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古野まほろについて。

まえがきを書いてゆく。どうも、神山です。

『天帝のはしたなき果実(幻冬舎)』初めて読んだのは2012年の春だった。高校生の頃からメフィスト賞作品を追っていた僕は、絶版となっている講談社ノベルス版の本書を読むことができないと思っていた。そんなことはなく、古野は別の出版社にて再始動していた。『果実』を読んだあと、凄まじい情報量に圧倒されたのを覚えている。その時から古野作品に魅入ってしまった。そして、いまこの文章を書いている。

いつかどこかで書くためのまえがき

 古野まほろは2007年に講談社主催の新人賞であるメフィスト賞を受賞し、『天帝のはしたなき果実』にてデビューした本格ミステリ作家である。2014年まで経歴不詳の覆面作家として活動し、『その孤島の名は、虚(KADOKAWA)』の著者紹介にて初めて、自身が警察大学校主任教授にて退官しているというキャリアを明かした。現在はデビュー作と世界観を同一にする作品の他、警察組織をテーマの中心に据えた作品や、警察組織や警察用語についての新書も執筆している。

古野の作品に通底しているテーマとして、陰陽師や吸血鬼が現れるファンタジー的な世界観であっても、現実の警察組織に即したリアルな警察小説的世界観であっても〈本格探偵小説であること〉が上げられる。また、デビュー作から続く天帝シリーズや、これと世界観を同じくする『セーラー服と黙示録(KADOKAWA)』シリーズは勿論のこと、世界観を共有していないノンシリーズ作品や、近年古野が中心としている警察小説でも〈ヒトとヒトはわかり合えるのか〉という問いがもうひとつの柱として存在する。

 1つめの柱である〈本格探偵小説であること〉というのは、古野まほろにおいては作者と読者との間で「提示された謎は、作者によって与えられた諸条件によって、論理的に解決される」「互いに『ルール』を破らないという約束」を尊びながら真剣勝負に興じるものであり、その前提として真実を求め、その手段において不正を行わないという「正義」に基づいていることが挙げられる。

 2つめの柱である〈ヒトとヒトはわかり合えるのか〉というのは、青春(恋愛)的な意味合いや家族愛や運命の問題、あるいは「探偵と犯人」「探偵と助手(作家)」「加害者と被害者」や「作者と読者」といった役割のあいだに発生する問題である。

 以上のような〈本格探偵小説であること〉〈ヒトとヒトはわかり合えるのか〉という二つの柱を持っている作家だが、ある時インターネットで「炎上」する。検索すればわかることかもしれないが、概要としては、ある大学のミステリー研究部が古野の作品について読書会を開き、出てきた感想をツイートした。その内容について古野は激昂し、暴言ツイートを返したのである。「炎上」につながったのは極めて強い言葉であったこと、古野のキャリアが既に明らかで、ウェブメディア記事での見出しが「東大卒作家」であったことなどが挙げられる。このなかで僕はTwitterで古野を擁護し、当該大学サークルを否定する側に立った。あの時僕が古野を擁護した動機としては、古野ファンであることと同時に、当該大学サークルのことが個人的に嫌いだったということもあるし、明言もしていたが、そんなことは炎上のさなか関係なかった。

 古野の炎上の原因となった言動に善いと言えるところは全くなかっただろう。古野がアカウントを作成した直後からツイートを見ているフォロワーであれば、ああいったツイートをする可能性があったことを否定はしないだろうが、それは内輪の論理でしかない。古野が怒る理路についても想像は可能であった。しかしながら、古野の行いは客観的にあまりにも悪かった。これは当該大学サークルのツイートについてもそうである。彼らが読書会の感想をツイートしたことも、僕が彼らを否定したのも内輪の論理であった。古野は今もその内輪の論理に囚われているのだろうか。

 古野は現在、広報用・交流用のTwitterをやめ、代わりに広報用オフィシャルサイト(文章末尾にリンク有)を運用している。小説や新書の執筆のかたわら、現実の事件について元警察官僚の視点から解説記事を執筆したり、警察官向け専門雑誌に連載したりしている。一見、Twitterのような読者との交流の場から離れ、古巣と一方通行的なメディアに引きこもっているかのようだ。しかし、そうではない。たしかに、古野はかつてわかり合おうと試みることを投げ捨てるような、公平性からかけ離れた発言をした。その後なぜか発刊が遅れている作品がいくつかあることも知られている。しかし、そうであっても〈ヒトとヒトはわかり合えるのか〉〈本格探偵小説であること〉の二本柱によって作品を世に出し続けている。今も既存作品の文庫化だけでなく、シリーズノンシリーズ小説新書問わず、様々な作品や文章の発表を通して、読者と対話を試みている。

過去の発言や記事、今も残っている荒らしに近い低評価レビューは消せないし、そういうことがあったのも事実である。僕にできる、僕がしたいことは、そういった過去と切り離し、作家と作品は違う、作家の人格が極悪卑劣であっても作品が高品質であればよい、という立場をとることではない。できることはただ作者から提示される作品に読者として対峙することのみである。作家や作品に対して、ファンクラブのように内輪でありがたがるのではなく、古野まほろという作家がいること、その作品が(優れているとか、ためになる、とかではなく)本格ミステリの歴史、警察小説の歴史のなかで、年表に記されるべき作家であるということを語ってゆくことである。

冒頭の僕のような心動かされる人があらわれること、彼の仕方で作品が語り継がれてゆくことを願いながら。



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