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すぐれて哲学的な概念としての〈セカイ〉(荒畑靖宏)【フィルカルVol.9,No.1より】

はじめに

私のいわゆる「こすり倒した」もちネタとして、次のような逸話がある。
もうかなり前、哲学を専門としない社会人が聴講生の大半を占める連続講義を受けもっていたときのことである。
それは6日間連続の講義で、認識論や心の哲学におけるいろいろな問題や立場を入門的に紹介するというような内容だったと記憶している。
その最終日の最後に30分ほどの質問コーナーを設けたのだが、そこであるご婦人が次のような質問を投じたのだ。

「先生のおっしゃっている「世界」って、日本も含むのでしょうか?」

もちろん含むのである!
ただし、日本がそこに含まれるということがかなりどうでもよいような意味で、含むのである。
いや、それでは説明になっていないか……。
そもそもこういう疑問を聴講生に抱かせてしまったということもさることながら、この問いをぶつけられてアタフタしてしまった自分自身が、なによりもふがいなく、またそれが自虐的な笑いのネタになってもいる。

ところが、それからこのエピソードをネタとして公的にも私的にも反芻していくなかで、この失策が案外、哲学的に重要な意味をもつのではないかと思うようになってきた(もちろんそこには心理的な防衛機制が働いているのかもしれないが)。
というのも、件の講義のなかで―ということはつまり現代哲学一般において、ということだが―頻繁に「世界」という言葉とセットで使われた「心」という言葉については、聴講生の誤解を警戒してなんどもその哲学的用法をはっきりと説明し、日常的な用法と混同しないようにと注意していたからである。
これに対して、「世界」については、なぜか私はそうする必要をほとんど認めなかったのである。
どうしてなのか? 哲学は、「世界」という言葉をその日常的な用法をいっさい歪めることなく使っているからなのか?
いや、そんなはずがないことは私もよく分かっていたと思う。
ただその違いは、たとえば「個体の指示は心が世界に繋ぎとめられるためには不可欠だ」における「心」と、「頭では分かってるんだが、心が追いつかないんだ」におけるその同じ言葉の違いとは、なにかまったく違うものに思えたのだ。
私も後期ウィトゲンシュタインの思想から(そしてそれを道徳的な思考にまで拡張して提示するスタンリー・カヴェルの哲学から)すくなからず影響を受けた者のはしくれとして、哲学が言葉の日常的な使用を顧みないときには注意が必要だということは分かっているつもりである。
しかし、こと「世界」に関しては、私はどうしても日常言語哲学の基本態度から逸脱してしまうような気がしていた。
これはつまり、「世界」という言葉がわれわれに―あるいはすくなくとも私にとって―重要な意味をもつとき、ほかならぬその意味は、日常的言説のなかでのその言葉の模範的な使われ方では汲みつくせていないのではないかという疑念である。
ようするに、〈世界〉というのは本質的に、すぐれて哲学的な概念なのではないかということだ。

私のこの予感を確信にまで高めたのは、多くの人にはまったく意外なとりあわせだろうが、ライトノベルやアニメやコンピュータゲームなどにおいて「セカイ系」と呼ばれるジャンルに向けられた批判的言説であった。
というのも、私の目には、そうした批判の根底には、カヴェルが「懐疑論の真実」(Stanley Cavell, The Claim of Reason. Wittgenstein, Skepticism, Morality, and Tragedy, Oxford U. P.,1979, p. 241)と呼んだものに対する無理解が潜んでいるように映ったからである。
結論を言ってしまえば、カヴェルによる哲学的懐疑論の分析によって露わになった〈世界〉という概念の本質を、まさに「セカイ系」の作品群が体現しているのではないかということである。
本論考の目的は、一見すると突拍子もないこの主張に、できるかぎり説得力をもたせることにある。

