【試し読み】(ポルノ化した)社会の中のポルノの哲学(八重樫 徹)

2023年8月31日に刊行される『フィルカル』最新号の特集のひとつ、「アミア・スリニヴァサン『セックスする権利』を読む」。

『セックスする権利』は、2023年2月に、山田文訳、清水晶子解説で、勁草書房から刊行された、
世界的なフェミニストによる注目作の日本語訳。

この特集は、『分析フェミニズム基本論文集』の編訳者としても知られる木下頌子氏が「ぜひとも意見を伺ってみたい4名の方々」に声をかけたことで実現した。

今回はそのうちのひとつ、

  • 八重樫徹. (2023).「(ポルノ化した)社会の中のポルノの哲学――スリニヴァサン「ポルノについて学生と話すこと」を読む」『フィルカル』8(2), 116-127.

の冒頭を抜粋して紹介します。


ポルノグラフィーの哲学はいまや一大分野を形成している。
フェミニスト哲学と重なりつつ、また社会学や心理学におけるポルノ研究と影響し合いながら、多くの論文が生産されている。
そうした動向の中でいまだに顕著なのは、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンをはじめとする反ポルノ・フェミニストの1970年代終わりごろから1980年代にかけての活動が及ぼしている影響である。
例えば、マッキノンらは1983年に起草した反ポルノ公民権条例案の中で、ポルノを「画像および/もしくは言葉によって生々しく性的に露骨な仕方でおこなわれる女性の従属化」として定義した(MacKinnon & Dworkin, 1988)。


MacKinnon, C. and Dworkin, A. (1988) Pornography and Civil Rights: A New Day for Women’s Equality. In Minneapolis: Organizing Against Pornography. (2023年6月24日最終閲覧)

しかし、ポルノという表現物が女性を従属させる行為そのものであるとはどういうことだろうか。
この点(およびその他多くの点)について彼女たち自身が与えている説明には不明確なところがあった。
専門的な哲学のトレーニングを受けた研究者たちが、哲学に関しては素人である彼女たちの主張を明確化し、反ポルノ運動にシンパシーを持たない人々をも説得できるような議論を構築する。
やや意地悪くいえばこのような仕事に、レイ・ラングトンをはじめとするフェミニスト哲学者たちが取り組み、論文を量産したことが、ポルノの哲学の成立に大きく寄与した。

しかし、こうした成立過程は、ポルノの哲学の――少なくとも初期の――議論空間全体に一定のバイアスを植え付けることにもなった。
「ポルノはジェンダー不平等を維持ないし促進するものであるという点で有害である」というのがマッキノンらのおもな主張の一つだったが、フェミニスト哲学者によるポルノをめぐる議論の中ではこの考えが多かれ少なかれ前提され、ジェンダー不平等な秩序はどのように構築されるのか、ポルノはそこでどのような働きをしているのか、その働きはポルノをどの程度またどのような意味で有害なものにしているのか、といったことが議論されてきた。
そこでは、現実にどのようなポルノがどのようにそしてどれくらい生産され、どんな人々がどのようにそれらを鑑賞しているのか、といったことが具体的に語られることは少なかった。

分野が成熟するにつれて、こうした状況に対する不満も蓄積していった。
哲学の外側ではポルノ研究が進展しており、ポルノに関するフェミニズムの態度と言説も変化している。
マッキノンとドウォーキンの成果をリスペクトするのはよいが、彼女たちが書いたものへの注釈のようなことばかりしていては、ポルノの哲学は時代遅れの秘教的学問になってしまう、といった危機感を覚える人もいただろう。
2010年前後から、より大きな文脈の中で、他分野のポルノ研究の成果といわゆる第三波以降のフェミニズムの動向に目を配りながら、ポルノの哲学を新たな方向に展開させようとする動きが起こりはじめた*1。

