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私たちはもっと自分たちがどんなに頑張っても知り得ないものがあることを自覚した方がいい-不知というものに関する正しい理解

無知の知という話がある。
これはソクラテスが言ったとされていて、我々は多くのことを知らないが、その真実を知っていることは一つの大きな知恵であるとかそんな意味合いだ。これは得てして、自分はたくさんのことを知っていると驕っている人は、この無知の知を持っておらず、現実を正しく見るための重要な知恵を持っていないと言えるので、そんな痴れ者にならないよう気をつけましょうね、といった説教くさい含みもあるといえよう。
確かに、我々はあまりにも多くの知恵や知識を持ち合わせていない。世界中のあらゆる知識に精通している人というのは、人間の寿命からすると考え得ないといえるし、この世の全ての本を読破した人ですら、およそ存在しないといえよう。
なるほど。無知というのは一個の人間では克服するのが難しい、中々、厄介な問題だ。(もちろん、ソクラテスはそんなものは克服出来ないことを前提として、この概念を示したのだろうが)
しかしながら、このコラムで話していこうと思うのは、そんなものよりも、控えめにいっても大分とタチの悪い化け物についてである。
どうタチが悪いかというと、コイツはいつの時代も人を惑わせ、大いに間違った方向に導くこともザラだし、さらに、我々は惑わせられていることにさえ気づかないことが多い。その上、コイツは無知よりも圧倒的に数が多い。
(どのくらい多いかって?無知の数え方にもよるが、多分、無限倍くらいだ)
聞いただけでもゾッとするような怪物であるが、一応、人類はこれについて日常生活であまり使われない『不可知』という名前をつけている。ただ、これは主に不可知論という哲学的な雑談において使用されることが多く、そこで話されている内容と混同されても困るので、ここではこれを『不知』と名付けよう。(なお、不可知論自体に対する私の評価は、「机の上で云々考えることで何かが生み出せると思っている知的バカどもの戯言」である)
ちなみに、悪い予感がしているかもしれないが、その予感は多分当たっている。貴方の背中には、恐らくコイツが張り付いていて、貴方の頭に現在進行形で齧り付いていることだろう。

無知の知は、不知の自覚なんて言われたりするので紛らわしいが、ここで話していく『不知』とは、知識がないとか、知らないといったこととは大いに異なるといえるし、そんな生優しいものではない。(どれくらい違うかって?カナヘビとコモドオオトカゲくらい違う。どちらも同じトカゲじゃないかと思う人は、それぞれと一夜を檻の中で過ごしてみるといい。運よく生きていれば、恐らくその違いに身をもって気づかされていることだろう)
ソクラテスがどこまで無知という概念に、私がここで扱おうとしている『不知』の概念を含めていたのかは知らない(し、わざわざそんなことのために、しらみ潰しに文献を漁ってみようとは思わない)が、一般で言われているように、知識や知恵がないことを指すならば、それらは分けて考えるべきだと思う。
というのも、私がここで扱おうとしている『不知』とは、「知らないこと」ではなく、「知り得ないこと」に関わるものだからだ。
後で見ていくように、この二つは似ているようで、根本的な違いを持つものだし、我々人間に対する影響から見ても、大きな違いがある。
どのような違いがあるかを見るために、ここから無知と不知の性質について話していこうと思う。先ずは、我々にとって馴染み深い無知についてから始めていこう。

