見出し画像

クリス旅行記 -薬学を旅する-

今日から日記をつけようと思う。
あとで読み返すとき、懐かしさ以上に気恥ずかしさが俄然強気に前に出てくるから、あまり日記というものは得意ではないけれど、それでもこの広い薬学の国でのことを覚えておくには僕の頭は小さすぎる。
だから、この国で見たもの、聞いたもの、そして旅で出会った人々のことを僕はここに記す。

僕はこの国では薬学にちなんでクリスと名乗ろうと思う。
そして、クリスとしての旅をはじめる。

ー薬学旅行記 1  薬学史ー

画像1


「君の歴史は約20年ってところかしら。宇宙138億年にくらべれば、君という歴史なんてあってないようなものかもしれないけれど、それでも私が君を理解しようと思って紐解くには十分に長い歴史だ。20年分の日記を読もうなんて思ったら、なかなかに大変だもの」

フワフワとした黒髪が風に浮かぶのを手で押さえながら、最初の街の案内役と思しき女性が、眼鏡の位置を直しながら僕の目の前で立ち止まった。

「今ならそんなに大変でもないですよ。日記は今日付け始めたばかりですから」

「あら、歴史は大事にした方がいいですよ。その時何を考えどう行動し、どういう結果になったのかを記録しておくことは、未来の道を選ぶ時にそういう過去データは参考になりますし…」
そんな学者らしい言葉を切らずに彼女は続けた。
「それに、振り返った時の気恥ずかしさなんていう醍醐味までついてくる優れものよ」

案内役の彼女曰く、この街は薬学史について研究しているとのことだ。街は中心部が良く言えば古都、有体に言ってしまえば下町のような雰囲気で、外側に行くにつれ、どんどんと家並みの雰囲気が変わっていき、一番外側は現代技術と現代アートの粋を集めたようで、いっそ目新しさすら感じる。

「すごいものでしょ?歴史って言うと古い物を記録し保存しているイメージするかもしれないけれど、実際は古いものから新しいものまでの変化の記録こそが歴史なんだって、この街を見ると思うわ」
そう言うと、彼女はこの街の研究について、つまりは薬学史について教えてくれた。
「実は薬学っていっても、それがいつ明確な言葉や定義が現れたのかは私も知らないし、もっと言うと、いつから人が薬を使い始めたのかすら分かっていないの」
そう言いながら、彼女は一凛の可憐な花を指差した。
「けれど、現在判明している中で最古の薬はこれ。ケシの花」
「知ってます。麻薬の原料ですよね、確か」
「おぉ、なかなか博識だね」
「人なんてだいたい思春期くらいに悪い物に変な興味をもったりするもので、私もご多分に漏れず、麻薬って何か調べたことがあるんです」
「ははっ、気持ちは分かる。私は女だけれどね」
「その通り、いわゆる麻薬なんだけれど、実は7000年も前にすでに痛み止めとして使っていたんじゃないかって言われている。もしかしたら嗜好目的としても使われていたかもしれないけれど、そこは何とも言えないかな」
「それ以外だと、お腹の中の寄生虫に効くキノコ、カンバタケなんかも薬として使われていたんじゃないかと推測されているんだけれど、なんでそんな推測ができたのかがまた面白いんだ」
横目で僕の反応を伺う彼女だが、知らなさそうだと踏んだのか得意満面に言葉を続けた。
「実は氷山で氷漬けになっていた5300年前のミイラが、そのキノコを腰につけた袋に入れていたのよ」

さすがにその言葉には僕も驚いた。5300年前のミイラが発見されるだけでもすごいのに、その頃からすでに植物だけなく様々な物が薬としてつかえるのではないかと、人々は考えていたなんて。今の様な実験器具も分析方法もない時代、自分達の経験だけで新しい薬を発見し、紡いできたのかと思うとさすがに荘厳だ。

「ということで、今発見されている最古の薬は7000年前とか5300年前とかそのあたりなんだけれど、それ以前に薬を使っていなかったとはもちろん言い切れないわ。といよりも、むしろ使っていた可能性の方が高いのかもと個人的には思うかしら」
『だって』、と彼女は言葉を続けた。
「今生きている動物たちも、自分の体調に合わせて薬草のようなものを摂取しているの。だから、もしかしたら人はヒトになる前から薬を使っていたのかもしれないわね」

「それは……さすがに言葉が出てきませんね。薬は人が作り出した叡智のようなモノだと思っていたので、もしかしたら薬が人類よりも古いかもなんて考えてもみませんでした」

「少しは薬学の歴史に興味が出てきたみたいで嬉しいわ。薬のルーツを辿るだけでも、ロマンは尽きることはないのではないかしら」

ロマンを語る彼女はキラキラとして、本当に楽しんでいることが分かる。ただ、最初に彼女自身が言っていた言葉を僕は思い返した。

「けれど、そういう古いものだけが歴史ではないんですよね?」

「あら、ちゃんと覚えていたのね。感心感心」
「そう、君の言う通り古きにロマンを感じるだけが歴史じゃなくて、そういったルーツからどうやって変化してきたかを学ぶのが大事なの。逆にまったく変化せずに今まで来たのなら、歴史を学ぶ意味なんてないものね」

たしかに、まったく変わらないものを1年毎にどうなったか論じることほどバカげた話はない。10年変わらなかったなら、10年変わらなかったでいいし、500年変わらなかったら500年変わらなかったで済む話だものな。

