自信をつけろなんていう戯言には惑わされない方がいい-倫理のあり方について
巷では、自信がないことは何故か良くないことされることが多い。
あなたも頼んでもないのに誰かから、「もっと自信を持て」なんてことを言われた経験があるのではないだろうか?
あまつさえ、自信を持つための本なんかが書店に並べられていたり、そのための自己啓発セミナーなんてものが開催されているのを見ると世も末かなと思う。
そんな自信というものに対して理解のない私でも、世の人々が何故自信を持ちたいと思うかはおおよそ察しがつく。
私も経験があるが、自信がないとそれだけで不安な気持ちになるし、自信がないことによって緊張してしまい、何かを失敗することを恐れていたりするのだろう。
実際、自信がある人は不安な気持ちになることは少ない上、緊張もしづらいと言えるかもしれない。かく言う私も自信がないことなんてほぼないので、不安な気持ちになることは少ないし、緊張することもほぼない。(あるとすれば、賭場でジャックポットを引けるか引けないかの瞬間くらいだろうか)
しかしながら、自信を持つ他の人もおそらくそうだろうが、自信を持とうと思って自信をつけた訳ではないし、あまつさえ、自信を持とうと思って持てた経験なんてものもない。(ご明察の通り、自己啓発本なんかは読むどころか、手に取ったことすらないし、なんたらセミナーは傍聴の仕方すら分からない。それらに関して持つ情報は、人伝にクソみたいなものだと聞いたくらいのものである。幸か不幸か、私はわざわざ下水道みたいなとこに行って何かを学び取ろうとするほど勤勉でもない)
馬鹿馬鹿しくて、こんなことはあまり書く気にもなれないのだが、身の回りにも自信というものについて誤った理解をしている人が多いように思う。そこで、そうした隣人とこのテーマに触れることを見越して、多少これについて考えを整理しておくとしよう。
自信については、自信を持てるようなスキルが身についたり、経験を積めば別に求めてなくても勝手についてくるという話に尽きる。正直、これ以上でも以下でもないのだが、もう少し付け加えると、自信がないのは理由があるし、自信がないと感じるのは大事なことだということは言っておこう。
例えば、試験勉強をあまりしてなくて、試験で良い点を取る自信がないとする。言わずもがなそんなのは当たり前で、試験で良い点を取るための知識がついてないからそうなるのであって、自信がなくて然るべきだ。この場合、自信が出るまで勉強をすべきだし、自信がないことがあなたの点数を上げるよう尻を叩いてくれるだろう。
また、少し変則的なものに、ビジネスで挑戦する時の自信のなさといったものがあるかもしれない。要するに(世間で信じられていることに反して、)別に何かを頑張ってスキルが身につくようなものではないような物事に対する自信のなさだ。これらはスキルという側面からは、頑張りに応じて成功の確度が大して上がる訳ではないので、先ほどの自らを追い込むという自信の(なさの)効果も見込めない。
これについて事細かに書いていくと話が長くなるのでここでは触れないが、自分がいくら真面目にやっていても営業成績が振るわない一方で、四六時中サボっていてもたまたま成績が良い同僚なんかを考えて貰えばいいだろう。
当たり前だが、こうした運によって左右される要素が大きいものはいくら頑張っても大して成功出来るような気にはなったりしないので、自信がつくようなことはないだろう。よって、いつまで経っても自信のないままかもしれない。
ちなみにこれに対する解決策は、1日の訪問回数なり数字が上がりそうなことの試行回数を増やす、つまり、サイコロを振る回数を増やすことにほぼほぼ尽きる。確かにこの意味では努力によって報われるかもしれないが、それはほとんどの場合、スキルが向上したからではない。よって、自分の能力が向上したと感じて自信が付くことはないだろうし、それは正常な反応だろう。
