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写真展「夜になりすます。」GALLERY Review

2021年5月29日から6月20日にかけて、名古屋のPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAにて、桑迫伽奈・イイダユキ写真展「夜になりすます。」が行われました。
会期は先日終了しましたが、ギャラリーの中の人からみた感想、レビューとしてnoteに記します。

PHOTO GALLERY FLOW NAGOYAはこの展示が初めて開催される写真展としてオープンしました。住所やHPは以下。

〒450-0002
愛知県名古屋市中村区名駅4丁目16-24 名駅前東海ビル2F 207A
https://www.photo260nagoya.com/


今回2人での展示であり、展示タイトルが「夜になりすます。」となっている。「夜」というキーワードは最近の流行りなのかよく目にします。確かにこのコロナ禍はまさに世界中が夜の中を突き進んでいる状態であり、夜明けをじっと待っている状態として受け入れられてるのではないかと思っています。

この展示タイトルは、桑迫伽奈とイイダユキの作家2人が対話を重ね、導き出したキーワードである。2人共、夜の静けさが心地よく、イイダユキ曰く、「昼間はカオスであり、夜はコスモス」と述べていた。
この心地良い状態、今回の場合は「夜」を自分たちのものとして投影した作品。言い換えると、自分自身が夜に擬態することで、自分たちのコンセプトを提示する。
そこから導き出したキーワードが「夜になりすます。」という展示タイトルとなったのである。私自身は、夜中のほうがカオス(コロナ禍の現状も含めて)であると感じていたのが感覚の違いとして非常に興味深かった。尚、2人とも昼間の喧騒のため、作品制作は真夜中にしかできないらしい。


[ 桑迫伽奈 ]

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桑迫の作品は、自身の撮影した写真プリントに、刺繍を施すことで作品としている。
いまやスマホにもカメラが搭載されている時代であることから、だれしも一度は写真を撮影したことがあるだろうと思う。カメラで撮影を行い画像を確認するという行為の中で、誰しも感じている違和感として、目で見たものと、撮影結果との違いを感じたことがないだろうか。特に決定的な場面に遭遇したときほど、肉眼で見た印象との乖離は強く感じられると私は思っている。
桑迫は目で見たものと写真の違和感から、なんとか写真を自身の網膜に焼き付いた状態に寄せていきたいと考えたらしい。普通の写真家ならば、カメラの機材や技術を上げることで乗り越えようとするだろうが、桑迫は写真そのものに加工をし始めた。
最初は、ペイントやトレースなど様々な行為を行った末で、たどり着いた技法が刺繍である。目で見た風景を糸でつなぎとめる行為は、自身が見た心象をプリント面につなぎとめていると言えるのではないだろうか。
刺繍の特性として、表層は糸が整然と並ぶことで鑑賞者にその存在を魅せる。しかし裏面は玉結びや糸が様々な方向へ向かい普段見られない裏の世界のである。
これは表面が着飾ったプラスの世界であり、裏面が普段見せない負の部分として捉えることができる。まさに現在のネットワーク世界を同時に見ているような気分に陥ることができる。
シャッターを押す行為と押さない行為。フレーム内とフレーム外。こう考えると刺繍はとても写真的な行為であると感じられる。
もちろん裏面も作品として完成されているので作品の価値や飾ることには何の問題もない。


[ イイダユキ ]

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イイダユキは、普段の町中では見ることができないであろう、スカートの中身を顕にして、足を高く掲げる作品を撮影し続けている。イイダユキが撮影のスタートとして始めた動機として、「可愛いという概念の消費」から始まっており、この一連の作品群は、道端に咲く花をイメージして約5年間撮影を続けている。しかし、自身の心境の変化もあり、「可愛さは消費され尽くしてなくなった」と述べている。可愛さがなくなった先には何が残っているのか私自身が今回の展示を非常に楽しみにしていた。
この作品の鑑賞者の質問として一番多かったのが、「どこで撮影しているのか」「モデルは誰なのか」という部分である。
確かに最も気になる部分ではある。これらの風景は、ある程度の匿名性を兼ね備えたなんの変哲のない街中である。これらの場所は2021年の日本というトポスである。また、モデルは匿名性が保たれている状態で、すべてが微妙に違うものをグリッドとして配置する。これはタイポロジーと同じ手法である。その質問の多さからわかるように、イイダユキの作品は風景と類型の提示である。
風景と類型を同時に提示した作家はジンディ・シャーマンの「Untitled Film Still」であると私は思う。Untitled Film Stillは70年代アメリカ映画の類型として撮影され、その背景には室内外含めてアメリカ的風景として撮影されていると捉えられる。シャーマンはさらに消費社会という概念も含まれていると感じる。
イイダユキの作品では、背景に見えるグラフティや歩道橋、百貨店のロゴから導き出される現在のコロナ禍での摩擦、問題点との接続がされているのではないだろうか。
イイダユキの作品は、1作品としての効果は弱いかもしれないが、作品群として見たときの効果やコンテキストの多さが写真中毒に侵される作品である。


2人の作品のアプローチと表現の相違が共通のキーワードで同じ部屋に展示された今回の展示は皆様にはどう映ったのか不安はありましたが、名古屋という地でなにかが残せたのではないかと勝手に達成感を感じております。
このレビューは約3週間の展示で、作家や皆様との対話から導き出した個人的な見解であります。今後も様々な意見交換が当ギャラリーを含め、作家を中心になされていくことを望みます。

また、桑迫伽奈、イイダユキの両作家の作品は、ホームページSHOP内にて期間限定で、詳細に見て頂くことが可能となっております。


2021.7.7
PHOTO GALLERY FLOW NAGOYA
https://www.photo260nagoya.com/


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