「薬学はそういう風に、様々なモノを口にしたり患部に塗り付けたりすることで、経験的に症状が緩和したかどうかから始まったと思うわ。そしてそういう経験的な知識が一時期は宗教に統一されたりもしたの。ほら、君の国にもないかしら、お酒やお塩が邪悪を払う的な。おそらくはお酒やお塩が食べ物などの腐敗を遅らせたりするのを見て、そういうことが言われるようになったんだと思うけれど、そんな感じで宗教的に解釈されたり、錬金術や練丹術と呼ばれるモノで不老不死の妙薬の研究がされたり、そういうのを当時の時代背景と一緒に学ぶことで、人々が薬学に何を求めていたのかと同時に『どういう間違いをしてきたか』も学ぶことができるの。宗教に統一しすぎて、病気の研究が遅れたりなんてのも分かりやすい例だけれど、勿論昔だけじゃなくて、近代だと副作用はすぐに現れるものだと考えられていたから、何年も経ってから現れる副作用や胎児に影響を及ぼす副作用の可能性にはあまり注意を払われていなかったり。そう、聞いたことあるかもしれないけれど、これが薬害と言われるものね。こういう過去の失敗を繰り返させないことも、薬学史の力なんだと思うわ」

彼女は得意げな笑みから、少しだけ眉を八の字にした笑顔に変わっていた。

「暗い歴史も多い分野だけれど、だからこそ学ぶ価値が高いとも言える。それにロマンもあるし、なんてったって他人の日記を読むような楽しさがある。薬学史、楽しいわよ」

ー薬学旅行記 2  生理学ー

画像3


薬学史の街が面白かったので、この後の薬学の国巡りも、歴史順に巡ろうかとも思ったのだけれど、結構混乱しやすいからやめた方がいいと案内役のお姉さんにアドバイスをもらった。ではどこに行こうかと悩んでいると、この後は生理学の街に行くといいと勧められたので、僕はその言葉通り、この生理学の街へ向かう通りを歩いていたのだが、さすがに歩き疲れて額も汗ばんできた。

「そうなんだよ、厚ければ汗をかくまさにそれが生理現象ってやつさね」

生理学の街に着くや否や、ポニーテールに小さなロリポップキャンディをくわえながら器用に喋る女性が顔を覗き込んできた。

「君だよね、薬学の国を巡っているクリスさんって人は。薬学史の街の人から聞いてるよ。薬って何?どんな風に効果を発揮してるの?って知りたい知りたいよね?知りたいっていってくれ。いや、やっぱ言わなくても知りたいって思っているのは明らかだから言わなくてもいいや。仕方がない、私がこの街を案内してあげよう」

パキッと、彼女のキャンディが割れる音がした。

電車や人々の移動、後は店内の様子とかもかなりマニュアルチック……というよりはシステマチックなのかな?大小様々な歯車が軋むことなく動く、坦々とした雰囲気の街を歩きながら彼女の案内が始まった。

「簡単に言ってしまうと、人間の体がどういう仕組みで生きているのかを知る学問ってことさね。君はさっき暑くて汗をかいていたでしょ?そして私は今レモン味のキャンディを舐めているけれど、酸性の物質を舐めると人は酸っぱいと感じる。そういう人の体の仕組みってどうなっているか気になったこと、ある?」

そう言われると、僕は気温をどう感じてどうやって汗を出しているのか知らないし、味という刺激がどうやって脳にまで伝わるのかも僕は知らない。

「薬をつくるためには病気のことを知らないといけないけれど、そもそも病気を調べるためには、まず健康な人間がどういう仕組みになっているのか知っておかないとどうにもならないってものさね。間違い探しで間違いを見つけられるのは、正しいモノが横にあってこそわかるってものだ」

「生理学、つまりは生理現象の仕組みを解き明かすことで、病気の解明につなげるんですね。なんというか、薬学から少しだけ遠くても重要って感じがしますね」

僕の言葉に、彼女はヒヒッとニヒルな笑顔を浮かべた。

「と、思うでしょ?まぁ、私がそういう風に思うように思考を誘導したんだけれどね。だって騙されたって思った方が印象に残るでしょ?」

と、相手を慮ってのことと思わせること自体が騙しだというのは、さすがの僕にもなんとなく分かる。まぁ、楽しそうだしいいけれど。

「生理学って病気の原因を見つけるためだけじゃないんだ。例えば40度の熱がこれ以上続いたら消耗で命が危険だって言う時、発熱の原因が分かっていなくても熱を下げることが出来れば原因究明までの時間稼ぎができたりする。つまり、人が元々持っている『体温を上昇させる機能をブロックする』か『体温を下げる機能を増強する』かのいずれかを薬でしてあげられたら、原因不明の発熱も抑えることができるってわけ」

なるほど、人体の生理機能を調べれば、病気の発見だけじゃなくて人体の機能そのものを薬が利用することができるのか。

「お、納得いったみたいだね。理解がはやくて助かる助かる。私達の体は私達が思う以上に緻密で繊細にも関わらず、それを修復する機能まで生理的に持っていたりする。それが全部細胞とか分子とか原子とか、それくらい小さいモノが何兆とか何京とか組み合わせで機能させている。ナノレベルの歯車やネジが組み合わさったどんな精密機械も真似できない緻密な仕組み、凄くない?生理学、楽しいさね」

