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写真には撮り手が写真をどれだけ特別なものとするかが写っている

表題通り、写真には撮り手が写真をどれだけ特別なものとするかが写っていると思います。

・特別なものを特別なものとして撮る
・特別なものを特別でないものとして撮る
・特別でないものを特別なものとして撮る
・特別でないものを特別でないものとして撮る

の4つがあるなと感じます。

特別なものを特別なものとして撮る

旅行に行った時の写真や、ファッションや物撮りなどの広告写真の多くがこの撮り方になると思います。
シチュエーションが自分にとって特別(非日常)であり、撮り方も例えば三脚を据えたり、ライティングをしたりと写真を撮ると言うことを強く意識した撮り方をしている場合です。
この時、写真には撮影者の意図が入り、写真にも意味が出てきやすくなります。
対象も意味のあるものだし、この写真も意味のあるものなんだ、という姿勢ですね。

特別なものを特別でないものとして撮る

このパターンはちょっと珍しいかもしれません。
特別なものと対峙した時は撮り方も特別になってしまうことが多いためです。
想像しやすいのは初期の奥山由之さんの写真かなと思います。

女優さんを街で撮った「君の住む街」の展示で多かったのは、多くのフォトグラファーからの「こんな写真を撮りたかった」と言う嫉妬の声でした。
それはもう少し補足するなら「俺もこんな風に特別でないものとしてこの人を撮りたかった」という気持ちだったと思っています。
特別でないものとして撮るというのは、その場にいることが当たり前のように撮ったり、カメラの存在を被写体だけでなく撮り手側も意識せず撮ったりすることです。
僕も前撮り写真を特別でないものとして撮ろうという試みをしていました。

今では、もっとさらに特別でない視点で撮ることも出来たなと感じていますが、それが写真にとって良いことかどうかは解釈次第です。

特別でないものを特別なものとして撮る

このパターンは非常に多いです。
自分の写真もこれに該当する場合が多いと思います。
自分もみんなも見たことのある日常的な物事を、視点の力を使って意味を持たせて撮るものです。
例えば僕が撮っている「エイリアンの視点で撮る」をテーマにしたAliensという写真群は、この視点を強調することにより日常に違和感を出しています。
意味で言うと強い意味(意味を持たせようとして意味を持たせている)と言う分類になるかと思います。

このように強い意図がない場合でも、写真を撮るという行為は対象を意図の中に閉じ込める行為です。
普段着のまま家の前の道で写真を撮る時も、三脚を据えて大判で撮ったらどうしてもそれは特別な写真に見えてきます
特別なものにする力があるからこそ、どの程度特別なものとしようとしているかに自覚的になることが大事な気がしています。

特別でないものを特別でないものとして撮る

僕が普段撮っているスナップはAliensと比べると特別感は薄くなります。
日常的に見るものを、割とそのままストレートな視点で撮っているためです。

それでもまだ写真を特別なものとして扱っている撮り方だなと感じます。
構図に意図があり、写真という枠を利用して物事を収めようという意識が強く出ているためです。
例えば僕はさっき無意識で左手を2,3回握りましたが、そのくらい何の意味もなく当たり前のこととして写真を撮りたいと思うことがあります。
嵐田さんのこのポストと最近撮られている写真には、写真を特別なものとしない姿勢が表れています。

今回は4つに分類しましたが、どの分類にも優劣はありません。
そして各分類の中でも特別さの強度がグラデーションであります。
そして本当に写真を特別なものとして捉えたり、本当に特別でないものとして捉えるのは思ったよりも難しいことで、自分はそれが出来ている方の写真に魅力を感じることが多いのだと気づきました。

あなたは写真をどのくらい特別なものとして扱っているでしょうか?

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