ただ、この場合、そもそも自信をつけようがつけまいが結果はあまり変わらないから、別に自信がないことなんて気にせず、兎に角やってみるのが良いかもしれない。大事なのは、自信があるかないか、自分が出来るか出来ないかではなく、何回トライするかだ。
私も経験があるが、そう思った時の方が、案外緊張もせず、リラックスして出来るものである。(ただ、別にリラックスしてやったからって成功する訳ではないことは注意して貰いたい)
また、失敗もしつつ、そうやって実際に何度かやってくと、自然と慣れてきたり、物事のそう言った道理が分かるようになって来て自信が付いてくる。というよりも、自信があるかないかなんてものを気にもしなくなってくるだろう。
逆説的にそういった自信について全く無頓着の時が、最も自信がある状態と言えるかもしれない。そんな時は自信がある訳ではないかもしれないが、同時に自信がないなんてことも全くないのだから。
いずれにせよ、そもそも自信があったところで大して役に立たないのだから、自信があるかないかなんてことを気にする必要はない。
これらに関しては、自信のなさがあった方がいいか、自信自体あろうがなかろうがどっちでも良いといった事柄についてだが、根拠のない自信は往々にして身を滅ぼすということは言っておこう。
先ほどの例で言うと、テスト勉強を全然してないのにいつも自信満々だったらそいつは万年赤点で学校をいつまでも卒業出来ないだろうし、ビジネスで根拠のない自信から借金をしまくるなんてことをしたら余程運がない限り破産する羽目になるだろう。
基本的に自信があっても良いことはあまりないが、自信がなくて悪いことはあまり無い上、自信がないことが無いと悪いことは沢山あるということだ。(こう考えると、世の人々に自信がないのはある意味理にかなったことと言えるかもしれない)
唯一自信がなくて悪いことがあるとすれば、自分に自信がないということだろうか。もしかしたら、多くの人が血迷って、洗濯機の高さ調節に使った方が余程有用そうな本に手を伸ばしてしまうのはこの理由かもしれない。(それらの本は、そうした高さ調整には丁度いい薄さだ)
これに関しても、自信が無いことに根深い理由があると考えられるので、そもそも自分に自信が持てないことをしっかりと受け止めて個別具体的にそれを解決するのが重要かと思う。(なお、精神的な疾患を抱えている場合は除く。そういった場合は、どこまで頼りになるかは分からないが、精神科に行って薬の処方を受けるのが先決だろう)
しかしながら、今回のコラムの隠れた本題である倫理というものについて話していくことで、若干裏技的に一つの光明を示してみるとしよう。
実を言うと、私は倫理について書くことに、当初は気が引ける思いがしていた。
というのも、倫理というものはあくまで集団的なものや普遍的なものに当てはめるよりも、個々人に当てはめられて然るべきものと思えたからだ。
倫理を集団に当てはめると碌なことがないのは、歴史が示している。それらについての優れた内容にフリードリヒ・ハイエクやカール・ポパーの書物があるので詳しくはそちらを読んで貰えればと思う。ここでは誰かにとっての正義や善は、ほとんどの場合、誰かにとっての悪になるということだけ言っておこう。
これは正義や善というものの性質上仕方ないことだ。本からしか物事を学ばない学者や頭のイカれたサイコパス共がそれを知らずに”絶対的”正義や”普遍的”な善なんてものを標榜し、あまつさえそれを強行すると、どこかで確実に誰かの涙が流れ、悲鳴が起こる。
しかしながら、奴らにその嘆きは届かない。自らの蛮行が”意味”を持った行いだとそれに酔い痴れ、犠牲は必要なものだと自慢げに吹聴して新たな悲劇を生み続けるだろう。
もし、この世に確かな悪というものが存在するならば、それはそうした正義や善だと思う。
集団に必要なのは、秩序であって、倫理ではない。このことは、集団が大きくなればなるほど、的を得てくるだろう。
集団のために倫理があるのでなければ、倫理はなんのためにあるのか?
