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常武鉄道 #1

常武鉄道という架空鉄道を考えている。
常武鉄道は上野から水戸までの常武本線を軸に、現実の東武野田線、関東鉄道、真岡鐡道、筑波鉄道、鹿島鉄道、茨城鉄道、水浜線を飲み込んだ路線網を有する大手私鉄の架空鉄道を目指している。

表現の方向性

常武鉄道で第一に表現したいことは、汽車が主役となった私鉄の姿である。
私の言う「汽車」というのは、蒸気機関車が客車を牽いて走る運行形態のことを指し、その中には蒸気機関車そのものも含まれるほか、客車列車や列車型ダイヤ(低頻度長編成ダイヤ)なども含まれたものである。そして、「主役」の条件としては、大まかに優等列車(特急、急行など)、都市間旅客輸送、長大貨物輸送辺りを担っていれば良しとする。
総合すると、常武鉄道は、外観や宣伝に気を遣った美しいデザインの蒸気機関車と客車を上野から水戸へ向けて走らせる一方、国鉄幹線のような重厚な貨物列車も運行するような、そういうイメージの架空鉄道にしたいと考えている。

Bridge crossing #2

常武鉄道のイメージ(クイーンズランド鉄道)

Bridge crossing氏の画像を引用

ところで、常武鉄道のような私鉄が現実の日本に存在した場合、それはかなり特異な鉄道として認識されるだろうと思う。というのは、華美なデザインの鉄道車両は大半が電車であって蒸気機関車や客車には存在しなかったし、重厚な貨物列車はほとんど国鉄の特権であったからだ。そもそも、汽車が主役を演じていた私鉄というもの自体、1906年以降は存在していないと捉えている。この辺りの事情は詳しく話す必要があるように思うので、少し掘り下げて説明する。

汽車の国鉄

前提として、戦前期の日本において汽車が主役を担っていた鉄道は、日本鉄道省、樺太庁鉄道、台湾総督府鉄道、朝鮮総督府鉄道、南満州鉄道といった政府系の運営組織であり、私鉄において積極的な車両開発や幹線級路線での運用などを行った事例は稀なものと言える。
しかし、日本の鉄道史を紐解くと、明治中期から1906年に至るまでの一部の期間で、汽車を主役とした民営の私設鉄道が存在した。それらは国土レベルで重要な幹線を保有する大私鉄で、例を挙げると現在の東北本線、常磐線は日本鉄道、山陽本線は山陽鉄道、福知山線は阪鶴鉄道という私鉄によって独立した経営が行われていた。これらの私鉄は、まだ途上であった鉄道車両の技術的研究や、マーケティング、会社経営の研究も独自に行っており、それが機関車や客車の設計や、列車の運行方式などに一種の多様性をもたらしていた。しかし1906年に鉄道国有法が施行され、これら幹線系私鉄が軒並み国有化されると、蒸気機関車における新技術の採用や幹線での派手な運用というのは、ほとんど鉄道省の独壇場となった。これをもって、国有化以前の技術的多様性の時代は終焉し、鉄道省による技術的な統一化、規格化の時代が始まる。つまり、汽車が主役の私鉄というのは(少なくとも内地日本では)1906年以降存在しないと言っても差し支えが無いのである。

日本鉄道で運用された「善光号」

電車の私鉄

では、1906年以降に誕生した私鉄は何が主役であったのだろうか。その答えは電車である。日本の私鉄は明治末期頃より、水力発電所を保有する電力会社の資本との結びつきを強め、その盤石とはいえない資本を電力資本からの出資によって補いながら、事業を展開する時代に突入する。
先ほども述べた1906年の幹線国有化により、それまで私鉄によって運営されてきた幹線鉄道は国有化され、以後の鉄道政策において国土の軸となるような幹線は国が建設、運営し、民間である私鉄には中~短距離の支線や都市間鉄道を担わせるという棲み分けが確定した。
それによって、私設鉄道という事業は幹線輸送という巨大な利権を掴むことが出来なくなり、中小規模の資本が主体の比較的不安定な事業となることが運命づけられたのだ。そのような背景もあって、多くの私鉄は自社の安定経営のために、売り込みをかけてきた電力資本の出資を受け入れ、見返りとして出資元の電力会社から電気を買って電車を走らせる必要に迫られるのであった。その他、日本において石炭の産出量が多くないことや、国土全体が急峻な地形であり水力発電が有利であったことなど、地理的な要因も様々含まれるが、結果として日本の私鉄事業は電車(電気鉄道)が主役となったのである。

▲私鉄と電力会社の関係性

柿岡地磁気観測所

さて、このような事情を踏まえたうえで、再び「汽車が主役の私鉄」について考えてみたい。上述のような事情を架空鉄道的な思考で考えた場合、日本の色々な地域で汽車が主役の架空鉄道を検討しても、史実の強い力によって電車が主役に躍り出てきてしまうのだ。辻褄を合わせようとすると、路線の電化が必然となってしまうことが極めて多いからである。
しかし、日本国内には一箇所だけ、電車の登場に技術的な制約のかかったエリアが存在する。それは茨城県石岡市柿岡595に存在する「柿岡地磁気観測所」から半径30km圏内のエリアである。

地磁気観測の知見は無いため詳細なメカニズムについては割愛するが、このエリアでは地磁気観測に影響が出るため、鉄道の直流電化が不可能になっている。別の方式である交流電化であれば電化が可能だが、戦前の日本では交流電化方式は実用化されていないため、電化は実質不可能である(例外アリ)。このように、当該エリアを通過する鉄道を作る場合、戦前は確実に非電化とする必要があり、非電化の鉄道となれば汽車が主役になるため、ここでのみ汽車が主役の架空鉄道が作れるというメソッドである。
(実際に、エリア内に存在する関東鉄道線は非電化、常磐線やつくばエクスプレスはエリアに入る手前で交流電化方式に切り替わる)
もしかすると初めからお気付きの方も居たかもしれないが、常武鉄道はまさしくこのメソッドを利用して強制的に非電化都市間鉄道を仕立て上げた。常武鉄道の水海道から先のエリアは、戦前は非電化であり、水戸までの急行列車も蒸気機関車が牽引するほか、茂木方面からやって来る石灰石貨物列車(次回以降お話する)も蒸気機関車の牽引である。これにより、1906年以降国鉄によって急速に技術統一化が進んだ日本汽車鉄道界の中で、常武鉄道のみが独自の技術開発や運用スキームを持つ浮島のような存在となり、汽車が主役の架空鉄道として自由度の高い魅力的なフィールドとなるのである。

▲急行列車用の二等車

こうして汽車が美しく主役を演じる、汽車系架空鉄道の道筋が立ったわけであるが、実はここまでが前置きである。
ここから、私のメインテーマである歴史考証が始まるのだ。考えるべき内容としては、例えば華美な車両を走らせるには経営がある程度の水準で安定していないといけないので、そのような経営状態を作り出すにはどのような事業展開にしていくべきかを考えなければならないほか、どのようにして上野から水戸の都市間鉄道が生まれた歴史を経緯を創り出すかなども考える必要がある。そのお話は次回以降に回すとして、今回はこの辺りで一区切りとしたい。

次回へ続く(かもしれない)

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