見出し画像

POST/PHOTO 「現代フォトアートは変成する」

この記事は2021年9月4日から26日までPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAで開催されているPOST/PHOTO SHOW「現代フォトアートは変成する」のレビューである。

今展示は、愛知県岡崎市にあるmasayoshi suzuki galleryと名駅にあるPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAとの連動企画として開催している。

masayoshi suzuki galleryでは、京都芸術大学で教鞭をとる多和田有希をはじめ、同校修士課程卒業のR E M A、同在校生である向珮瑜と大澤一太の4人の大型作品を展示している。
一方、PHOTO GALLERY FLOW NAGOYAでの展示は、京都芸術大学 博士課程に在学の北桂樹。同修士過程に在学の伊藤雅浩の二人が展示をしている。名古屋で展示している2人のそれぞれの作品についての個人的見解をしていこうと思う。

・北桂樹 《A.o.M(Aesthetics of Media) -メディアの声に耳を傾ける試み ver.2021》

画像1


北桂樹の作品は三種の作品の集合体である。それぞれを理解することで、最終的に全体を理解していくための足がかりになっていくと思われるので、少し長くなるが、それぞれの作品を解説していこうと思う。

1つ目は、カラフルな画像が目を引く左端の縦長作品。これは、iPhoneの画像処理アプリを使った作品であるという。
いまや誰しも持っているスマートフォンにはカメラが標準に搭載されており、その中には撮影された写真の見た目を良くするように補正する機能まで搭載されている。例えば空をより青くする、肌をスムーズで綺麗にする等の操作は、SNSに写真をアップしたことある人ならば、多かれ少なかれ操作したことがあるはずだろう。この作品は、その補正を60回程繰り返したらしい。
人間の感じる見た目が良くなるアプリの操作を過剰に繰り返す。こうしたときに、iPhoneが最終的に吐き出した画像は、我々にとってはすでに写真としての体をなしていない。
しかし、iPhone側の気持ちを考えてみたらどうであろう?iPhoneからしてみたら、前の画像よりも良い画像を吐き出し続けたのである。1回目より10回目のほうがよい画像であるだろうし、60回目のほうがもっと良い画像であるはずだ。
この作品は、テクノロジーの見ている美しさの基準の所在は何処にあるのかという部分に切れ込んでいるように感じられる。

2つ目は、背景が白くサイズが大小それぞれある作品が4つ掲げている。
こちらもスマートフォンで使用するアプリで作り上げた作品である。このアプリは、学生が授業の板書を撮影するアプリであり、このアプリを使用するときは、教室の端っこからホワイトボードを撮影する時などである。この場合に、通常であれば斜めで奥行きがあり、奥に向かって小さくなっていく台形のような写真が出来上がってしまうのだが、アプリがそれを補正して、まるで正面から撮影したかのように長方形のホワイトボードが撮影されるのである。北桂樹はこのアプリを使用しながら、街中を撮影した作品である。こうすることで、建物や地面など、いわゆる面の部分はホワイトボードのように白一色になり、その他の色情報は、マーカー特有の黒、赤、青、緑と原色に近い色に統合されていく。
たとえばウィンドウの中にマネキンが居る作品(右上の一番大きな作品)を観察すると、中二階から撮影したかのように思えるのだが、地面の部分は妙に低く感じる。
アプリが認識している面と我々が認識している面の差異。いわゆる次元の捉え方の違いがそこに存在していると考察できる。
人間が無意識的に認識している次元的空間とテクノロジーが捉える次元空間との違いを提示しているのではないだろうか。

3つ目の作品は、発表当時にニュースなどでも話題になったので、ご存じの方も多いと思う。Google翻訳アプリ内での一つの機能であるリアルタイム翻訳機能である。これは、カメラの映像を瞬時に認識して、元のテキストを目的の言語であるテキストへ変換し、カメラ内の同じ場所に映し出すという機能である。
この機能をONにした状態で、あらゆる場所にカメラを向ける。そうすることで、テキストが何もないところでカメラがテキストを認識して翻訳する。そのカメラが翻訳した瞬間のスクリーンを捉えた作品である。真似をしてみるとわかるのだが、これが中々認識しないのだ。認識しそうになっても、その場所では二度と現れなかったりもする。まるで宝探しでもするような感覚である。
この作品は、人間が使用してきたテキストをテクノロジーが学習をし、レンズという目を通すことでその認識が誤認される。しかし誤認していると思っているのは人間であり、実際にテクノロジーの目を通してみたときにそのテキストが浮かび上がり認識することができるようになるのであろう。