消去法的に、そうすると個人のためにあることになるだろうし、実際的にももしそうでなければ、倫理などという概念はこの世からとっくに消し去られていることだろう。
実際、個人にとってこれは、あなたの銀行口座の預金残高全てと同じか、多くの場合、それよりも遥かに大事なものである。
もし、今現在学生で運悪く、ここで私のコラムなんかを読んでいる人がいれば(ほんと、前世でどんな悪事を働いたのだろう)、倫理の教師に彼の持つ倫理を尋ねてみるといい。もし、まともな答えが返って来なかったり、返ってきた答えを実践してないようであれば、そいつの話を聞く必要はない。
そもそも、倫理の授業で紀元前のギリシャや中世欧州の”哲学者”の書いた内容を滔々と垂れ流すのはナンセンスだが、千歩譲ってそれが意味を成すとすれば、それは自らの倫理的な判断を実践的に重ね、それについてちゃんと向き合っている子供に対してのみだ。
子供がそうしたことを真剣に受け止める準備が出来ているというのは、それはそれで悲劇のように思うが、自分がどうあるべきかということに関して考えたこともない人間にそうした話を聞かせても、政治家のマニフェストくらい価値がないだろう。
倫理というのは大袈裟でもなんでもなく人生の指針となるものなので、若いうちにそうしたものに対する何か気付きの種をまいておくことは多くの人々の救いとなると思う。
しかしながら、カントの行動規範を研究する前に、自らの倫理規範についてしっかり回顧した方がいいと思う哲学の教授がたくさんいることからも中々実現は難しいかもしれない。
そういった倫理を食い物にする最も倫理的でない者たちにとってはメシの種程度のものに過ぎないかもしれないが、これは薄給を稼ぐなんてことよりも遥かに我々の生にとって重要なものがある。
私は残念ながら、世間の人々にこれを知らしめヒントを与えるだけの影響力がないのでそれに対しては申し訳ないと思うが、いつかどこかの誰かがこの記事を読んでくれるかもしれないことに頼り、ここで倫理について話をすることで僅かばかりの罪滅ぼしをしておこう。
先ほども述べたように、倫理は集団的なものでも普遍的なものでもなく、飽くまで個人的なものだ。よって、個別具体的な例示でしかこれを紐解くことは出来ないので、飽くまでサンプルとして、私個人の倫理規範を示しつつその核心についての考えを述べていくとしよう。勿論、一部、私のものと通づるものがあっても、あなたはあなたの倫理基準があっていいし、むしろそうあって然るべきだ。
自分個人の倫理基準を公表することは、なんとも自らの裸を晒すような気持ちがする。しかしながら、おそらくこれが自信というものなのだろうがそれを晒すのに全く恥の感情はないのは面白いものである。(もしかしたら、ボディビルダーが大衆の面前で裸同様の姿で誇らしげにポージング出来るのはこれと同じような心境なのかもしれない)
別に確たるルールがあってそうなっている訳ではないが、2024年現在、私には5つの倫理基準がある。なお、これらは今後もあまり内容の変化はないだろうが、私がこれからも様々な判断を下していくにあたって多少変容していくかもしれないことは予め断っておこう。
取り敢えず、それらを先ず羅列してみると以下の通りだ。
身銭を切る。
反脆くあり続ける。
信念に反し、叶えたい欲望がある際は、それらを天秤にかけ、もし、欲望を選択するならキチンと信念の方を捨てる。
自らの倫理基準に反さぬ行動、言動はそれを恥と思うことを恥と心得る。
自分がして欲しくないことを他人にしない。
私にとってこれらはシンプルだが強力な生きる上での指針だ。しかしながら、そのバックグラウンドには多くのエッセンスが詰まっているので、簡単にではあるが、個々に解説していくとしよう。
『1. 身銭を切る』
この基準はシンプルに自分の行動や言動に対し、一切の責任を引き受けるということである。
これは単純で当たり前のように思えるかもしれないが、非常に強力な基準だ。もし、私が頭に拳銃を突きつけられて、倫理基準を一つに絞れと言われたらこれを選ぶ(か、頭を吹っ飛ばされることを選ぶ)だろう。
