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結局、中庸が大事なのかも

りあです。「周りを見すぎるのもよくないかもしれないけれど、完全に見ないよりはいいのかも」と思うことが多々あります。

私は正直、人と交流することが得意ではありません。いわゆる、パリピといいますか。外交的といいますか。「みんなで楽しもう!」みたいなノリが、どうしても苦手です。

だからこそ、相手を不快にさせないというか、つかみどころがないというか、感じが悪くはない態度などを身につけてきた。関わらないけど、拒絶感はない。寄ってはこないけれど、不愛想ではない。同意はしないけれど、否定はしない。そんな感じ。

敵はいないけれど、超味方もいないというか…なんというか、集団を端っこから見ている野良猫程度がちょうどいいんです、私にとっては(笑)

そういうスタンスで生きていくためには、周りを観察しないといけません。「あの人は○○な言い方が特徴的だな」とか。「あの人は〇〇が嫌なんだろうなぁ」とか。ものすごーく踏み込んだことは知らないけれど、大体人の思考回路の特徴は掴んでおく。好き嫌いも。

その事前準備というか、前提知識というか。そういったものを持って接すると、まぁ相手に不快感は与えないのです。相手のNGには絶対触れないようにしているから。地雷を踏まないように気を付けているから、ともいえるかもしれない。

私が人間観察が好きなのは、「あまり人と深く関わらずに、かつ問題を起こさずに、自分がのびのびするための処世術」の延長線かもしれません。単純に「いろんな人間がいるなぁ」「どうしてそう考えることに至ったのか?」とかを面白いから、というのも理由なのかもしれませんが(笑)

しかしながら、「人を見ること」は時に自分の首を絞める。「あ、この人は〇〇だろうから…」とか考えて、どうしても自分を押し殺してしまうから。誰かと誰かのあれこれを見ると、「そういったらその人怒るよ~…って、もう怒っちゃった」とかになって、ちょっと疲れる。勝手に疲れる。

自分のことを、私は「よく周りを見ている人」とは定義しません。本当に周りを見ている人はたくさんいるでしょう。私は「眺める」程度なのだと思います。

たまーに、「もっと自分のことに集中してもいいんじゃないの私」とか思う。「周りのこと見るよりも、ちょっとは自分中心にやってもいいんじゃないの」とか。まぁ、それなりに私も自己中心的だろうし、利己的だとは思うのですがね。

しかしながらね、いるんですよ。「私が!世界の!中心!!」みたいな、自分の人生を自分のために生きていらっしゃる勇ましき人が。それはそれで、良いのだと思います。人生一回きりだし、まぁ人生を謳歌することは充実度につながるし、きっと幸せでしょう。

盲目的に自分を見ることができるって、すごい才能だと思うんです。嫌味じゃないですよ。ほんとに。私は結構ブラックジョークを愛しているので、嫌味かと思われる人も多いかと思うのですが(笑)

すごいことだとは思う。けれど、少しだけ、「少しは周りを見た方が、回り回って自分の幸せにもつながるのかもね」とか思う。前にも書いたけれど、人間は誰かと比較しないと、自分の良さにも気づけないものです。

いろんな意見があるとは思いますけどね。自分に集中することで、自分の声が聴きやすくなるかもしれないし。周りに惑わされずに生きていけるかもしれない。どっちが良いとは、誰も分からない問題かもしれません。

なにかと遠くから観察してしまう私のようなタイプは、あまり熱が入らないのだと思う。熱中できないというか。それに比べると、自分だけを見ることができるタイプの人は、情熱を持って何かを行える、という気がします。個人的な意見ですが。

いやはや、人間いろいろありますね。とはいえ、中庸といいますか、「程よく」がなによりもちょうどいいのだと思う。真ん中が良い、しかしその真ん中は案外難しい。

「周りを見すぎても自分のことがおろそかになるし、自分を見すぎても周りのことがおろそかになって衝突する」と某反面教師(まぁ家族という存在なんですがね)を見ていて思った。ううむ、難しい。

難しいからこそ、いつの時代だって人間は悩むのでしょう。人間関係に。そう考えると、「今日も自分、人間やってるなぁ」と安心できるとも言えますがね。

Have a vivid day

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