1 「セカイ系」をめぐるあれこれ

もっとも、「セカイ系」をめぐる言説がもりあがったのはもうかなり昔の話(ゼロ年代前半あたりまで)である。
そのうえそれは、いわゆるオタク文化の領域を飛び越えて、現代思想や社会学の領域での議論をも巻き込むほどの大きなムーヴメントとなった。
よって、サブカル自体にも、また哲学外の社会理論の動向にも疎い私ごときが、いまさらその過去の一大イベントにアナクロニスティックに一石を投じることができるとは思っていない。
だから私は、セカイ系の何たるかや、セカイ系に分類されるべき作品についての従来の言説に対して、なにか異議をとなえたいわけではない。
むしろ、くり返しになるが、哲学者が口にする「世界」という言葉のわかりにくさと、セカイ系というジャンルに対する無理解とが、同一の源泉をもつのではないかと言いたいだけなのだ。
さて、セカイ系の定義としてよく引用されるのは、東浩紀によるそれである。

主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと。

東浩紀[責任編集]『美少女ゲームの臨界点(波状言論・臨時増刊号)』波状言論、2004年、64頁。

典型的な作品としては、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』(1999年から2001年にかけて『ビッグコミックスピリッツ』誌上に連載)、新海誠の短編アニメ『ほしのこえ』(2002年公開)、そして秋山瑞人(あきやま みずひと)のライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』(2001年から2003年にかけて『電撃hp』誌上に連載)などがよく挙げられる。
これに加えて、谷川流(たにがわ ながる)のライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』(2003年より『ザ・スニーカー』誌上に連載)を挙げても異論をとなえる人はほとんどいないだろう。
またより最近では、新海誠の『天気の子』(2019年公開)はセカイ系のお手本と言ってもよいような作品だし、軸となるのが少年少女の恋愛ではなく少女同士の友情であるという点で従来のテンプレからはずれるが、テレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)なども、私見ではセカイ系作品の名作である。

しかしながら、現在の定説によれば、セカイ系作品のルーツはもっと古いところにある。
それが、庵野秀明監督によるテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年から1996年にかけて放送)である。
というのも、「セカイ系」という言葉の発明者とされる、ウェブサイト「ぷるにえブックマーク」の管理人のぷるにえによれば、「エヴァっぽい(=一人称語りの激しい)作品に対して、わずかな揶揄を込めつつ用いる」というのがこの言葉の当初の使い方であり、「これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった」そうだからである。(前島賢『セカイ系とは何か――ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書、2010年、28 頁。)
たしかに、上で挙げたセカイ系の定義は、まさに『エヴァ』から汲みとられた(本質直観によって?)と言ってもよいほどである。
『エヴァ』の描く「世界」のあり方は、主人公・碇シンジがヒロインである綾波レイとの関係性を最終的に(かなり一方的に)どう規定したいと思うかの、一意的な関数である。

ところで、すでにぷるにえ自身による説明からも明らかなとおり、この「セカイ系」という名称はけっして中立的なレッテルではなく、むしろそこに分類される作品に対する「揶揄」を含んでいる。
「セカイ」という片仮名表記はそのためである。
セカイ系作品がそうした揶揄の対象となるのは、東浩紀の定義に見られるとおり、それらの物語には「具体的な中間項」が欠けているからである。
それは「社会」や「国家」のことである。(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン 2』講談社、2007 年、96頁。)
たとえば文芸評論家の前田塁は次のようにセカイ系作品を批判する。

私と世界が直結するという「セカイ系」という「キブン」もまた、厳然と存在する中間領域に目をつぶることによって、はじめて成り立つものでしかない。
「ほしのこえ」であっても「最終兵器彼女」であっても、戦争と「この私」の日常が等価であるかのような幻想を可能にするのは、個別売買的な主人公たちの「ささやかな現実」と、デイ・トレードさながらに空想的な暴力とのあいだに本来は構造として存在するはずの経済や歴史の問題をいっさい描かない選択、つまるところは書き手の恣意的な「関心」に従属する選択なのだ。