リスクについてのコラムでも述べたが、我々が判断において出来ることは突き詰めればこの身銭を切るということだけである。真に重要なのは、その判断が正確かどうかなんてことじゃない。
よって、自分でその選択をしておいて、こんなことは”確率”やら”統計”的に有り得ないから無しにしてくれなんてことは、それこそ”なし”だ。ありえなかろうがなんだろうが、選択を行いその結果損を被ったなら、しっかりとその損失を背負って絶望の海に沈むべきだ。
あまつさえ、自らの判断によって起きた損失を他者に背負わせるなんてことはもっての他だ。背広に身を包んだ高給取りなんかが法律違反ではないからと平気でそんなことをするのをよく見かけるが、奴らは倫理的にも社会的にも醜い害虫と変わらないのでそういう奴の文章を見ると気分が悪くなるし、運悪く遭遇しようものなら吐いてしまうかもしれない。
なお、この基準は私が人付き合いをする時にも役立っている。
自分の行動や言動に責任を持つ意志のない人間は、何がしかの判断を下すことが出来ないに等しい。そいつらは判断能力、および、責任能力がないという点で精神病患者なんかと然して変わらない存在といえよう。なので、どんな肩書きがあろうが、どんなに世間で優秀と言われようがそんな奴の話は聞かないことにしている。
一方で、話し方がバカで粗雑だろうが、世の中から評価されてなかろうが、キッチリ身銭を切る人間の話は傾聴の意を持って聞くようにしている。彼らとは対等に話をするのが礼儀だというのがその一番の理由だが、実際話していて楽しい上、自分にとっても有益なものが得られることが多いように思う。
『2. 反脆くあり続ける』
反脆さという言葉を使ったのはナシーム・ニコラス・タレブなので、これについて詳しく知りたければ彼の本を読めば良いと思う。もし、もっと手軽に知りたければ私の金に関するコラムなんかで簡単には触れてるので、それを読めば良いだろう。
そのコラムでも述べたが、生きる上での”強さ”の定義を『物事を好き勝手、意のままに出来ること』や『どんなダメージを受けてもものともしないこと』にした場合、現実的により大きな”強さ”を持ち得るのは概して後者だ。
どうしてそう考えられるのかは、そのコラムで大分と紙面を割いたのでそちらを参照してもらいたいが、重要なのはダメージを受けることによって益を得る反脆さの性質だ。
これは基本的に力や強さに関する事柄なので、倫理と絡めるのはおかしな感じがするかもしれない。しかしながら、実際に正義を行うには力が必要だ。
力無き者には自らの義を貫くことは出来ないし、かのブレーズ・パスカルも『力無き正義は無能である』と言っている。故に彼は、正義と力を結合しなければならないと『パンセ』で述べているが、その通りかと思う。
反脆さは私が生きる上で指針となる概念であり、この”強さ”を洗練し続け、自らの倫理を全うしようとし続けることはそれ自体、私にとって倫理的な行いであり、基準なのである。
なお、これはこの文章を書いていて気づいたことだが、私の倫理基準は基本的に『どんなダメージを受けてもものともしないこと』によって遂行出来るものであり、『物事を好き勝手、意のままに出来ること』を必要とするものがない。これは、正義が力と結びついているからこその必然であるように思う。
また、この倫理基準にはもっと実際的な効用もある。それは反脆さを突き詰める姿勢というのは、痛みに自ら触れに行く姿勢でもあることから来る。我々の脳も含めた身体は往々にして痛みはなるべく避けるように動くので、痛みに触れに行くことは意識的に日々心がけていないと中々出来ないだろう。
よって、これを倫理基準に入れておくことは、私が日々これを忘れないよう、戒めの役割を果たしているように思う。
『3. 信念に反し、叶えたい欲望がある際は、それらを天秤にかけ、もし、欲望を選択するならキチンと信念の方を捨てる』
これはかなり実際的な要求に基づいた基準である。
倫理の宿敵は何か?それは欲望だろう。