繰り返しにはなるが、ここでいう無知とは、知識や知恵がないことをさすが、大方一般的な認識と違いはないだろう。
知識や知恵は、経験やら本やら人の話なんかで得ていくものだ。つまり、基本的には起こったことや書いてあること、もしくは、既にわかっているものに関することと言える。
そんなものに関しては、実際に自分がアクセス出来るかどうかは置いておいて、どこかに載っていたり、人が記憶していたりするので、物理的に得ようと思って得られないことはない。我々が日常生活で誰かを無知だと揶揄する時も、努力次第で得られるものを得ていない、不勉強、怠惰だといった軽蔑の意が含まれているだろう。
逆に、それに関する記録が一切現存していなかったり、それを記憶する人が全員死んでいたりして、その情報に物理的にアクセスするのが不可能なことを知らないからといって、それを無知だと非難する人は、よっぽど偏屈か傲慢な人でもない限り、あまり想像出来ない。(ギザの大ピラミッドを古代人がどう作ったのか知らないのを無知だと吹聴する人がいたら、恐らく、宇宙人か何かだろうから、銀河系の今の大統領が誰かなど、色々教えて貰うと良い)
つまり、無知のカバーする領域は、基本的に現状、物理的にアクセス出来る情報に限られると考えられる。
これは、未来についての知識に対して、無知の概念が適用されないことからも、確からしいといえよう。
例えば、200年後の大統領が誰だとか、100年後のS&P500株価指数がどうだとかを知らないとして、無知だと馬鹿にされることはあるまい。これは200年前の人がバラク・オバマ氏が黒人として初の大統領に選出されたことを知らなかったり、100年前のアメリカ人が株価の大体の平均が1,000ドルをゆうに超えるとは夢にも思わなかったとしても(100年前はいいとこ200ドルあたりだった)、彼らを無知だと嘲笑う人がいないのと同じである。彼らは現代の情報にアクセスすることなんて不可能だった。

さて、これらのことから何が言えるだろうか?
一つは無知のカバーする領域は、基本的に有限だということだ。なぜなら、それは人が記録したり記憶したりしていることに限られる。極端な話、例えば、この世に記録された媒体など何もなくて、人間が一人しかいない状況だったら、無知なことなど存在しないと言えてしまうかもしれない。なぜなら、知識や知恵とは彼(別に彼女でも構わないが)のすでに知っていることに限られる筈だからだ。
実際は、2024年現在、世界には80億人くらい人間がいて、これまで書かれたことやインターネットに蓄積されている情報なんかを合わせると、いくら有限と言っても途方もないほど膨大な情報量になるだろうが、しかしそれでもやはり、限りはある訳だ。
こう考えると、人間一人が生身の脳みそで無知を完全に克服することは確かに難しいにしても、例えば、未来のスーパーコンピューターの成れの果てみたいな機械が、現存するすべての情報を瞬時に引き出して、無知を克服してくれることは不可能でもないように感じる。もっとも、人が記憶していることまで情報を網羅するのは流石に難しいだろうが、SNSの情報なんかをすべて集めれば、擬似的にそのようなことは可能かもしれない。
こう考えると、なんだか無知というものが、思っていたよりも恐ろしいものではなくて、飼い慣らせるようなものに思えて来ないだろうか?
そして、ソクラテスが指摘したような傲慢な人々は、実際に自分をスーパースーパーコンピューターのようなものと勘違いして、無知を飼い慣らしたように感じていたのだろう。
そんな彼らは確かに酷く愚かしく聞こえる。なお、彼らは古代人なので仕方ないと一蹴して、我々とは関係ないことにしてしまいたい衝動に駆られるが、それから2400年経った現代でも、同じような自称何でも知っている人をちらほら見かけることから、どうやらそうもいかないようだ。

さて、ここで、現在は知識や情報として存在しなくても、その内、ある人、もしくは、もっと巨視的に人類が獲得する情報はなんと呼べば良いだろう。これについては、そのうち知ることになるが、未だ知らないことなので、『未知』と呼ぶのが適当に感じるし、これは一般の感覚ともあまりズレていないように思われる。
個人のレベルでの未知は、彼や彼女がたまたまそれについての分野に触れる必要性がなくて、それを知るキッカケがなかったから生じているのかもしれないし、人類レベルの未知は、現在の技術や状況では未だ知り得ない情報なのかもしれない。ただ、いずれにしても、彼や彼女がそれについての理解を深めたり、人類が現在の科学を発展させたり、その領域の探究を進めれば、その内それは未知ではなくなり、『既知』となるだろう。
この未知も実のところ、それ自体はそんなに厄介ではない。ともすると、無知よりも性格の良いものと言えるだろう。というのも、未知の知識はそれがどんなものであるかは現在知り得ないが、時間を進めれば、自然に得られる知識だからだ。
例えば、私が探検家か何かで、未開の文明を発見し、これを研究し始めたとする。この時点では、ほとんど何も分かっていないので多くのことが未知と言える。しかしながら、私がそれなりに無能でなければ、次々と色々なことが分かっていき、そのうち、その文明について未知のことはほとんどなくなり、既知のことだらけになることだろう。
こう考えると、未知が既知になるのは時間の問題であり、未知の問題は(もちろん、その多くにおいて、誰がしかの努力は必要になるだろうが、)勝手に解決していくと言える。
どうだろうか。これを聞いて、あなたも私と同じように、この未知というものがサラダに入ったセロリよりは恐ろしくないように感じただろうか。(ちなみに、私はセロリがそれなりに嫌いである。ただ、それを見たら布団を被ってガタガタ震えるほどじゃあない)
どうやら、未知そのものはそれほど厄介なものではなさそうだということを、貴方もきっと理解頂けただろう。しかしながら、例の恐ろしい化け物、『不知』がそのフリをすることから、これは非常に厄介な代物となる。

