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架空琉球#2「自己分析の回」

前回から今回の間にもいろいろと考えたり調べたりしていたが、自分でも何を考えているかよく分からなくなってしまったので整理するためのものをここに書いておこうと思う。

やりたいことをまとめる

難しいことを色々考えているうち、何がやりたいのか分からなくなってしまったのが一番よくなかったと思っている。なので、まずどういう架空鉄道にしたいのかというシンプルなところから考え直していこう。
何がやりたいのか、どういうことを考えたいのかという部分が、その架鉄の本質となって支えになるはずである。

やりたいこと1:軽量交通

まず一番にやりたいことは軽量交通である。
日本の都市交通は高い人口密度が故、どこへ行っても車両が大型化してしまうので、どこで架鉄をやっても車両を大型化せざるを得なくなる。特に通勤電車であれば尚更である。確かに大手私鉄のような全幅2800mm、全長18~20mの大型車両を考えるのも楽しいが、最近はもう一回り小さい電車が走る通勤鉄道にはまた違った魅力があるということに気付いた。
その中でも架空琉球への着想に大きな影響を与えたのは、Euskotren、FEVE、FGVといったスペインメーターゲージの都市鉄道である。

Euskotren

▲Euskotrenの駅と電車

Domingo Kauak氏より引用
On el metro es converteix en el trenet

▲FGV(Ferrocarrils de la Generalitat Valenciana)の電車と沿線

Adrià Pàmies氏より引用

こうした電車を眺めていたところ、トラムと日本的大手私鉄の中間にあるような、細くて短い電車が漂わせる魅力というのに感化されてしまい、こういった軽量交通を東アジア的な大都市に走らせてみたいと考えるようになった。そこで舞台として浮上してきたのが琉球、那覇である。
現実の那覇都市圏は人口60万人程度の中規模都市であるが、人口密度は横浜市と同程度と非常に高い。これは可住地が少なく、南北に細長く展開していることが要因であると考えられるが、このような地理的特性は軌道交通にとって非常に好都合である。そのため、この特性を生かして14m~16m程度の小型電車の走る、那覇を舞台とした架空鉄道を考えたいと思うに至った。

やりたいこと2:架空都市史 架空交通政策

自分なりの交通政策を考えるということも以前からやりたいと思っていた。
以前、架空鉄道のことを考えるために東京や大阪の交通史を調べたり、気になってパリの交通史を調べたりしたのだが、これがとても面白く、都市の展開や都市政策との連動性、また民間企業と都市行政のせめぎ合いなどが非常にダイナミックに映った。そこで、このダイナミズムを自分なりに表現してみたいと思い至った。しかし、自分の考えたい交通政策というのは少なくとも人口100万人以上の都市なので、現実の日本でそのまま考えようとすると、既にそういった都市には都市交通が整備されていて手を付ける隙がない。また、日本の地方行政制度の枠内だと、例え政令指定都市であっても諸外国のような大規模な交通政策を行う財源やイニシアチブを担保できない感がある、そのため日本の地方行政よりも強い地方自治が行える環境が望ましいと考えた。そこで、これについても琉球、那覇を舞台に創作できるテーマであると思い至った。

▲最近マイブームとなっている、仏文学者 鹿島茂氏によるパリの歴史講義

やりたいこと3:架空国家(集団芸術としての鉄道)

これは、高坂優希氏が制作に邁進している架空国家「人國(リンク)」に触発されたことが大きいが、いつの頃からか自分も架空国家を作りたいと思うようになった。しかし、なぜ架空鉄道を創作する人間が架空国家を作りたいと思うのかという疑問についてはいまいち言葉に出来ていない。ここでは、架空鉄道作者である私がなぜ架空国家作りに興味を示したのか、自己分析を加えてみたいと思う。この問いについて色々と考えた結果、最近では答えを知るカギがデザインにあるのではないかと考えている。
私は架空鉄道のコンテンツを考える際、全てはデザインされたものであるという前提で作るようにしている。例えばどんな鉄道車両が走っているのかを考える際にもデザインとしての合理性を求めるし、駅がどのような構造なのかを考える際もデザインとして優れた構造を求めながら考える。人によっては、非合理性が許容される創作というフィールド上に合理性を持ち込んでいることに対して窮屈に感じるかもしれないが、私にとって鉄道の美しさというのは機能的な合理性を含むものなのである。つまり、人の役に立つことを考えて作られたものが、設計者の思惑通り役に立っていたり、思惑とはずれた使い方をされて上手く機能しなかったりすることに美しさや愛おしさを感じるのだ。合理性のあるものが素晴らしいというのではなくて、合理性を求めて作られたという前提があったうえで、それが実際に稼働した時の姿に美しさを感じるというイメージであろうか。趣味者としての立場としてそういうものがあるから、架空鉄道を考える際も当然合理性を求めたデザインを作りたくなるのである。

話が架空国家から離れたので戻すと、このデザインと密接にかかわるものとして社会がある。大前提として、デザインというのは出資者、設計者、使用者という最低でも三者の意図のせめぎ合いの中で決定される。簡単に例えれば、出資者が「この程度の予算でこんな製品を作りたい」と設計者に注文し、注文に対して設計者は予算と技術の可能な範囲で出資者の注文を実現する。そして製品としてリリースされた後、使用者が製品の使い勝手について評価を下し、場合によってはそれが出資者や設計者にフィードバックされて設計変更が加えられたりする。デザインというのはこのように、出資者、設計者、使用者それぞれの都合を反映しながら造り上げられていく集団芸術であると捉えられる。
これを鉄道デザインで考えた場合、出資者は投資家であることもあれば農家の地主であることもあるし、場合によっては議員や行政府であることも考えられる。設計者は工業デザインや工業技術に精通した理工系技術者であることが多いであろう。そして使用者はオフィスへ通勤するサラリーマンかもしれないし、都心へ映画とショッピングに向かう高校生かもしれないし、生産品を消費地へ輸送する製造業者かもしれない。このように三者の内訳を考えていくと、「鉄道デザインというのは、商業、政治、地理、工学、生活、風俗、文化、モード、産業など、社会を構成する様々なファクターがぶつかり合った末に出現する、巨大な集団芸術なのではないか」という発想が浮かんでくるのである。
さて、このようにデザインと社会の繋がり考えていくと、架空国家を通じて架空の社会を考え、その社会が生み出した集団芸術としての架空鉄道を考えることで面白いものが作れるのではないかという発想に行き付く。架空鉄道を作るうえで架空国家が作りたくなるのはこういったロジックによるものなのだろうと考えている。

結論

さて、以上三点の「やりたいこと」を総合すると以下のような結論が浮かび上がる。
つまり、架空国家琉球における社会、歴史、文化などを考察し、考察によって明らかになったものをフィードバックしながら、架空那覇の都市史や交通政策を考え、EuskotrenやFGVのような小型電車が走る架空鉄道を創作する。
こうすると、全ての欲求が満たされハッピーになるという建付けである。
お気持ちを書きだしたことで、創作の根本的な欲求が自己把握できたため、当初の目的は達成された気がする。
まだ書きたいことはたくさんあるので、更新に努めていきたい所存である。

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