見出し画像

写真を撮って気づいたこと。感覚と正確さ。

808回目です。φです。

写真って難しいな。そう思います。今まで気にしていなかった分、ものすごーく難しく感じる(笑)

Instagramをはじめて、まだ投稿はしていない。いくつか写真を撮って、どれが人にとって見やすい写真だろう、と考えるとなかなか投稿できない。光が足りていないことがほとんどで、逆光になることも多い。

自分の暮らしていた環境が、いかに暗いかを実感します。私にとって”割と適度な明るさ”は写真にすると薄暗くていまいち何があるのか分からないみたい。写真を撮って見せても「明るくして」と言われることもほとんど。

自分の目と平均的な人の目のギャップが分かってしまった、という気持ち。私にとって”明るい”は”暗い”で、誰かにとって”明るい”は私にとっては”眩しい”で。誰かにとって”暗い”は私にとって”ちょうどいい”のだろう。

写真を撮って、ようやく分かる感覚の違い。不思議なものですね。

写真の加工にしても、違いを実感する。

私が「眩しすぎるけど、これはどうだろう」と思って見せた光を追加して明度と彩度を上げた写真は、「まぁ見やすい」という評価をもらう。私にとっては調整中も「眩しい!見えないー!」と思っていてもね(笑)

それだからか、私はInstagramの写真がほとんど眩しい。自分のスマートフォンやパソコンは暗めに設定しているけれど、それでもなんだか目には優しくない。きっときれいな写真なんだろうけれどね。それを実感できないのは少し残念な気持ちでもある。

きれいなんだろうな、と思って写真を見る。実物を見て「きれいだ」と思わずに。…これもまた、なんとも不思議なものです。

”視覚”という感覚ひとつとっても、こんなに違いがある。眩しいと感じる光量、暗いと感じる光量。適度な光量。人はある程度同じ感覚を生きているのだろうけれど、同じものは存在しないのだろなぁ。似ていても違う。

自分の感覚を共有することは難しい。そもそも直接的に共有することはできない。できたとしても、受け取り方が人それぞれであって、完全に一致させることは不可能だろう。直接的にできないからこそ言語を介入させて共有する。けれど、言語だって共通の認識を持っているようで持っていない。誰かにとってはその言葉自体の捉え方や基準が異なる可能性だってある。

確かなようで、不確かな世界だなぁと思います。本当は正確なものなんてないのかもしれない。

自分が確かだと思っていることすら不確かになることがある。だからこそ、色々なことに寛容になった方がいいのかもね、なんて思う。絶対なんて断言できないのですから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?