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接十分鍾的吻

 

 香港。

 “世界一危険な国際空港”として知られた啓徳空港が健在の1997年、初めて当地へ降り立った。99年間の租借を完了し、英国から中国への返還が行われたまさにその年、香港の街はそこらじゅうに異様な興奮と不安が渦を巻いていた。

 九龍の高層建築すれすれを旅客機が飛んでゆく様は、着陸寸前の機内の窓から見るだけでも想像以上の迫力で、シートベルトをはずす前からぼくのテンションは最高潮に達していた。返還に合わせ九龍城の本体はすでに破壊されていたけれど、あの殺伐とした凝縮空間はいまだ周囲の建物群に色濃く余韻を残してもいた。啓徳に代わる新空港の建設工事も沖合ですでに始まり、街の中核部へと弾丸的に乗り付ける特急路線の関連工事は市中各所で佳境を迎え、ターミナル駅を忙しく行き交う人々の導線を圧迫しまくっていた。



 世界で最も濃密な高層ビル群を少し仔細に眺めるなら、その数十階建ての新築工事や改修保全の足場の逐一が竹で組まれているという、信じがたく特異な光景。押井守が『攻殻機動隊』で描いた“無セリフ長回し”のショットは、1ミリの誇張もなく香港そのものだったとわかる。全体のウェットな空気感はもとより、劇中でしばしば登場人物たちが踏む水溜りや蹴り倒すゴミ袋の山までが、街を歩く自身の肉眼視するそれらと混濁してくるようだった。交差点に立ってふと見上げると、十字に区切られた灰空からは何やら離人的な感覚すら舞い降りてくる。夕暮れすぎの、裸電球や切れかかって点滅する蛍光灯に照らされた九龍の夜店はどこも海賊商品が溢れていた。町角のラジカセからはテレサ・テンの深い歌声が、夜更けまで響いていた。

 期せずして同じ'97年のうちに、香港へは二度赴くことになる。一度目は中学時代の親友がゆえあって当地に住んでいたからで、彼の仲介により暇でかつかなり綺麗目な女子大生たちを案内役に得た。ちなみにEメールとはぼくの場合、まず帰国後彼女らとの会話代わりに使えるという驚きから入ったためか、会って話せば良いことをわざわざメールで言ってくる類のモードにずっと馴染めていない。観光地的なスポットにまったく興味を示さないぼくをきっと面白がってくれたのだろう、高層階にある彼女らの自宅や広東語のみ通用する住宅街の鮮魚を扱う屋台など、いきなりディープな現地人世界に入り込めた。二度目の滞在は別件での訪問だったが、空き時間には引き続き彼女らの世話にもなった。「中学の親友」はその後大学を出て大手銀行に得た職を三ヶ月で辞め、外資コンサルで働く姿をニュース誌に特集されたあと、誰もが知る企業グループ傘下で恐らく史上最年少のCFOに抜擢された。目下手前は風来坊のこの差である。どうしてこうなった。


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 彼女の名は、たしか美蕾といったと思う。記憶が曖昧なのは、もっぱら英名で呼んでいたからだけれど、そちらはまぁ伏せておく。それに曖昧なくらいが書きやすい。彼女は香港大学で生物化学を専攻する学生だった。香港の女の子は日本や韓国、台湾などに比べとにかく垢抜けていて、立ち居振る舞いの輪郭がハッキリしている子が多い。きっと特殊な政治状況下で、世界的にも際立って何もかもが凝縮された街に生まれ育ったせいなのだろう。意識が緊密というか、反応も総じて素早い。あくまで平均値のことを言っていて、もちろん個別の差異が全体の差異を凌駕するのはどことも変わらない。しかしたとえば映画や音楽などの分野で、たかだか人口600万かそこらのこの街が、台湾や韓国はもとより大陸中国や日本とすら競るほどの文化発信力をもつことが、以前から不思議で仕方なかった。実際に来てみると、その理由も十分すぎるほど納得できる。むしろ単独で大国と競ることを、あらかじめ宿命付けられた街だとすら言える。

