。レジの前でジャケットをめくったのは、証拠品のコーンをチラ見せするため。長尾が表情を歪ませたのは、警部から痛いところを突かれたからだったのだろう。

 「はい。次からは気をつけます」

 カエデはありがたく感じながら、そろそろ大食いチャレンジで凌ぐのも潮時だな、と考えていた。どんなバイトでもいいから働かないと……。
 と同時に、悪事を暴く警察の仕事ってやっぱりいいな、と改めて思う。

 「グルメさん、長尾さんの仕業だって気づいてたのに、料金を立て替えてくださったんですね。本当にありがとうございます」

 頭を下げたカエデを、グルメ警部はやんわりと咎めた。

 「私の名はグルメ、ではない。久留米だ」
 「すみません」

 つい、勝手に命名した名前で呼んでしまった。

 「あれ、カエデちゃん。床に何かの表彰状が落ちてるよ。……わ、これって警察の感謝状じゃないの?」

 丸まっていた表彰状を手にした小林巡査部長が、目を見張っていた。

 「あー、引ったくり男を見かけて捕まえたことがあったんです。それで感謝状をもらったんですけど、後部座席に置いたまま忘れちゃってました。わたし、大食いだけじゃなくて腕っぷしにも自信があるんですよね。ちっちゃい頃から柔道やってたから。あ、今もちっちゃいけど、身体」

 自虐ギャグも付け加えてしまった。――が、どうやらスベったようだ。

 「そうだったんだ。カエデちゃん、カワイイのに意外だねえ」

 ステーキ店でワインを飲んでいたためなのか、巡査部長とは思えないほど小林はノリが軽い。勤務時間外だから素に戻っているのだろう。

 「では、我々はこれで失礼する」

 グルメ警部(とカエデは呼ぶことに決めてしまったのでもう変えられない)が唐突に会話を終了させた。後部座席から出ていこうとする。

 「待ってください!」

 カエデが叫んだ刹那、グルメ警部がよろめいて額に手を当てた。

 「先輩、大丈夫ですか? また立ち眩み?」

 心配そうに小林が声をかけると、「ちょっと躓いただけだ」と答える。

 「とか言って、無理しないでくださいよ。身体、あんま丈夫じゃないんだから。もしかして、今日も献血してきたんじゃないですか?」
 「してない。それに献血したって何も害はないからな。むしろ、血はたまに抜いたほうが古い血液のデトックスになる。健康診断と同じような血液検査もできるし、健康上いいことだらけだ」
 「はいはい。それは献血好きの先輩からいつも拝聴してます」

 身体が丈夫じゃない……? 献血好き?
 そういえば、グルメ警部は肌の色が一般的な日本人男性と比べてほの白かった。
 そんなところも日本人離れして見えた要因だったのかもしれない。

 「次はオレも献血するんで、一緒に連れてってください」
 「いや、断る」
 「そんなこと言わないで。血抜きしたあとで、また肉でも食べましょうよ。焼肉でレバーとか」
 「……もしかして小林、おひとり様が苦手なタイプなのか?」
 「あれ、今頃気づいたんですか?」

 などと雑談をしながら、グルメ警部と小林巡査部長が車を離れていく。

 「お願いだから待って!」

 カエデはふたりを追いかけて声を張りあげた。

 「立て替えてもらったお金を払いたいんです。これから神奈川の実家に行くので乗ってってください。そのあとご自宅までお送りします」

 「本当にいいから。君はチャレンジに成功したんだ。私からのお祝いだと思ってくれればいい」

 そんなグルメ警部の好意はうれしかったが、カエデはどうしてもお礼をせずにはいられなかった。縁もゆかりもない人に奢ってもらって「はいサヨナラ」だなんて、母が知ったら「恩知らず娘!」と激怒されてしまう。それに、身体が丈夫ではないのであれば、なおさら自分が送り届けたい。

 「でしたら、せめてご自宅に送らせてください」
 「いや、夜遅くの運転は危ないから……」
 「わたし、第二種免許を持ってるんです。しかも、無事故無違反のゴールド免許。だから安心して乗ってください」
 「第二種免許。つまり、人を乗せて運転する資格があるってことか?」

 グルメ警部の瞳が輝いた気がした。

 「はい。亡くなった父が個人タクシーの運転手だったので、就職先がどうしても見つからなかったら、わたしも運転手になろうと思って」
「なるほど。ちなみに、お母さんは仕事をしているのかな?」
「公務員です」

 カエデが警部に答えると、小林が「すげーな、カエデちゃん」と感嘆の声をあげた。

 「腕っぷしが強くて運転はプロ、しかも大食い。そのスペック、何かの仕事に活かせそうだよね」
 「こんなちぐはぐなスペック、トータルで活かせる仕事なんてないですよ。どうせわたしなんて、役に立てっこないから。……あ、ごめんなさい」
ふと、愚痴めいた言葉を吐きそうになった。

 「なに、どうしたの?」と小林が小首を傾げ、警部も「どうせ? なにがどうせなんだ?」と、カエデに話の続きを促そうとしている。

 そうだ。この人たち、本物の警察官なんだよな……。
 カエデの口は、自然に開いていった。

 「……本当はわたしも、警察官になりたかったんです。子どもの頃、婦人警官にものすごく憧れて。だから柔道もがむしゃらにやったし、ご飯もたくさん食べたんだけど、中学生の頃から背が伸びなくなっちゃって。警察官には身長制限があったから、諦めるしかなかったんです」

 最近は制限を排除する地方警察もあるらしいが、少なくともカエデが高校生の頃はそうではなかった。

 「努力は必ず叶う、なんて言う人いるけど、努力ではどうにもできないことって、あるんですよね……。なんて、変なこと言っちゃってすみません」

 カエデは、自分が僅かな絶望感を抱いていることに気づいた。
 警察の人たちにこんなことを言っても、困らせてしまうだけなのに。
 目を伏せたカエデの前で、グルメ刑事が小声を発した。

「気に入った」
「はい?」

 きょとんとするカエデと彼は、がっぷりと向き合っている。

 「その根性、気構え。持ち金がないのに大食いに挑戦する図太さ。先のことなど考えない動物のような貪欲さ。なかなかお目にかかれない逸材だ」
 「……はあ」

 褒められているのかおちょくられているのか、まったく判断できない。
 しかし、警部は真剣な声音でこう言ったのだった。

 「カエデくん、君の力を貸してほしい」

 ――この夜を機に、カエデはグルメ警部のお抱え運転手という仕事を得た。
 そして、生粋の美食家である警部の、お供をすることになったのである。


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