画像3

ー薬学旅行記 3  病態生理学ー

歯車が廻る街を後にする時、案内してくれたお姉さんが次の街にここを紹介してくれた。ガラス張りの建物が立ち並ぶ街に、彼女は立っていた。

「やぁやぁ、初めまして。生理学の街の子から聞いているよ。この街は僕が案内するから、まぁ気楽によろしくね」

顎先ほどに切りそろえられた髪をサラサラとゆらし、どこか気風の良さを感じる爽やかな声で彼女は挨拶してくれた。

「とは言っても、生理学の街から来たんならあまり目新しいものはないかもしれないね。彼女たちが人体の仕組みを調べているというなら、僕達は病気の仕組みを調べているといったところかな」
「病気の原因を調べることで、効果的な薬を作るための学問ってことですよね?」
「んー、半分正解ってところかな。僕たちが調べているのは原因だけじゃない。もちろん原因が分かるのが一番だけれど、病気の原因が症状に至るまでの経路も調べる。もし、病気の原因そのものを治すことができなかったとしても、この経路を止めてあげれば病気によって引き起こされる様々な悪いことを抑えることができるってわけだ。そしてあとはそうだな、病気に関連して血液中に増える物質があったとして、僕達の研究でその物質が発見されたとしたらどう思う?」
「どう思うと言われても漠然としすぎていて何とも言葉にしにくいですけれど、その物質を抑えることができたら病気が治ったりしないかなとかですかね」
「なかなか良い着眼点だ。けれど惜しい。この物質自体は病気が起こったことで増えるので、薬でその物質を減らしたりしても特に治療効果はなかったりする」
「あぁ、難しいですね。そういう治療の標的と違うモノもあると思うと、なんか騙された感じがして心折れそうです」
「うんうん、そういう気持ちがないわけではないけれど、実はこういうのも大事なんだ。なぜなら病気がどれくらい重症なのか、どれくらい進行しているのかを知るための大事なマーカーになるからね」

そうか、僕は今まで薬の標的となる部分にばかり着目していたけれど、病気を知るということはつまり、治療の標的だけじゃなくて診断だったり検査だったり、治療中に病気の評価をどういう風に行うかということも知らなければならないのか。

「だから、僕達は病気の原因だけじゃなく、病気の仕組み全体を調べるのさ」

彼女の誇らしげな笑顔に僕も思わず笑顔を返した。

「昔は病気の原因は『瘴気』っていう悪い空気?みたいなものが原因だって思われていた時代もあったんだ。今の僕たちにとってはファンタジーみたいな学説だけれど、結構長い間信じられていたんだ。それこそ150年くらい前までは主流と言ってもいいくらいにね。瘴気説を後押ししたのは感染症の存在なんだろうけれど、実は細菌自体は350年近く前には発見されていたんだ。でもあまりに小さすぎて、そんな小さな生物に人間の大きな体をどうにかできるわけないって考えられていた。まぁ、気持ちは分かるけれど、私達の体の構造が緻密過ぎるがゆえに小さな存在でも故障させることができるってことなんだろうな」

たしかに精密機械は砂ぼこりに弱いと相場が決まっているし、同じように人体という精密機械を故障させるにも、小さな存在、小さな邪魔だけで十分なのかもしれない。

「正直、病気と一言で言っても多種多様で、一つの病気に複数の原因やルートが存在していることも少なくないし、大変な街ではあるけれど、緻密で複雑な生体の故障部位や故障の原因を探していくのって、神が作ったシステムのバグを見つけているようで、病態生理学、おもしろいよ」

ー薬学旅行記 4  薬理学ー

画像4


「10億分の1メートルのドライバーやレンチを貴方は知っている?」

下から覗き込むように、小柄な彼女は僕に話しかけた。

「どうも初めまして。今薬学の国を旅しているクリスと言います。前の街で次に行くならここ、薬理学の街が良いよと教えてもらいまして」

そう、病態生理学の街でここを勧められ、薬学の国の主要都市の一つだと言われてきたけれど、まさにといった感じの街並みだ。大きな建物も小さな建物も所狭しと立ち並び、道も街の外に四方八方と伸びており、人々は活気良く働いている。

「貴方は人の言葉の意味ではなく、意図を読むタイプの人間みたいだね。もう気が付いているみたいだけれど、私がこの街を案内してあげる。さぁ、10億分の1メートルの修理器具を見に行こうじゃないか」

明るい髪が太陽の光をキラキラと反射して、その凛と力強く立つ姿の彼女がまるで漫画やアニメのように輝いているようにさえ見える。そしてそんな輝きに似合う屈託のない笑顔が僕たちの自己紹介を締めくくった。

「はてさて、薬理学とは言ってもご覧のとおり、大小様々な建物が立ち並んでいる。薬理学の全て紹介しようと思っても私も知らない所もたくさんあるんだが、まぁ雰囲気だけでも楽しんでもらえるように、お姉さんも頑張るよ」
「それじゃあ、まず最初にさっき言っていた10億分の1メートルの修理器具てどういう意味なんですか?」