人は口ではどんな高尚な倫理観だって説くことが出来るが、大事なのはそのご高説自体じゃない。そいつが大きな欲望を前にした時、自分の言った通りに行動出来るかどうかだ。
もし教会の神父が日曜のミサでは声高らかに清く正しく生きよと言っても、土曜の夜には無知な少女と姦淫を行っているようであれば、そいつの説教に聞く価値があるだろうか。少なくとも私には価値がないと言えるし、おそらくナザレの羊飼いも同意見だろう。
ただ、私は聖職者ではないので、欲望自体が悪いだなんて言うつもりはない。むしろ、欲望それ自体は人間がこれまで遺伝子を繋いで来た中で獲得してきた試行錯誤の産物であり、我々にこうせよと指示を与える経験豊富で偉大な教師であると思う。(生きていく上で何にも役に立たないことを、さも意味ありげに何時間も語る学校教員とは大違いだ)
なので、問題なのは欲望を取ること自体ではなく、信じてることや考えていること、言っていることが、欲望のせいで捻じ曲げられ、実際やっていることと違ってしまうことである。
人は金や名声、女(別に男でもいい)といった大きな欲望を前に、易々とそれまで信じていたものや考えていたことと違うことをしそうになる。そして、そうした欲望に出会う機会、自分の信念が試される機会はあなたがご存知の通り、この世に溢れている。
別にその際、欲望をとっても構わない。ただし、その時はきっちりと信念の方を捨て去るべきだ。
欲望を取ったのに、素知らぬ顔で背いた信念を持ち続けるというのはフェアじゃない。誰にも見られていなかろうが、ズルはなしだ。もし、周りに声高らかにそれを吹聴してしまっていたなら、考えを改めたと宣言するのが賢明といえよう。
意外かもしれないが、この考え方は他人のためというよりも、自分のために重要だ。そこには他人に信用されなくなるから云々といった理由もあるが、個人的にはそれらは瑣末に思う。
これは私自身経験のあることだが、信念に背いたかどうかを一番わかっているのは他でもない自分自身だ。
そして、欲望に敗れた信念はその時点である種脆いことが立証されているし、それがここぞという時に頼りにならないことを身につまされて分かっているのも自分だ。(なにせ実際に頼りにならなかったのだから)
ご存知のことと思うが、頼りないものに頼ると碌でもないことになる。また、自分の信念に粗悪なものが含まれていると、不良地盤の如く足場が脆く不安定になり、自分というものが崩れやすくなる。
信念というのは、自分を確かなものにするために必要な要素だ。だから、欲望に直面した時は、その欲望を取るべきか、それまで後生大事に持っていたその信念を持ち続けるべきかをしっかり見極めた方が良い。そして、欲望を取ったのならば、自分というものを見失わないためにも、潔く信念の方を捨てるべきといえよう。結局はそれが一番自分のためになる。
この基準は1番目の基準に通ずるところが多いように思う。そこで私は人の見分け方について触れたが、この3番目の基準もそれに役立つところがある。
私はノーベル平和賞を取っていようが、なんかの宗教の高僧だろうがそのスピーチが意味を持つのは、彼らが飽くまでその原稿通りのことをしている時に限られると考えている。なので、言っていることを聞いたら、ちゃんとやっていることも見てからでないとその人のことを判断しないようにしている。
言っていることがご立派でもやっていることが碌でもなければ、どんなに上手な弁舌が出来てもアヒルの鳴き声なんかと同じで(あなたがドナルドダックの親戚とかでなければ)その内容に意味はない。ガーガー声でアベ・マリアを上手に歌おうが、そこに神への賛美の意はないし、耳障りなことに変わりはない。
一方で、お世辞にも立派とは言えないことをしていても、キチンとそれを隠さず、また、取り繕ったことを言わない人間の言葉は信用に値すると私は考える。
自分の行動と違う信念を口から吐かないことは、それだけで十分倫理的な行為のように思えるのである。
『4. 自らの倫理基準に反さぬ行動、言動はそれを恥と思うことを恥と心得る』
これも現実において、倫理的な行いをしていく上での必要に迫られて生じた部類である。