前田塁「小説の設計図(メカニクス)第8 回・飛躍の倫理」『文學界』平成17年3 月号掲載、253 頁。

こうした動向は、やがてセカイ系のメンタリティを危険視するところにまでいたる。
たとえば社会学者の宮台真司は、「〈世界〉のアレゴリカルな交響があるとする繊細な感性をアニメ版『時をかける少女』に、〈世界〉に無関心であるがゆえの「セカイ系」特有の出鱈目をアニメ版『ゲド戦記』に見る」と題した文章(2006年に雑誌『ダ・ヴィンチ』10月号に掲載)で、「自己肯定を巡る葛藤が克服され「自分の謎」が解消するや、「世界の謎」はどうでもよくなる。
こうした「世界=自分」であるような世界をセカイと呼ぶ」とし、ジブリアニメ『ゲド戦記』(2006年公開)をセカイ系に分類したうえで、なんとオウム真理教と同列に並べてすらいる(『セカイ系とは何か』210–211頁参照)。

ここまで過激な評価はあくまで商業的なものだろうから、それほど真に受ける必要はないにしても、ゼロ年代後半までにセカイ系をめぐって交わされた議論においてほぼ共通しているのは、セカイ系作品があるかぎられた時代精神を反映したものにすぎないという理解である。
たとえば東浩紀をセカイ系の擁護者に見立てて批判する宇野常寛は、1990年代後半の「古い想像力」とゼロ年代の「新しい想像力」を対比させ、セカイ系の想像力を前者を代表するものとしたうえで、それをゼロ年代後半になっても称揚する東を時代遅れと断じる。(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』早川書房、2011 年、第6 章。)
宇野のいう「古い想像力」とは、90年代後半に浸透した「社会的自己実現への信頼低下=「がんばっても、意味がない」という世界観」を背景とする想像力であり、いわゆる「大きな物語」が崩壊し、何が正しいことなのかわからなくなって、何かをなそうとすれば必然的にだれかを傷つけるという時代の空気から生まれた「引きこもり/心理主義」的傾向と、「その結果出力された「~しないというモラル」」を特徴とする(同書20頁)。
こうした想像力を象徴するのはもちろん『エヴァ』である。
これに対して「新しい想像力」を代表するものとして挙げられるのは、高見広春の小説『バトル・ロワイヤル』(1999年)と大場つぐみ(原作)・小畑健(作画)によるマンガ『DEATH NOTE』(2003年から2006年にかけて『週刊少年ジャンプ』誌上に連載)である。
これは、9・11アメリカ同時多発テロ、小泉内閣によるネオリベ的構造改革、「格差社会」意識の浸透などによって、「「引きこもっていては殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という、ある種の「決断主義」的な傾向を持つ「サヴァイヴ感」」(同書23頁)が人びとに共有されはじめた結果であるとされる。

こんな雑な思弁的歴史心理学に、いまさら目くじらを立てる必要もなかろうと言われるかもしれない。
しかし、私が反発を覚えるのはそこではない。
むしろ私に違和感を抱かせるのは、こうした批評的言説においては、セカイ系作品において問題となる「セカイ」、つまり「世界」が、「社会」や「国家」や「共同体」の延長線上にあると考えられているらしいということなのだ。
だからそれらは、「ぼくときみ」と「セカイ」のあいだにある(べき!)「中間項」や「中間領域」と呼ばれるのである。

しかし私の印象は逆である。
もしも「世界」と呼ばれるものが私(たち)にとって重要なものであるなら、それは社会や国家のその先にあるようなものとしてのそれではない。
だからそれは、社会的地殻変動によって生まれた新しい想像力によって簡単に克服されるようなものではなく、もっと人間的本質の深いところに根ざした、普遍的な問題と直結している。
だから「世界」は、すぐれて哲学的な概念なのである。
そして私は、そうした意味での「世界」をフィクションにおいて描くことができているのが、まさしくセカイ系に分類される作品たちだと考えている。
(セカイ系作品において「世界」は紛れもなく重要なものである。
だからこそ、その「滅亡」や「オワリ」が大問題になるのだ)。

2 世界(セカイ)の哲学

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荒畑靖宏 Yasuhiro Arahata
慶應義塾大学文学部教授。単著に Welt­-Sprache-Vernunft (Ergon 2006)、『世界内存在の解釈学』(春風社、2009年)、『世界を満たす論理』(勁草書房、2019年)など。共編著に『これからのウィトゲンシュタイン』(リベルタス、2016年)、『あらわれを哲学する』(晃洋書房、2023年)など。

note掲載にあたり必要最低限の編集を行いました。(フィルカル編集部)


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