「あぁ、それは本当に言葉通りの意味さ。貴方は生理学や病態生理学の街を通って来たんだろ?どうだった?」
「どうだったと言われても、そうですね。人の体はタンパク質などの小さな分子一つ一つが極小の歯車のように機能している、精密すぎる機械だなって」
「その通りだ。例えば原子の大きさは1オングストロームと言われているんだけれど、オングストロームなんて普段使わないだろ?これを私達に馴染みのあるメートルに直すと10のマイナス10乗、言い換えると100億分の1メートルってわけだ。そして、君がさっき言っていたタンパク質はだいたい1億分の1メートル。原子のだいたい100倍くらいの長さだね。それでは薬はというと……まぁ、実際のところタンパク質の薬もあったりするから結構幅があるんだけれど、薬はだいたい原子とタンパク質の間くらい。10億分の1くらいの長さの物質で、タンパク質に作用して人体を修理したり調節したりするから、10億分の1メートルの修理キットってわけ」

「この街ではそんな風に薬を表現するんですね、なんかオシャレ感ありますね」
「お、このオシャレ感貴方は分かってくれる?私が考えて私しか使ってない言葉だからぜひ使ってくれ」

……この人、かなり癖が強い人だな。たぶん。

「そうは言っても、それは今の薬理学の特徴であって、これからそうであるとも限らないし、これまでがそうであったとも言えないから、薬理学の本質ではない表現だと言われれば、まぁそうんなんだけれどね。薬理学の本質は生理学とそこそこ似ている。薬がどうして効果を示すのか、その仕組みを理解する学問なんだ。そしてその考えを逆転した、といよりは反転かな。そう、反転した『どういう仕組みにすれば治療効果を生み出すことができるのか』を研究する学問、それこそが薬理学の本質なんだ。だから、柳の皮がどうして痛みを抑えるのかを調べるのも薬理学だし、逆にどういう物質ならば痛みを抑えることが出来るのかを考えるのも薬理学ということだ。そして、これは実践と経験の中で培われてきた学問らしく、その二つを同時に行うのが薬理学の面白味ともいえるかもしれない」

二つを同時に?それは『ある効果を持つ物質が、どういう仕組みで効果を発揮しているのかを調べる』ということと、『どういう仕組みを利用すれば効果を持つ物質になるか』の二つということだろうけれど、いまいち要点がはっきりとしない。その二つはさっき言っていたように反転したもの、つまりは表裏一体なんだろうけれど、表と裏を同時にと言われてもいささか想像しにくい。

「そう、貴方が混乱する気持ちはよく分かる。表と裏をどうやって一緒にみるんだと。まぁ、同時と言っても本当に同時に見るわけではなく、並行して研究ができるという意味だ。例えば、先に色々な物質を準備しておく。それをネズミに投与してみて、痛みを抑えていそうな物質を選びだし、それがどういう理由で痛みを抑えているかを調べるということができる。その一方で、生理学や病態生理学の力を借りて、痛みの仕組みを調べることで、痛みの発生や脳にまで伝わる伝達経路の仕組みを標的とした、薬をつくることもできる」

なるほど、同時というよりは並列、もしくは順不同でどちらからでもアプローチができるのか。

「特に昔の薬草やハーブ、生薬などは経験に基づいた薬がすでにあったから前者の方法が取られていたけれど、現在はもっぱら後者に近い研究の仕方をしている。その方が先んじて合成して作っておく物質も少なくて済むから、コスト的にもいいだろうしね。ということで今回は、後者について少し紹介させてもらおうかな」

「ちなみに、貴方は薬ってどんなモノだと思っている?」

薬と言われても、正直漠然としたイメージしか僕の中にはまだない。知らなくて当然だ。だって、それを知りたくて僕は今この薬学の国を巡っているのだから。ただ、その漠然としたイメージで言うなら……
「病気を治す物質が薬でしょうか」
「もう少し踏み込んで言ってみるとどうだろう」
「もう少しですか。そうですね、病気の原因部分を修理したり、もしくは取り除くのが薬……でしょうか」

彼女は百点満点と言わんばかりに、ご満悦な表情をこぼした。

「いいね。貴方は欲しい所に欲しい回答をしてくれる。これほど楽しく説明できる時なんてなかなかないぐらい。つまり、その回答は間違いではないけれど、正解ではない。百点満点に不十分な回答ってことだ」

「君は病態生理学の街でおそらく『全ての病気の仕組みが解明されているわけではない』って言われたんじゃないかな?」

たしかにあの街で、そんなことを言われた覚えがある。

「そして生理学の街で、人体の仕組みを調べることは病気の解明だけでなく、その仕組みを上手に利用することで症状を抑えることができるとかなんとか」

たしかに僕は生理学の街でその話を聞いた。
病気の原因が不明な発熱であっても、発熱の仕組みを知ることができれば、熱を抑えること自体はできるとか、概ねそんな感じだったと思う。

「そう、私達は病気の原因がたとえ分かっていなかったとしても、それ以上重篤にならないように、そして他の病気を引き起こさないように、何かしら治療をしないといけない。つまり、原因の除去だけが薬かと言われたら、それは不十分ってことだ」

ちょうどお昼ごろ、僕達はレストランに入って話を続けることにした。

「さて、私はこれでいて塩辛いのが好きでね。味がしっかりしたステーキなんて大好物だ。けれど、今は美味しいですんでいるが、のちのちは高血圧に悩まされるんじゃないかと不安に思わないでもない……ということで、少し高血圧を例にとって話をしようと思うんだが、なかなか話の枕としていい前振りだっただろう?いつも案内する時にしているお気にの常套手段なんだ」