アミア・スリニヴァサンがこうした動向を踏まえたうえで「ポルノについて学生と話すこと」というエッセイを書いたことは間違いない*2。
このエッセイはマッキノンらの反ポルノ運動を受けて起こったいわゆる「フェミニスト・セックス戦争」のいくつかの場面の描写からはじまっている。
マッキノンに対する(アンドレアではなく法哲学者の)ロナルド・ドウォーキンの反論や、ポルノの「権威」をめぐるラングトンの議論なども取り上げられている。
そのため、このエッセイは初期からのポルノの哲学の議論動向に馴染みのない読者にとっては、簡潔で明快な解説として読むことのできる部分を含んでいる。
しかし、それだけの文章ではまったくない。
スリニヴァサンがこのエッセイでやろうとしているポルノの哲学は、反ポルノ・フェミニズムの単なる注釈ではなく、例えば「性的モノ化」や「沈黙化」といった概念の定義をめぐるプロレスでもない。

彼女は現実に生きていてポルノの影響にさらされている身近な人々――つまり彼女の学生――の声を聞くところから議論を始める。
そうした声を聞き、現在のポルノに目を向けてみれば明らかなのは、インターネットの普及によってポルノ産業が1980年代とは比べものにならないほど肥大化し、未成年者も含め多くの人が日常的にポルノを消費することが当たり前になったということである。
「哲学的な次元での話は別として、実際面と技術面では、インターネットによって「ポルノ問題」は解決した」(49)*3と彼女はいう。
これは、マッキノンらが目指したポルノの法規制がほとんど意味をなさなくなるほどにポルノが社会に浸透したことを意味している。
この現実がどのような問題を含んでいるのか、それに対して私たちはどのように対処すべきなのか、という問いがつねにスリニヴァサンの関心の中心にある。
彼女にとってポルノとは身近な人々(と自分自身)に確実に影響を及ぼしている現実の「問題」であって、単なる概念分析の対象ではない。
こうした関心の向け方は、ポルノの哲学に携わる人やこれから始めようとする人にとって模範とすべきものであると思う。

こうした関心のもとで書かれた「ポルノについて学生と話すこと」は、ポルノとフェミニズムに関するいくつもの重要な洞察を含んでいるが、私が特に注目したいのは、これまでのフェミニズムが犯してきた、あるいはこれから犯しうるリスクに関する二つの洞察である。
一つめはいわば女性の性的エンパワメントがもつ負の側面にかかわる。
二つめは保守的マジョリティによる反ポルノ・フェミニズムの成果の簒奪――あるいは保守的マジョリティと反ポルノ・フェミニズムの結託――によって起こるマイノリティの排除にかかわる。
順番に見ていこう。

・・・


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  1. 例えば江口聡 (2006) 「性的モノ化と性の倫理学」, 京都女子大学現代社会研究9: 135–150); 江口聡 (2007) 「ポルノグラフィに対する言語行為論アプローチ」, 現代社会研究科論集1: 23–37; Coleman, L. and Held, J. M. (eds) (2014) The Philosophy of Pornography: Contemporary Perspectives. Rowman & Littlefieldの編者序論を参照。

  2. スリニヴァサン『セックスする権利』、なかでも特に「ポルノについて学生と話すこと」に関するレビュー記事としては、すでに鈴木涼美 (2023) 「「ポルノ女優」についてばかり語られる「AVにまつわる規制の議論」は、何を見逃しているのか?」, 現代ビジネス(https://gendai.media/articles/-/109296)(2023年6月24日最終閲覧)がある。

  3. 以下、スリニヴァサン、アミア (2023) 「ポルノについて学生と話すこと」, 『セックスする権利』(山田文訳)勁草書房、2023年、45–99頁.から引用する際は、邦訳の頁数のみを示す。


八重樫 徹 Toru Yaegashi  広島工業大学工学部准教授。専門は倫理学、フッサールと初期現象学。主な業績に『フッサールにおける価値と実践』(水声社、2017年)、『ワードマップ 現代現象学』(共編著)(新曜社、2017年)など。


ブログ転載にあたり、必要最低限の編集を加えました。
(フィルカル編集部)


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