以上の3つの作品について説明してきたが、解説を聞くと更に感じることは、この作品はアプリの機能を使いながら遊びながら撮影しているのではないかということである。
ある意味では、そうかも知れない。北桂樹は、ヴィレイム・フルッサーの言うところの、機能従事者であり、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)をまさに実証しているのである。これらはその過程のリサーチから出来上がってきた実験的作品である。

テクノロジーの世界へ身をゆだねる事。この行為こそブラックボックスへの干渉が出来ない写真家特有の行為であり、そうすることでメディアの世界がiPhoneを媒介として、テクノロジーが発信しているコミュニケーション情報を見せてくれている。
このようなメディアの小さな声を丁寧に拾い上げるところが研究者である北桂樹ならではの作品であると感じられる。


・伊藤雅浩 《Human Error》
伊藤雅浩の作品は、一見すると、アブストラクトかカメラを移動させてブレを撮影したかのように感じられる作品である。

画像2


プログラマーとしての肩書を持つ伊藤雅浩は、写真はデータであると言い切る。デジタル写真のもつデータ性に目を付け、デジタル写真のバイナリデータをランダムで並べ直すこと。言い換えると、わざと人為的ミスを行う事によって、画像を改変していくのだ。その改変された画像が今回展示している作品であり、元の画像が何だったのかはよく分からない。
この作品を分かりやすく考察する上で、ある仮定を提案する。たとえば元の画像が「山」の写った風景写真だと仮定する事から始める。我々が認識している「山」という認識は、どのように提示され認識されているのであろうか?
PCやMacに入っている画像を表示するアプリ。デジタルカメラやテレビも画像を表示する事の出来るメディアである。これらのテクノロジーによって生まれた装置によって「山」という画像は提示され我々は理解、認識しているはずである。
しかしそれは装置がデータを我々に見えるように翻訳してくれているのであって、テクノロジーが認識している「山」という認識は、あくまでも写真はデータであるという大前提から考えると、その中身がどのような配列をしていても「山」として認識するはずである。一見写真に見えないこの作品もテクノロジーは写真として認識している。これらの作品は新たな画像の生成ではなく、すべて同じ画像であると言い切れる。
テクノロジーが認識している写真というデータと我々が認識している写真という概念に深く切り込んだ作品である。

・まとめ
2人と話していて印象に残ったのは、北桂樹はiPhoneの事を「彼」と呼び、伊藤雅浩は自身の作品を前にして、その作品の事を「彼ら」と呼んでいた事である。
これまでの写真表現において、その作品の表象には制作者の意思というものが入り込んできたはずである。それがアブストラクトであってもノーファインダーで撮影したとしても描写という大前提がある限り、作家の表現や意思が紛れ込んでくるはずである。
しかし彼らの作品は、撮る事自体をテクノロジー(2人が言うところの彼や彼ら)に任せていることから、その表象においての責任をアーティストは早々に投げ出しているのである。さらに突っ込んで言うと、これらの作品は、テクノロジーという別の世界から我々の世界を撮影した作品であると言えるのだ。
人間や生物がネットワークを構成しながらコミュニケーションを取るように、テクノロジーもインターネットというネットワークを駆使しながら生態系を構築し、コミュニケーションをとる生物である。もしくは今後AIを中心として、そのような世界を構築していくであろう。これらの二つの世界は常に隣り合ってお互いに意識できないところで並走している。北桂樹と伊藤雅浩はその隣り合った世界をバグや誤用を意識的に使用することでその世界を垣間見える様にしてくれているのだ。そう考えたとき、これらの作品が、これからの新たな時代の写真。「POST/PHOTO」としての提唱であると言えるのである。

ポストコロナの時代に我々は強制的にパラダイムシフトを強いられる時代である。立ち止まり嵐が過ぎるのを待つこともできる。しかし写真は新たな世界へと常に進んでおり、立ち止まった者を待っていてはくれない。
このような前衛的な展示を、愛知県の岡崎市と名古屋市にて開催できるという事実を中部地方の皆様に広く知っていただきたく、この記事を書かせていただきました。
この記事はPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAのディレクターである中澤賢の個人的考察であり、鑑賞者の方々に実際に見て頂いて、様々な討論を重ねられることを望みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?