お気に入りの枕に対して申し訳ないけれど、できればまくって欲しい手順だ。日記の文字数が無駄に増えるだけだし。

「薬には抗生物質や抗がん剤のように、原因自体をどうにかする薬もあるはあるんだけれど、実のところまだまだ原因がハッキリしていない病気の方が多い。そうそこで例に出てくるのが高血圧だ。高血圧は今のところ大きく二つに分類できる。本態性高血圧と呼ばれるモノと、二次性高血圧と呼ばれるモノなんだけれど、二次性と呼ばれるモノは他に原因があって、その影響で血圧が高くなってしまっているモノだ。ある意味原因が分かっている高血圧だな。一方、本態性高血圧とはつまりつまるところ、『原因がはっきりしない高血圧』の総称だな」

あまりに普段聞きなれた病気の名前に、僕もさすがに驚いた。広く知られている病気だからといって、深く知られているとは限らないのは、病気の世界でも同じらしい。

「まぁ、原因の予測がまったく立てられないわけではないけれど、おそらく複数の要因が絡み合った結果の高血圧なんだろうな。それすらも今は予測の範囲だけれど。まぁ、何が言いたいかというと、病気の原因が不明でも血圧が高いと心臓や血管に負担が大きく、いつかは致死的な病気に繋がることは分かっている。だから、人体の仕組みを利用してなんとか血圧だけでも下げることができないかというのもまた、薬のありかたなんだ。……というよりは、むしろこの人体の機能を利用する薬が実際の所ほとんどと言ってもいい」

「生理学でも似た話を伺いました。『原因不明の高熱でも熱を下げることはできる。元々人体が持っている熱を上げる機能を邪魔するか、もしくは熱を下げる機能を助けるかのどちらかをコントロールする物質もまた薬なんだ』みたいなお話だったと思います」

「なんだ、彼女はそんなことまで話してくれていたのか。なら話は早い。そう、薬の大半は人体の特定の部位の特定の機能を強めるか弱めるかというものがほとんどなんだ。言い換えるなら、人体の機能の調節をするのが薬と言ってもいいかもしれない」

今までそういう人体のバランスを整えるというのは東の考え方で、西では原因を取り除く的なのが主流だと思っていたけれど、なるほどなるほど、西と東の薬の違いはそういう部分とはまた違う所にあるのかもしれないな。

そんなことを考えていると、彼女はヒュンという擬音とともに、僕の目の前にフォークを突き刺したステーキを突き出した。

「注意しておくけれど、これは俗に言うあーんでは決してない。私の好物であるところのステーキを食べようとしたら、どんな手段を用いても貴方の全生理機能を止める覚悟が私にはある」

癖の強さがどんどん強くなっていく。

「私達の体とはまさにコレということだ。つまりはタンパク質。私達の体の機能の多くはタンパク質が担っている。体の中の代謝反応を担っているのも酵素というタンパク質だし、シグナルの伝達をになっているのも受容体というタンパク質だ。つまり、私達が薬のターゲットにしてきたのは、実はほとんどがタンパク質なんだ。最近はDNAやRNAといった核酸がターゲットになることもあるけれど、まぁそっちは一旦置いておこう。ややこしいからね」

「ということで、ある意味病気に関連する、もしくは病気のルート上にあるタンパク質に結合する分子を見つけることができれば、それは薬になる可能性が高いということだ。そういうのを実験や、最近はコンピューターや情報科学の進化もあって、コンピューター上で探索することも多かったりする。たあ、そうやって設計するだけじゃな意味がない……というか、実際に投与してみると効果がないことの方が多い。だから、そうやってつくられた薬候補がちゃんと機能するのか、細胞に振りかけてみたり、ネズミに投与してみたりすることで効果を確認したりする。だから薬理学とはいっても、パソコンにずっと向かっている人もいれば、ずっとネズミの観察をしている人もいたり、そういう部分もまた楽しいと思う部分かな」

本当に、緻密な生体をナノレベルのドライバーで修理したり調節しているみたいだ。

「ふふん。薬理学、楽しいぞ」



ー薬学旅行記 5  薬力学/薬物動態学ー

薬理学の街を出て、一番大きな街道を行った先が次にお勧めされた目的地だ。道の両側がそれぞれ別の街らしく、薬力学と薬物動態学の街の間に僕は今立っている。

「物質は他の物質とつながらない限り効果はないのと同じで、人は人と出会うことで初めてお互いに影響を与えあうことができると思うんです。この出会いがお互いにとって良い影響になるといいですね」

大通りは小走りで駆けてきた彼女はお辞儀をすると、僕の知らない格言とともに彼女は緩く三つ編みにしたおさげを揺らして挨拶をしてくれた。

「さっきの言葉はサルバルサンを作ったエーリッヒさんが言っていた言葉なんです。実は市販されたもので最も古い抗菌薬ってペニシリンじゃなくて、実はそのサルバルサンなんですよ。まぁ、ペニシリンが出てきて使われなくなってしまったので、今の人が知らないのも無理はないんですけれど」
「僕も今まで生きてきて、サルバルサンっていう薬があったという話は初めて耳にしました。なんで使われなくなってしまったんですか?」
「それは、んー、予想するしかないんだけれど、たぶん梅毒にしか効かなかったからかな。一種類の感染症にしか使えないから使いにくいし、患者さん側も性感性症にしか使われない薬ということでイメージも悪ければ人前にも出しづらかったっていうのもあるのかもしれませんね。なので、ペニシリンが発売されると、一気にペニシリンに置き換わってしまったんじゃないですか。まぁ、たぶんですけれど」