このことを明らかにしていくため、次の問いについて考えてほしい。
今、知らないことで、これからも知ることのないことは、未知と言えるだろうか?
(小休止)
少しの間、考えた挙句、答えが出ただろうか?
私の見解では、これはこれからも知ることのないものなので、「未だ」知らないとは言い難い。よって、これは未知とは言えない。そして、冒頭の方で述べたように、これは私が不知と分類するものである。様々な意見があろうが、ここではこのように未知と不知を分けて考える訳だ。
さて、だから何だと貴方は思ったかもしれない。おそらく、そんな貴方はこの二つの違いが(少なくとも、私からすると)天と地ほど異なったものであることに気づいていないし、それらが我々に掛ける多大な迷惑についても気にかけていないし、だから、相変わらずこの不知というものにいいように貪られていることだろう。
では、ここで考えて欲しい。
今は知らなくても、時間と労力を掛けることで知ることの出来るものに時間を掛けるのは、果たして価値があるだろうか?
これはあまり考えずとも、多くの人が頷くことだろう。私もその一人で、知ることの内容にもよるが、先人が何かを知ろうとして、その結果生じた知的成果物の累積によって今日の我々は昔より多くのことを知れるのであり、それは私のみならず、多くの人類にとって価値のあることと言えよう。(なお、ここでの先人は研究者のみを指しているわけではないので、そのことは注意しておこう)
それでは、次に考えてほしい。
今は知らなくて、更に、これからいくら時間と労力を掛けても知ることの出来ないものに時間を掛けるのは、果たして価値があるだろうか?
(また小休止)
まぁ、何かを知ろうとして、時間を掛けた挙句、徒労に終わったとしても、頑張った粘り強さはついたとか、挑戦しようとする意欲は認められるといった慰めのような感傷的な価値は見出されるかもしれない。
しかし、元々の目的が知ることにあることから、知るという結果が得られることにのみ価値が認められるとすると、割とドライだが現実的な見方をすれば、これは全くの無駄であると言えよう。
つまり、不知を知ろうとして時間を掛けることは単純に無意味であり、シンプルな見方をすると、掛けた時間の分だけ、損をしていることになる。人間の生に与えられる時間が無限にあればこれは問題にならないかもしれないが、与えられた時間がわずか80年×365日×24時間×60分×60秒ほどしかないことを考えると、この無益な時間はかなりの損失であると言えよう。

ここでポイントなのは、それが時間を掛けて知ることが出来るのか、はたまた出来ないのか、現時点ではあまり分からないことである。要するに、未知と不知はかなり見分けがつき辛い訳だ。
このことに輪をかけて都合の悪いことに、今誰も分かってないからこそ価値の高い深遠な謎や難しい問題ほど、それが仮に不知ではなく、未知であった場合、それなりの労力が必要になる。(つまり、たくさんの時間が掛かる)
裏を返せば、だからこそ、それが膨大な時間を掛けて解決される未知なのか、それとも、いくら時間を掛けようが解決し得ない不知なのか、分からない。
よって、不知なのか未知なのか分からないものほど、人は時間を掛け、運よくその一握りが報われるが、大部分がただただ多大な無駄を生み出しただけに終わるという自体が発生する。(まぁ、こうした事態自体は実のところ、社会的には必要だったりするのだが、それは気が向いたら今度話そう)
そして、これは私の偏見かもしれないが、現代人は科学の発展によって、実際以上に自然や、あるいは、運命さえも自分の手中におさめられるように勘違いするようになった結果、こうした無駄をさらに増幅させるようになったように思える。
まぁ、何でもかんでも(社会科学なんてよく分からないものも含めた)科学的な手法で解決出来ると信じていれば、昔の人なら明らかに分りっこないと英断して見向きもしないような問題でも、どうにかして解決出来るような気がしてしまい、その分、多くの不知に手を出してしまうのは無理らしからぬことだろう。
そして、こうした傾向は、特に未来の事柄について、顕著なように思われる。