恥というものは、怒りなんかよりは考え方を変えることで意識的にコントロール出来るかもしれない。実際、下着で街中を歩くのは恥の感情を禁じ得ないかもしれないが、似たような格好でも水着でビーチを歩き回るのは訳ないだろう。また、明治以前、日本人は老若男女軒先で裸になって水浴びしていたようだから、恥というのはその捉え方に依拠する部分が大きいように思う。
一方で、完全に意識的なものかと言われれば、それは如何とも判断し難い。初歩的な間違いを指摘されたり、下着がスカートやズボンから覗いていたりしたら、抑えようと思っても耳や頬が熱くなってしまうだろう。その点では、我々の恥の感情というのは結構身体的なもの、つまり、自然に沸き起こってしまうもののように思う。
実際、進化人類学者あたりがそうした反応は怒りなどの感情同様、進化の中で生存を有利にしてきたんじゃないかという話をしていたのを耳にした気がする。確かに恥の感情を覚えることで人間は注意深くなるように思うし、咄嗟に不測の事態に対応する俊敏さにも繋がるような気もするから、その通りなのかもしれない。
そう考えると、これを完全に無くそうとするのは流石に難しそうな上、そもそも無くすべきものでもないかもしれないので、恥の感情を覚えてしまうのは人間として仕方ないことかと思う。
しかしながら、もしかしたら恥という感情がそのように便利だからかもしれないが、我々人間は兎角様々なことに恥を感じるようである。特に日本人はその傾向が顕著に思え、取り敢えず、恥を感じておけば謙虚と思われるだろうといった歪な考え方さえ流布しているような気さえする。
恥というのは本来、自らの行為がその倫理観に照らして恥ずべきものであった時に感じるべき感情だと思う。加えていうならば、恥ずべきでもない行為に恥じるというのは、むしろ、恥知らずな行いであると言えないだろうか。
だって、何が恥なのかよく分からず、また分かろうともしないで、白痴のようにただ何も考えずに恥じているだけのだから。そんなものは謙虚さでもなんでもなく、怠惰で臆病なだけだ。
少なくとも、私は自らの倫理基準に照らして恥ずべきものでないものに対し恥を感じるのは、この倫理基準、延いては自分という存在に対する非難であり、侮辱であると考える。
もしそれを恥と感じるのが真っ当ならば、倫理基準に修正を加えるべきだし、加えるべきでないとしたら恥を感じるべきではないだろう。
『5. 自分がして欲しくないことを他人にしない』
これは少なくとも現存する最古の法典の一つ(実際には4番目)『ハンムラビ法典』が表された頃から、脈々と人類に受け継がれて来た倫理観である。
そこには「目には目を歯には歯を」というかの有名な同害復讐法の原則が刻まれている。この『タリオ』とも呼ばれる規定の根底には自分の目を潰されたくなければ他人の目を潰すな、自分の歯を折られたくなければ他人の歯を折るなという「自分がして欲しくないことは他人にするべからず」という思想があるように思う。
これは法律という形で示されていることからも分かるように最古の倫理観の一つであると共に社会的な秩序、規律でもある。そうした関連から、これは個人の内面的な基準というよりも、どちらかと言うと人と接する上で必要になってくる外面的な基準と思う。故に、これまでの倫理基準とは少し様相が異なるが、人との関わりを持つ以上、どうしても個人的な基準として取り入れねばならないと判断して取り入れた次第である。
これまでの基準はもっと内面的な基準なので、別に絶海の孤島で無人島生活を強いられたとしても機能する。一方で、この最後の基準は飽くまで他人との関わりを前提にしているので、そのような状況では無視しても良いものとなる。裏を返せば、これは今後も人間社会と関わり続ける上で必要なものとして、半ば外部的に仕方なく加えられたものである。
私は倫理というものは、自らのあり方を規定するものであり、自分のコアとなる部分だと思っている。よって、これに反する行為は自らの存在の否定を意味すると考えているが、この最後の基準は自らの存在証明のために生じたものではないため、その性質は薄いように思う。