そこまで言うと、彼女は勢いよく振り返った。

「って、違います!注目ポイントはサルバルサンではなくて、その格言の方です!」

閑話休題、改めて二つの隣り合った街を歩きながら、彼女が言う所の本題の話をはじめた。

「物質は、他の物質とつながらない限り効果がない。この言葉から私は街の紹介をしていこうと思っていたんです。なぜなら薬力学は薬の量と効果の間の関係を明確にする学問だからです。そうですね、力学って言われると梃子を思い浮かべる人も多いですけれど、あれは力点にどれだけの力を加えると作用点がどういう動きをするのかが分かるといった感じですけれど、薬力学はそれを薬でやっているってことです。つまり、どれくらいの薬をその目的のタンパク質付近に準備したら、どんな感じ効果が現れるのか……みたいな感じです」

なるほど、どれくらい力を加えたら作用点が持ち上がるのかと、どれくらいの薬を入れたらどれくらい作用が起きるのかと言われると、確かに力学っぽいかもしれない。上手い例えを考えるものだな。

「おやおや、だんだん興味が出てきましたね。興味ってきましたね。もっと知りたいという気持ちがお顔中から漏れ出てますよ。これは仕方がありません、不肖ながら薬力学の街をもう少しだけ私がご案内いたしましょう」

「では想像してみてくださいませ、薬の標的となるタンパク質が私達の体の中にあります。けれど、その数は一つではなく、そうですね1万個のタンパク質が細胞の表面だったり細胞の中だったりに存在しているんです。さて、ここにお薬を1つだけ……んー、1分子と言った方が正確かもしれません。1分子だけ投与するとどうなりますか?」
「それはあれじゃないですか?タンパク質の一つだけと結合するんじゃないですか?」
「では、1万個のタンパク質の中の一つだけに作用して、その薬は効果があると思います?」
「それはないんじゃないかな……たぶん」
「その通り、たぶん微々たる効果もないです」
「では、ここに1万個のお薬を投与したらどうなると思います?」
「それはもちろん1万個のタンパク質と結合するんじゃないですか?同じ数入れているわけですし」
「それが、そうは問屋が卸してくれないんです。標的のタンパク質とお薬の結合ってよく『錠と鍵』に例えられたりするんですけれど、例えば南京錠を1万個投げて、同じ場所に鍵を1万個投げたとして、全ての鍵穴に鍵が刺さると思いますか?」
「それは……まぁ、無理ですね」
「そして刺さり方が甘い鍵もあると思いますけれど、そういうものは」
「外れちゃうと思います」
「そうなんです。これはイメージしやすくするために、かなり乱暴な例えですけれど、タンパク質と薬を同じ数だけ入れたからと言って、私達の体内で全てが結合するわけじゃないんです。だからこそ、鍵の差さり易さ、つまりタンパク質とお薬の結合のしやすさが、お薬の効果を決める一つなんですよ。この結合のしやすさを結合定数という数値にして、お薬の強さの比較に使ったりします」

この辺りは力学は力学でも割と熱力学っぽい感じがするな。全ての分子が同じ挙動をするわけじゃないとか、結合するかどうかは確率的だったりとか。

「そんな感じで既存の薬とどちらが強いか予測したりするんですね」
「そうなんです。これがお薬同士の比較指標の一つになったりするんですが、それだけじゃないんです」

それだけじゃないというと、別の指標もあるということだろうか。

「比較する相手は、お薬だけじゃなくて、私達の体内に元々ある物質とも比較するんですよ」

普通に違った、そっちか。

「そもそも、標的となるタンパク質になぜそんな鍵穴みたいな構造があるのかと言うと、元々鍵となる物質が私達の体内にあるからです。たぶんお話を聞いたとすると薬理学の街かなと思うんですが、私がさんざん言っている『標的タンパク』って、どんなモノかって聞きました?」
「あぁ、それなら酵素とか受容体みたいなモノが標的として選ばれると」
「そうです。酵素は体内で物質の代謝、つまりは物質がAからBに変化する化学反応を助ける生体内分子のことです。ということは、そもそもAが結合する部分があるってことですよね?そして受容体は……まぁ、こちらはお名前のとおりですね。シグナルを伝達するために伝達物質を受け止める装置みたいなものですから、当然伝達物質が結合する部分があるわけです。そこがお薬にとっても狙いやすいポイントなんですが……」

そこまで言われて、僕もようやくピンっと来た。

「つまり、元々体内にある物質Aや伝達物質と薬も結合のしやすさを比較することが必要ってことなんですね」

「そうですそうです、その通りです。例えば酵素での代謝を邪魔したかったり、伝達を邪魔したかったりする場合、元々の物質よりも結合しやすくないと全然邪魔できないですから、そこの比較も大事なんです」

体内の物質との比較、薬同士の比較、結合の強さが薬の強さか。最初に彼女がエーリッヒさんとやらの格言を持ち出した理由がようやく分かった。

「というのが第一段階です」

まだ第一段階だった!