ここで、未来に関連して、我々をまんまと捉える不知の常套手段を紹介しておこう。
未来の事柄は、そのうち起きるので、そのうち既知の事柄になるのは当たり前だろう。よって、それはそれ自体では未知の範疇と言える。
しかしながら、その未来の事柄を今、現在知ろうとすることになると、それはたちまち不知の領域に属するようになる。
ここではっきりと言っておくが、たとえ、明日自分がどう過ごすかとか、このコップを落としたら割れるか、といった明らかに予測出来そうなことさえ、基本的には不知の領域の事柄である。
確かに、貴方は明日自分がどう過ごすか今日予測し、実際、明日その通りになるかもしれないが、それを既知のことのように絶対的なこととして知ることが出来るだろうか?
もし、そんなことが出来るのであれば、貴方は今の仕事なんて辞めてしまって、預言者として、世界を救世する職についた方が世のため人のためとなろう。(ただし、私は予測を絶対にするなと言いたいわけではないので、注意してほしい。曖昧でも、実生活でやっておいた方が役に立つ予測は必要だ。天気予報で雨だったら、たとえ持って行った傘を結局使わず邪魔になる羽目になっても、傘を持って行った方がいいだろう。大事なのは予測を過信しないことだ)

なお、私は未来の事柄を絶対的に予測することが不可能だとは考えてはいないことを念の為断っておこう。
貴方はラプラスの悪魔という言葉を聞いたことがあるだろうか?
これはピエール・シモン・ド・ラプラス伯爵が考えた概念で、現状の物理状態全てとあらゆる物理法則を知り尽くし、およそ想像もつかない計算能力でもって寸分違わず未来を予測する何かである。
そうしたものは、現代の技術では不可能であるが、今後、何百年、何千年(、あるいは、何万年)後かには、現れるかもしれないので、絶対に未来が予測出来ないとは限らない。
しかしながら、こうしたラプラスの悪魔なるものは、少なくともこれを読んでいる貴方や書いている私が死ぬまで現れることはないだろう。よって、無視して差し支えないと思う。

現代の物理科学や予測能力を過信している(おそらく、物理学者や数学者ではない)貴方に納得してもらうために、ビリヤードの球の話をしておこう。
ビリヤードの球を打ったとして、そのビリヤードボールの動きを正確に予測することは可能だろうか?
そんなことは簡単だと、あなたは鼻で笑ったかもしれない。実際、1回、2回の跳ね返りなら、それほど難しいことでもないだろう。
それでは、10回目や100回目の跳ね返りも予測出来るだろうか?
数学者のマイケル・ペリーの計算によると、9回目に跳ね返った後は、人の持つ引力を計算せねばならず、56回目に跳ね返った後は、宇宙についての全ての素粒子の仮定が必要になってくるとのことだ。
さて、未来の予測はまだ、現代の我々が意のままに扱えるほど簡単なように感じるだろうか?