しかしながら、これは人との関わりを持つ以上は絶対的に必要なものであり、また、逆にこれさえ身につけておけば、人との関わりを持つのに十分足るほど強力な基準であると思う。
よく勘違いされているが、規律やルールは増えれば増えるほど、また、複雑になればなるほど使い勝手が悪く、脆いものになっていく。”弁護士”なんていうルールブックオタクがいないと商売一つまともに始められない上、そいつらが法の抜け穴を一番熟知しているのが良い証拠だろう。そもそも、あらゆるケースに対応出来る万能な法律など存在し得ないので、いくら六法全書のページを増やしたところで焼石に水だ。
古代にも法律はあったが、さまざまな係争はその場その場の状況でもっと柔軟に現実に則して解決されていたし、それで社会は十分成り立っていた。我々現代人はよく古代人を憐れんだ目で見るが、彼らが現代のこんな状況を知ったら鼻で笑うことだろう。(もしくは、法廷で頓知大会のようなことが繰り広げられている有様を見て素直にコメディーショーと勘違いし、その出来に感心するかもしれない)
法律とは本来、人々の自由を担保するためのものだと思う。ほとんどの人がよく理解出来ていないルールで、そうした自由をがんじがらめにしてしまうなど本末転倒だ。
なお、こんなことを書くと私が法律が必要ないと考えていると勘違いされるかもしれないが、そんなことは一言も言っていないので注意して欲しい。社会が機能するためには、不文律も含めた、ルールや秩序はある程度必要だ。
しかしながら、そんなものは子供でも分かるような”普通”に考えて理解出来る必要最低限の内容で十分だし、むしろ、そうしたものが理想と思う。間違っても辞書何冊分かのものなんて必要ない。そんなものを作り上げるのは、立法者や法に携わる者の無能さを露呈しているようなものだ。(法律関係者は自分の事務所なんかであれらを見る度、恥ずかしくならないのか些か不思議に思う)
理想の法律とは万人がその内容を理解していて、それらが彼らの実際的な感覚と相違ないものである。そして、そうした万人が理解出来る基準に照らし合わせて、当事者同士と中立な立場の者がその場その場の状況に合わせて裁定していく方が余程真っ当な裁判だろう。
そこで判断がつかなかったらって?そうしたら、コイン投げでもして決めれば良いんじゃなかろうか。全知全能の神が完璧な正解を教えてくれない以上、そっちの方がいくらの弁護士を雇ったかで判決が左右されるよりはずっと(ずっと)公平だ。
健全な秩序のために求められるのは、少なくシンプルでありながら、強力な基準とその状況における献身的な判断である。
まとめよう。シンプルでもあらゆる物事に通づる基準の方が、余程強力で頑健だ。実際、『タリオ』と呼ばれるこの考え方は少なくとも4千年近く時の試練を耐えている。(一方で、トイレの設置の仕方に関する法律なんかは古今東西あるようなものじゃない)
なお、ここから派生した私の基準では、もし他人にとっては仮にして欲しいことであっても、自分にとってして欲しくなければその意思をしっかりと表明し、それをしないように求めること。また、逆に自分がして欲しいことでも、他人がして欲しくないと表明したことについてはそれを行わないことも含まれる。
不知についてのコラムでも触れたが、基本的に人間は他人の心など読めないので、他人がして欲しいか、して欲しくないかなんてことは分からないと思っておいて差し支えない。
なので、いわゆる常識の範囲を出て、いつまでも悶々と他人が何をして欲しくないのかなんてことを考える必要はないが、他人がそのシグナルを出した時には、しっかりとそれをしないべきである。
なぜなら、私にとっても、それは自分がして欲しくないことだからである。
なお、こう聞くと他人がして欲しくないことはなんでもかんでも我慢しなければならないかと思うかもしれないが、そうではない。現代には古代に比べて人間がごまんといて、しかも多種多様なので、そんなことをしていたら何も出来なくなってしまうだろう。