「とは言っても、だいぶ長くお話してしまいましたから、ここからはふわっとさらっとお話しようと思いますけれど、実は結合力以外にもお薬の効果を左右する条件は他にもあるんです。端的に言えば結合したあとですね。私達の体は一つの機能を調節するのに機能を強めるのと弱めるのと、二つのルートがあることがほとんどなんですが、実は機能を強めるだけでも複数のルートがあったりするんです。例えば血糖を下げるホルモンはインスリンというモノ1種類なんですけれど、血糖を上げるホルモンは何種類もあったりするんです。そうなると、どれだけ結合力の強いお薬を使っても、別のルートや逆向きのルートの強さを身体が勝手に調節してしまうことで、効果的ではなかったり」

ある意味一つのルートがダメになっても、機能を失わないようにするための生物の生存戦略なんだろうけれど、こういう部分で弊害になったりもするものなんだな。

「あとは『時間』も、私達の薬の効果を変える大きな要因だったりします。私達の体は体内に生物本来の時計を持っていて、日光の刺激などで調節しながら24時間周期のリズムが出来上がってます。簡単に言えば夜になったら眠くなるとか、そういうやつですね。そして、この体内時計によって、伝達物質が多く放出される時間とか、特にこの時間はこの神経が活発に動くだとか、そういうタイムスケジュールがちゃんと体内にもあるんです。なので、タイムスケジュールを上手く利用するだけで、お薬の効果が上がることもあるんです。たまにお薬の飲む時間が朝だったり、夜だったりで決まっている物があるんですが、それはこのタイムスケジュールの関係で決まってたりもするんですよ」

薬力学の街に関してはだいたいこんな感じですと言って、彼女は両腕を思いっ切り上に伸ばしてググっと伸びをした。

「結合のしやすさ、そして結合したあと、その影響をルートを辿りながら計算していき、最終的にどれくらい効果として現れるのかといった感じなんですね」

そう言いながら、僕はもう片方の街を見た。

「そう、こちらの街が標的タンパクの結合から効果までを研究する街で、そしてこれから行くあちらの街は、錠剤や注射などで投与された薬が、体内でどれくらいの濃度を保つのか、標的タンパク質の近くでどれほどの濃度になるのかを調べる街です。その名も薬物動態学の街です」

その言葉とともに彼女は反対の街にある気はじめた。

「薬は結合することで初めて効果が出るし、どれくらい結合するかで効果の強さが変わるわけですけれど、そもそも十分な量の薬が標的タンパクのそばになければ効果が出るわけがないです。1万個の鍵は体内に入ったらずっとそのままというわけではもちろんありません。段々体外に排出されたり、体内で代謝されることで鍵からただの鉄屑に変わってしまったり。そもそも飲み込んだからといって、吸収されているとは限りません。薬物動態学はある意味、体内に入った薬の一生を調べるもしくはコントロールする手法を創り出す学問と言ってもいいかもしれませんね」

様々なモノがコンベアで運ばれ、自動車や鉄道で運ばれ、それが滞りなく巡っていく街を見て、荷物の行先に注目しようとしても、それはすぐに乗り物や建物の中に入っていってしまい全然追うことはできない。ただの荷物でさえそうなのに、身体の中の薬の動向を調べるとか、気の遠くなるような話に思えてくる。

「一つの荷物を追うのですら難しいでしょ?なので、本当に一つ一つ建物ん中に入ってどんな風に処理されているのか、そしてあのトラックに積まれたモノはどこにいくのか、そういうのを順々に調べていくしかないんです。まぁ、そうは言っても小さなことをコツコツとっていうのは、どんな研究でも共通していることですけれどね」

「薬物動態は4つの区分に分けられることが多いです。吸収、分布、代謝、排泄です。この4つのプロセスはほとんどどのお薬でも通る道なのと、例えば人体レベルではもちろんのこと、細胞レベルでも見ても『どうやって細胞に入っているのかな、細胞の中のどのあたりに分布しているのかな、細胞内でどんな風に代謝されて、どうやって細胞外に出るのかな』みたいに、多少大きさ、スケールなんて言われたりもしますけれど、スケールを変えても使える考え方だったりしますので、薬物動態の話をする時に良く使われるので、外国の言葉の頭文字をとって、ADMEなんて呼ばれることも多いんですよ」

たしかに色んなサイズや様々な状況でハマる考え方って、有体に言ってしまえば便利だもんな。

「お薬も飲み薬だったり貼り薬だったり、注射だったり、それだけで同じお薬でも吸収は変わってきますけれど、結構言葉通りにイメージしやすいと思います。けれど、分布って言われてもたぶん分かりづらくありません?簡単に言えば、身体の中でどれくらいの範囲まで溶けているかと、どこら辺にお薬が溜まりやすいかみたいなことですわ。次に代謝ですけれど、これは今までの街でも話はあったと思いますし、薬力学の街でもお話と出てきた言葉ですけれど、体内で起こる化学反応の総称だと思っていただければいいです。食べた栄養も代謝することで初めてエネルギーとして利用できる物質に変わりますし、体内の伝達物質も放出されっぱなしではなく、不要になったモノから代謝されて伝達機能を持たない分子に変わっていきます。ちなみに毒素なんかも代謝されることで無害化されるんですが、薬も代謝されることで機能がなくなって、何の効力も持たない何もしない物質になってしまうんです」