 そんなだから性格的にも俄然個性の際立つ子が多かったのだけれど、美蕾はそのなかでも明らかにズレた目立ちかたをした。北京生まれ上海育ちの稀なバックグラウンドが、北京語の教育が始まる前の香港で彼女を逸らせた面もきっとあるのだろう。とにかく快活さの点で飛び抜け過ぎており、敢えて言うならヤバい水準で何事にもアクティヴ否アグレッシヴな奴だった。瞳孔開きっぱなしというか、脳内物質の分泌バランスが間違っていたのかもしれない。ぼくがアート全般に興味をもつと知った途端、実はあたし芸術学部への転部を考えているんだと言い出して、建築系の校舎内部を連れ回されたりもした。見ず知らずの建築科学生たちの、作りかけの模型や設計図が散乱するなか着替えやら食器やらが混ざりこむ、半ば生活空間と化したアトリエ群を見学できたのは面白い体験だった。けれどもいま思えば医学部にも法学部にも、宇宙工学科にすらきっと転部を考えていたんじゃないか。気が多く、それに見合う知的体力も日々蓄え続けている感じ。

 香港大学は九龍の市街部からはかなり外れにあって、一帯の丘や山をまとめてキャンパスにしたような学校だった。体育系のサークルなども、いかにも伸び伸びとランニングやトレーニングに精を出している。もっぱら高層ビルと高層住宅に囲まれた狭苦しい環境で育ってきた学生が多いだろうし、この環境は余計に貴重だろうなと感じた。ここに進学したらどうなるかという想像は、正直とてもわくわくした。その丘を思うまま奔放に、彼女が日々駆け回っているのんきなイメージ。つまりはまぁ、ちょっと好きになっていた。



 尖閣諸島の文字が紙面にモニター上に踊り、漁船拿捕やら反日デモやらの映像に接するさなかで、ぼくがはじめに想起するのはだから、いつもこの'97年に出会った彼ら彼女らの顔である。二度目の香港滞在時、ぼくはある学生交流企画の日本側学生代表で、美蕾は香港側の代表で、他にドイツやらシンガポールやらの学生もいて、百人単位で香港の学生たちが迎えてくれた。事前に聞いてなかった初日到着直後の英語による代表スピーチは、わが黒歴史七本槍の座をなお守る。その後半月に及んだ、笑い合ったり小突き合ったり、眠い目をこすって夜通し遊び倒した記憶ばかりが先に立ち、略奪された日系の店舗や燃やされた工場の黒煙をいくら画像で見せつけられても、それで自分のリアリティが揺れ動くことはまったくない。

 彼ら香港の学生たちは、尖閣の存在を皆がよく知っていた。英国政府任命の香港総督下でも義務教育で教わっていたからだ。問い詰めてくる優等生然としたメガネ女子もたしかにいた。しかしそんなものは結局のところ、お寒い行為として彼ら自身のムードにより言外に抑えこまれてしまう。同年齢の日本人たちよりずっと大人な連中だった。画面のフレーム外にあるものへ想像を泳がせたとき、あのように心優しく真っ当な人間たちが直接会った彼らだけではないことくらい、一瞬で了解できる。

 かつて村上春樹は書いた。《「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ》 これを初めて読んたとき即座に思い起こされたのは、尖閣について問い糾してきた女の子が、周囲の香港人たちからの視線に気づいて即座に露わにした、やや俯き加減な戸惑いと恥じらいの表情だった。《文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ》 《その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲むような努力を重ねてきた》

 よく知る人々がそれらを打ち壊し始めても、個としてそこに立ち続けること。同調はしないこと。綺麗事では済まされない、喪失と傷を自他に強いる営みかもしれない。しかし。帰国して成田空港発上野行きの京成電車から、いかにも日本の田舎然とした田園風景を眺めながら、ずっと思い出していた。啓徳空港での別れ際の、はた目にはきっと少し長めの挨拶というくらいだったろう。けれどこの身には一分にも十分にも体感される、ぼくの背中へきつく回された美蕾の両腕のわずかな震え。彼女の温度が、全身に染み透ってゆくのを感じる。胸元に落ちてきた水滴のはげしい熱さ。伝わってくる鼓動。灼けるような息遣い。両腕が勢いよく解かれる刹那、首筋にふれた唇の幽かな気配。京成電車の窓外の景色が、田園の緑から首都圏の灰褐色へと姿を変える頃、「ちょっと」ではなかったのだと、気がついた。本気で好きになりかけていた。




 

※本稿は、2012年秋に書いたものです。尖閣での漁船拿捕や、村上春樹による関連声明が話題になった頃のこと。今年('16)の香港深圳取材滞在記を近々連投予定。'14年雨傘運動時、香港を経由した際に書いた文章は[こちら]。

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