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カントの地。哲学。そして私。

 268回目です。φです。

 1月ももう20日目かぁ。と思うと、本当に時間って無駄にできないものだと思います。

 20日経ったということは、20日×24時間=480時間。あっという間。

 私の個人的な感想だけど、20日経った!は結構な時間に思えるのに480時間って少ないイメージに変わっちゃいました。なぜ。

 時間という概念を作ったから、こうやって私たちは計算して、日にちを数えて過ごした時間に思いを寄せる。時間は限られているのだと知る。

 けれど、もし時間という概念がなかったら?個人個人が自分の感じるがままに生きて行動したら?

 例えば、「眠くなった。寝る。」「働かないと生きる糧がなくなった。」「お腹がすいた。食べよう。」とか。原始的になっていますね。

 この時間の概念を取り外した世界だと、きっと自分の年齢なんて外見だけで判断されるだろう。どれくらいその人が生きたか、という疑問を解決するために測る概念がないのだから。

 段々この道を歩くのが難しくなってきたなぁ。目が霞んできたなぁ。耳が聞こえにくくなったなぁ。髪が白くなってきたなぁ。

 そういった事実によって、自分の肉体の変化を知るだろうね。それで、いよいよ動けなくなったりして、「自分はこれで終わりかぁ」になるのかもしれない。

 時間の概念を取っ払って考えることは実際不可能に近いと私は思います。なぜなら、それはすでに私たちの価値観のように、存在していて、「無い」という状態を想像するのが難しいから。

 取っ払ったように思えても、きっとどこかに私たちは時間の概念を潜めているのだろうと思う。

 「もし、~だったら。」という仮定法は、根本に持つ自分自身の経験、文化、育った環境。それらが影響されずに続く文を記すことはできない。

 …と、私は思っています。できる人もいるかもしれない、けれどそれを確認する術はない。概念は取り除かれたかどうか、可視化できないのだから。

 取り除かれたか否か、を判断するのも、また同じように概念というものを持っている人間によって成される。AIに頼れば良いか?AIに頼んだとしても、彼らは私たち人間によって構築された知能によって学習し、それを記憶、発展させていくのだから、概念を取り除く、ということはできているのかどうかは定かではないと思う。

 さてと。最初っから突っ走っていますね今日!アクセルとブレーキ間違えちゃった☆ドーン!ってくらいには。

 何かしらの嫌な経験がある方には不愉快さを与えてしまう表現でしたら、申し訳ない。流してください。

 いつも勝手に語って突っ走っている私が、なぜ今日は前置きもそこそこにめちゃくちゃ張り切っているかを少しお話します。

 私は薄々気づかれている方もいらっしゃるかもしれないけれど、カント哲学が大好きです。いやカント自身が好きです。会ったことないけど。

 毎日15時にお散歩する習慣があって、そのお散歩を目撃したら街の方々が「あ、15時だ。」って分かっていたとか。

 批判はもちろんあったけれど、彼を訪ねて遥か遠い国から哲学者たちがやってくる、とか。魅力的な人物だったそうですね。彼は一生涯ケーニヒスベルクで過ごしました。

 今ではロシアのカリーニングラード。彼が教鞭をとり、学長としても過ごした大学も、ケーニヒスベルク大学からカリーニングラード国立教育大学、そしてカリーニングラード国立大学、イマヌエル・カント記念バルト連邦大学へと名前を変えました。

 ケーニヒスベルク大学、ケーニヒスベルクの戦いで徹底的に壊されてしまったのです。ドイツを匂わせるものはことごとく破壊。そしてドイツ人を追い出し、ドイツの面影をロシアは失わせました。当時だとソ連ですね。ソビエト連邦。

 8割が破壊され、残った2割は今のイマヌエル・カント記念バルト連邦大学で利用されています。見た目は全くもって変わってしまったそうです。

 今でも時々話題になっています。カリーニングラード。

 ロシアのオフィシャルのTwitterが、「カントはカリーニングラード出身のロシア人」とか書いてしまったとか、なんとか。

 カント自身はロシアだろうがドイツだろうが、私はこの地に生きている。ということを述べた、というのをどこかで私は目にしました。ちょっとソースを思い出すことができないので、あくまで私の不確かな情報ということでご理解ください(笑)

 カントについて語ってしまいましたね。私が哲学に興味を持ったのはドイツ哲学、そしてカントさんなので…ついつい。

 カリーニングラードという、奇妙で美しい場所も私をカント好きへと盛り上げた原因でもあります。カリーニングラードについては、本当に素敵なnoteがあるのです。

 本当に詳しくまとめられた素晴らしいnoteなので、どうぞご興味のある方はぜひぜひ。

 カント哲学に盛り上がったのは、私がふと「…は!もしかして!」と私がカントの哲学を好きすぎる理由を考えていたとき。

 そして、来る来院日に愁いを帯びていて、「私ってなぜ哲学に興味があるのだろう…懐疑主義的なものばっかり…」と思っていたとき。

 あ、来院って先天性無痛無汗症の神経内科です。まぁ病院に行っても「生きてました~!うん、手足くっついてる~。Bye!」程度なんですけどね。ここまでフランクじゃないけど(笑)

 それはさておき、懐疑主義と私。

 「本来なら知覚されるべき感覚が存在していることは確実なのに、それを知る器官が私にはないから”存在しているのに存在しない”という認識になるのかも…?

 例え存在していても、それを知るか知らないか、認識するか否か、という判断がなければ存在していても存在しない。

 したがって、少なくとも私には「存在しているが認識しないため、存在しない」ということがある。

 それを私は知っている。痛みが必ず発生する場面、例えば流血、だとしても私自身はそれを目で見て、「目という視覚を用いなければ理解することはない」、「視覚で見なければ認識することはない、無かったことになっている」事実があるから。」

 だからこそ、私は自分自身を疑っているのです。そして自分自身を疑うついでに、現象そのものを疑っている。本当に在るのか、無いのか。

 うわー、こじらせてる私。

 …と、思いました(笑)

 自分の興味への謎を究明したら、まさかの好きな哲学に至る経由までたどり着きました。あらら。

 カントの哲学を読むときの鳥肌が立って、心が震える私の反応はまだまだ続きそうです。一生考え続けるだろうね、私は彼の哲学を。

 理解できているか、それが正しいかどうか、意図に気づいているか。そんなの、個人の趣味だから私には関係ないのです(笑)

 そんなこんなで、私の哲学への熱情を偶然気づきました。気づいただけですが、まぁそれだけでも楽しいものです。

 ああ、ケーニヒスベルクに行ってみたかった。多くの名だたる人々を生み、「王の山」と名付けられた場所はどれほど綺麗だっただろうね。今は見ることができない、それが本当に残念。

 私はロシア語を磨き次第、カリーニングラードに行ってみようと思っています。カントへの愛だよ!かつてのケーニヒスベルクへの愛だよ!(笑)

 最後になりましたが、センター試験を終えた方々、どうぞご自愛ください。まだまだ気は抜けないと思いますが、気を抜いた時が一番体調を崩しやすいものです。

 さて、ここでいうのもあれですが、今年こそは人を悲しませるような、差別的な点数の話題があがってこないことを祈ります。どうか公正に。

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