”誰もが楽しめる”の難しさ

807回目です。φです。

最近”声を運ぶSNS”が流行っているようですね。Twitterについかされたスペースも、ポッドキャストも、ツイキャスも。他にも様々なものがあるようで、アプリを調べると山のように出てきました。

私も興味のあるものにはいくつか参加しています。歴史のことだったり、誰かの個人的なものだったり、勉強系だったり。本当に様々な方の声を聴いています。

文字の文化から、声の文化。そう変わっているのかもしれないな、と思います。YouTubeは少しばかり”一般人が参加できる”とは違いますし。発信者になるのはね。聴く側だったらYouTubeのLIVEとかありますけれども。

その移行に伴って、人の声が聴ける、という面白さや素晴らしさを知ると同時に、”聞き取れない”ということも改めて知ってしまいました。難しいものですね。

私は人の声は素晴らしいと思っています。感情を含ませることだってできるし、声が少し変わるだけでその人の気分が分かったりする。言葉に含ませたものも、声の調子を変えるだけで伝わったりね。

それに、どんなに似ているとしても声はその人のものです。その人だけのもの。その人の人となりを示すものでもあるし、声を聴いただけでその人を思い出すことだってできる。

私はあまり声が好きではありませんでした。人の声は楽器のものより不確かで、音程が微妙。嫌になることもあります。

けれど、The Legendというオペラグループの歌声を聴いて以来、声というものへの印象が変わりました。人の声ってすごいな、こんなに美しいんだ。今となっては、そう思います。

…とは言っても、やっぱり聞きにくい声の人はいたり、苦手な声の人もいる。けれど、”声”そのものが好きになれたのは、本当に良かった、と思うことです。

さて、声での配信が多くなったこのご時世。

聴覚情報処理障害という壁は、本当に高くて、”なんとかやっていく”ことは難しいんだということに気づかされます。

聴こえる。でも何を言っているかは分からない。

楽しそうな声だから、何か楽しいことを話しているんだろう。聴こえてくる単語もポジティブなもの。いくつか聞き取れる。文章を組み合わせてみる。”こんなことを言っているのかも”という予測を立てる。

これくらいしか、できないこともあります。自分の知らない単語が出てきたり、馴染みのない単語が出てくるともう”さっぱり分からない”。分からないことが続くと、もう何をしゃべっているのかすら予測ができない。

聞き取れたら楽しいんだろうな。

少し寂しさを感じます。YouTubeのLIVEなどではコメントが見えるので、それを見て「聞き取れているんだ」と思って、また少し自分に苦笑い。

参加したい。でも傍観者どころか、通り過ぎる人くらいにしか聞き取れない。

そう感じることもあります。

”誰もが楽しめるもの”というのは本当に難しい。文字の文化だったら視覚を要求される。音の文化だったら聴覚を要求される。

誰も取り残されずに、すべての人へ。

その楽しみが、当たり前になる時代が来たらいいな、と思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?