こうしたビリヤードの例を出さずとも、例えば、もっと複雑な株価の動きや会社の実績がどうなるかなんて問題に対し、一流の知性を持つと称される人々がことごとく失敗しているのを見れば、ある程度、未来の予測というものがおよそ不知の領域に属していることに納得いただけるだろう。
(もし、そうした予測が出来る人がいれば、ウォーレンバフェット顔負けの金持ちになっているだろうから、私が知らないはずがない)
しかしながら、多くの人が、大真面目に、場合によってはそれを仕事として行なっている。
アナリストと名のつく人たちや、実際の商売をして会社を支えてるんではなくて、CEOなんて小洒落た名前で呼ばれる経営者たち、コンサルタントという何だかよくわからない肩書きを持つ人たちが、(本人たちはそんなことにホントはあまり意味がないと重々承知しているのかもしれないが、)綺麗にまとめられたレポートやプレゼンシートなんかに、数字の載ったグラフだの表だのを並べて、こうしたらこうなるだの、ああしたらああなるだの言って生計を立てている。
そうした職業の人たちに、レストランのホールで食事を運んだり、車を直したりして確実に我々にとって何かをしてくれている人たち以上の給料が払われていることを見るにあたって、多くの人々がいかに予測というものに過度な期待をしていて、つまりは、不知がいかに我々を侵食しているのかが伺えよう。(もちろん、彼らに本当に予測能力があって、不知を解決しているなら彼らの給料は今の分では大分少ないと言えるが、もし、そんなことが出来るなら、そんな仕事なんかしていないでもっと楽に大金持ちになれることをしているだろう)
繰り返しにはなるが、それは一部、科学技術の進歩がもたらした傲慢のせいなのかもしれない。最近機械学習などの技術の発展も相まって、巷にうんざりするほど見られる予測に対する過度な期待に対し、未来に関する話の結びにこの言葉を送っておこう。
未来の事柄は、その未来が現在になるまでの時間の経過を前提にしてこそ、未知なのであり、その経過がない場合は、基本的に不知であり、すなわち、知り得ないと考えて差し支えないものである。

未知は本来的には何ら恐ろしいものではないが、その性質に不知の片棒を担ぐような性質を含んでいることが何となくご理解いただけたかと思う。この性質について更に理解してもらうために、一部、話した内容の再掲にはなってしまうが、未知について、少し違った観点から見ていくとする。
先ず、未知を二つに分けて考えてみよう。一つ目は、明日の天気とか、一年後の株価とか、数年後の大統領とか、基本的に時間さえ経ってしまえば、自動的に分かってしまう未知である。これは、先ほど説明した事情で、現在知ることはおよそ不可能だが、別に私や貴方からすれば、ほとんど全くの労力を使うことなしに解決するものである。
そして、二つ目が、科学的な発見とか、異文化に関する理解とか、我々の労力次第で解決されるかどうかが決まるタイプの未知である。この二つ目の未知もまた不知の擬態を招く元になっている。というのも、これはこうした未知は人の営為の有無次第で不知になることを示しているからである。
確かに、毎日ぼんやりと空ばかり眺めていて、ただ食って寝るだけの生活をしていては複雑な発見や深遠なものに対する理解は得られない様に思える。こうしたことは我々にとって馴染み深く、また、実際に的を得てはいるといえよう。
しかしながら、このことが、あらゆる、知り得ないことも含めたものを、努力次第で知ることが出来るように錯覚させる。要するに、知らないのは何でもかんでも十把一絡げに努力が足りてないように思えてしまうし、努力すれば、全部分かるように思えてしまうというわけだ。
これは先ほど述べたように、一部真実を含んでいるので、もっともらしく聞こえてしまう上、そのように全て努力次第ということにしてしまえばこの世のものごとの複雑さが大分と減り、都合が良いこともあってそういうものにしたくなる衝動に駆られる。
しかしながら、人類全体、更に私や貴方に与えられたリソースを駆使して知ることの出来る問題は、(信じたくはないかもしれないが、)この世の全ての問題のうち、ほんの僅かに過ぎないことは残念ながら紛れもない事実である。
勿論、それを知ってなお貴方が人生を賭けてある問題に取り組み、それを知りたいという意志を止める権利を私は(そして、貴方以外誰も)持ち合わせていない。しかし、それが貴方の人生がいくつあっても解決出来ない問題であるかもしれないことは覚悟しておく必要がある。
それをひとえに、努力不足だったと片付けるのは、あまりに視野が狭く、また、(貴方が少なくとも神の次に賢いくらいでない限り、)傲慢な態度とも言えよう。