もし、お互いにして欲しくないことがぶつかり合った時は、先ずは議論の必要が出てくるし、それでも解決しない場合は係争しなければならなくなるだろう。これは、我々が互いに違いがあり、また、肩を寄せ合って生きていく上で仕方のないことである。
しかしながら、この先はどちらかと言えば1番目の基準に関わるものだ。もし、他人のして欲しくないことより、自分のして欲しくないことを取る場合は、それによるそうした面倒ごとや危険を引き受ける覚悟があるかどうかという問題になるだろう。
ここまで私の倫理基準について駆け足で見てきたが、倫理というのはやはり自らの在り方を規定するものである。それは、個人的なもので、経験や性質に根ざすものであるが故に、行動や思考は変容しても最後まで変わらない自分のコアであると言えよう。
余談だが、通常、最初に倫理の概念という幹の部分を規定してから、倫理基準という枝葉の部分について述べていくのが論説の(特に西洋的)常套手段かもしれない。しかし、ここではあえて個別の倫理基準から触れていくことにした。
アリストテレス的な現代の目的先行型の考え方は、どうにも私には胡散臭さを禁じ得ない。あくまで、実際的な要求が先ずあって、それに対する試行錯誤の産物に意味があると思う。後からそこに何か共通項を見出したり、大層な目的やら理論やらを見出しても構わないが、それは錯覚かもしれないし、間違っても実践的なものの前にくるべきものではない。(そして、世の知的バカ共はよくこの間違いをやらかし、大々的に訳の分からぬことを繰り広げている)
閑話休題。さて、倫理についての締め括りとして、一つ言っておかねばならないことがある。
それは4つ目の基準でも触れたが、これらの基準に反した行動なり言動なりをした場合は、しっかりと恥という名の罰を受けるべきということである。
現代は効率やら効果やらでこうした倫理基準を持たず、また、口では美辞麗句を並べても実際には正反対のことをする恥知らず共が多いが、奴らには人間としての存在価値はない。(というか、頑張ってもそんなものを見出しようがない)
別にここでの私のように、倫理基準をつらつら書き出せと言いたいんじゃない。実際、それ自体に思考を整理する以上の価値はない上、ここに書いていないものでも、私がその場その場で参照している基準だってあるように思う。
しかしながら、そうしたものに”倫理”の試験で点数を取るか、他人によく思われるための手段の一つ程度の価値しか見出さないというのは話が違う。
自らの在り方も、自分としての正しさもなく、ただ其処に居るだけの何者とも規定のしようがない人に、どうして人間としての精神的価値を見出せるというのだろうか。そんな者達を相手にするくらいだったら、余程馬やら鹿やら豚やらを相手にした方がマシだ。
ここまで、自信の話に始まり倫理の話をしてきた訳だが、実のところ、確たる倫理観によって自信がついてしまうのは副作用みたいなものである。だって、しっかりとした倫理を持っているかどうかの方が我々の生きる上では重要であって、それに比べれば自信があるかないかなんて殆どどうでもいいことだからだ。
しかしながら、自らの確かな倫理観を持ち、それに従って生きる人は自信がないなどということはないだろう。自らの正しさを認識し、それに従って生きているのであれば、自然と胸を張れてしまうものである。
勿論、そうした頑健な倫理観を持つには多くの試練が必要だし、自分の正しさに自信が持てない時もあるだろう。しかしながら、先に述べたようにそうした自信のなさは必要なものである。
自らの脆い倫理を試された時に感じる自信のなさ、不甲斐なさ、悔しさこそがその倫理を強くするのである。そして、己の倫理を崩そうとする数多の障害、敵を退けて来た倫理こそが我々に確たるものを提供してくれる。
そうしたものを心の内に宿した時、自信などというものの浅薄さを理解し、そんなものは態々求めようとするものでないことを悟るだろう。
大事なのは、もっと深いところにある、人間の本質的なものに目を向け、抗い続けることである。
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