そろそろ終わりが近づいてきたので、ここでおまけとして、不知の範疇の代表的なものの一つに、人の気持ちや思考というものがあることも付け加えておこう。
心理学や脳科学が発展して来ている今、そんなことは無いように思えるかもしれないが、たとえ、人間の脳の状態を完璧に解析して、脳の状態と感情や考えを正確に整合させることが出来ても実は問題は残る。(まぁ、そんなことは少なくともあと数百年は可能になりそうもないが)
その一つ目の要因は、人の内的な状態が基本的には物質化出来ないことにある。このことから、我々が言えるのはせいぜい、貴方の脳の状態はこうで、これまでの実験から、貴方はこういうことを考えていると推測されますということまでで、物理の実験のように、ミニカーを走らせて速度を測定したり、鉄球で何かを砕いたりして、その結論に対する目に見えて確かな証拠を示せない。(嘘だというのなら、是非、私の頭の中のイメージや概念を目の前で空中から取り出してみて欲しい)
二つ目の要因は、科学が基本的に、100羽のカラスが黒かったら(別に100万羽でも良いが、)カラスは全て黒いという理論を構築するが、101羽目のカラスが白かったらその瞬間その理論は粉々に砕けることにある。
つまり、たとえその道の専門家が私の脳の状態だのを測定して、私が科学的にこう考えていると結論づけたとしても、たとえそれまでの実験で100人がそうだと言っても101人目の私がそうでないと言ってしまえば、私の考えを物質化できない以上、極端な話、そこでその理論はお釈迦になる。私を担当した科学者は私が嘘を言っているのか、本当にその理論が間違っているのか、あたりを付けることは出来ても絶対確実に知ることなど出来ないだろう。(もっとも、アンリ・ポアンカレなどの一流の科学者は、そもそも、科学的な理論などというのは、飽くまで人間の使い勝手に応じて用立てられるものであることをよく理解しており、絶対確実な理論など、そもそも必要としていないようではあるが)

さて、これまで少々長々と不知というモンスターについて見て来たわけだが、これまでそいつが背後にいるのに気づかなかった貴方も、そいつの存在を目の端に捉え、その毛並みや角の形くらいは認識出来たのではなかろうか。
不知の領分に属す問題は、分かるか分からないか、それ自体が不知であるのがタチの悪いところだが、このコラムの締めとして、私なりのアドバイスを簡単に示しておこう。
不知に対応するのに大事なのは、絶対確実と言えないものは、分かるかもしれないし、分からないかもしれないのをよく心がけておくことだ。
そんなことはとっくのとうに知っているというのなら、自分が最近確信を持ってそうだと思ったことに、手に持ったコップが地面に落ちることよりも確実だったことがいくつあったか数えてみるといい。
おそらく、ほぼ皆無であることに気づくだろうし、つまり、それは本当の意味で私のこのアドバイスの意味を理解していなかったということになるだろう。
これに限らず多くのことに通ずるが、当たり前だと思っていることでも、実際はその本質を理解出来ていないことは、貴方が(勿論、私も)思っているよりも多いし、実践出来ていないことはなおさらである。

なお、不知の対処法として、もう少し気の利いた人なら、あくまで実践で使えるくらいの範囲にはなるが、それぞれにオッズを掛けておくのもいいかもしれない。
不知の領分においては、そもそものオッズがかなり曖昧なものになるので、貴方が考えるよりは役には立たないかもしれないが、無いよりはマシかもしれない。(勿論、そうでない可能性もある。覚えておいた方がいい。オッズや確率なんてものは、元よりそんなものである)
私と同様、熊が目の前にいるとしたら、丸腰より、木の棒一本でもある方がいくらか心が落ち着くと思う人は、ベイズの確率論なんかを勉強すれば良いだろう。(ただ、小難しい確率論を勉強したからといって、金棒が手に入るなどと過度に期待するべきではない。せいぜい期待出来て、小学生が近所の林で持ち歩くくらいのものだろう。また、棒の威力を過信して熊に向かって行き、食われることもあり得ることは心に留めておいた方がいい)

不知を前にして、我々人間はあまりにも無力に見えるが、まぁ、こいつは地震や雷のように強大な自然現象みたいなものなので、仕方ないと割り切るのが上手いやり方ではないかと思う。
以上は飽くまで私なりの不知への向き合い方について述べた内容だが、貴方は貴方の向き合い方を持って勿論良いし、そうすべきだろう。
このコラムが、貴方と(そして、未来の私の)厄介な化け物との良好な付き合い方の一助となることを切に願う。

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