そこまで言うと、彼女は指を顎に当てて少し言葉を止めた。

「身体に入った薬も代謝されて薬ではない何かに変換されてしまうってことですよね?そこまでは大丈夫です。なんとなくですが分かります」

「本当?そこまで理解してくれているなら少しだけ補足。実は代謝されて形が変わっても効力を失わない薬もあったり、さらには代謝されて初めて効力を持つ薬もあったりするんです。これは偶然なこともあれば、開発者が薬の効果を高めたり副作用を避けるために、あえて代謝することで初めて効果を発揮する薬を開発していたりするので、薬物動態学の街の中でも特に研究が熱心にされている印象があるかしら」

「これは単なる豆知識だけれど、代謝されて初めて効果が発揮されるようなお薬の第一号はプロントジルという抗菌薬だと言われているんですよ。シャーレの中では細菌を殺せないのに、なぜか生体に投与するとちゃんと細菌をやっつけてくれる不思議なお薬だったんですけれど、調べていくと体内で分解されることで生じたスルファニルアミドという分解物が、抗菌作用を持っているからだというのが分かったんですって。なので、第一号は完全に偶然の産物みたいですね」

これ最近知った豆知識なんですよと、得意満面なしたり顔をこちらに向けた。何はともあれ、得意になれる状況をご提供できたのならなによりだ。

「そして最後に排泄ですけれど、これも文字通りです。食べ物や飲み物の排泄は……?」
「尿や便として排泄される?」
「その通りです。どうやって排泄されるのかの仕組みや、そこに関与するトランスポーター……あ、物質が細胞膜を移動する時にその移動を助けるタンパク質があるんですけれど、そういうのをトランスポーターって言ったりするんです。まぁ、特定の物質だけをやり取りする窓口みたいなものですね。そんな感じの薬を体外に移動させるのに関与しているモノを総じて排泄というわけです」
「トランスポーターっていうのは初めて聞いたけれど、それもタンパク質なんですね。ってことはそこを標的にするような薬も」

「あります!なかなかお薬のことを理解してますね。トランスポーターも割とメジャーな標的タンパクの一つです」

吸収、分布、代謝、排泄……体内の薬の一生と言われる理由がわかった気がする。薬力学の街で話していた『結合』はたぶん、分布と代謝の間くらいだろうか。

「そしてせっかくですので、ここでもちょっとした豆知識ですけれど、お酒を飲んだあと、息がお酒臭くなりますよね?呼気も排泄に関与していますし、もう一つ意外なのは爪と髪の毛です。毒物として有名なヒ素なんかは爪や髪の毛に排泄されるんですよ。だから、どれくらいの時期にどれくらいヒ素の毒を摂取したかが爪や髪の毛で分かったりするんですって」

そして彼女は先ほどと同じ得意満面を浮かべている。

「薬理学の街に繋がる主要な道路がこの二つの街に繋がっているのはまさにそこなんです。薬を投与して効果が発揮するかどうかというのは薬理学の街でも研究されるわけですけれど、この街がその薬の効果をさらに高めたり、副作用を少なくしたりしているんです。そして最近はそれを全て計算で導き出せないかというファーマコメトリクスという街がこの二つの街をまたぐように発展しつつあります。ファーマコメトリクス、実は対応するこの国の言葉がないんですけれど、あえて訳すとしたら薬理数学……みたいな感じかしら?情報科学の発展もありますので、きっと賑やかな街になってくれるのではないかしら」

薬の効果の強さを飲む前から数値で予測できとしたら、なんだかそれは凄い未来感あるよな。僕が死ぬまでにそんな未来が見てみたい。

「そして予測したり調べたりするだけでなく、体内での薬の動きを完全にコントロールすることもこの街の目的です。なので、いつか副作用がない薬というのも創れるかもしれないですよ。薬力学と薬物動態学、楽しいですよ。

ー薬学旅行記6  薬用資源学ー

画像5


そんな感じでまさに薬の研究という感じの街をだーっと観光し続けてきたわけだけれど、急に趣が変わってきた。
植物が多いし、石が並べられていたり、熊がいたり……向こうには海の生物?

「そう、私達は自然に学び、自然を真似して、そして自然を超えるのが目標なんだ。ようこそ、薬用資源学の街へ」

短く切りそろえられた髪に、闊達というか元気印といった印象の女性が僕を出迎えてくれた。

「数千年前から続く薬の歴史の中で、薬草だったりハーブだったり、ほとんどの時期で主役は植物だった……みたいな感じがしないか?実際の所その通りなんだ。植物は凄い!もちろん植物以外も凄いんだけれどな」

彼女はそう言って植物園を歩きながら、話を続けた。

「代謝って言葉は健康食品なんかの売り文句でも見かけると思うし、これまでの街でもたぶんたくさん聞いたと思うし」

そういう彼女に、僕は今までの街で聞いた話をした。

「そう、代謝とは生体内で起こる化学反応の総称という理解で良いと思う。だけれど、それをより細かく分割することができる。化学反応でも小さな物質を二つくっ付けるような合成反応と、一つの物質を二つに分けるような分解反応がある。つまり、代謝も合成と分解の二つに分けることができる。まぁ、そのまま合成代謝、分解代謝って名前でいいんじゃないかと個人的には思うんだけれど『同化と異化』という名前がそれぞれついているんだ。二つの物質が一つの同じものになるので同化、一つの物質が二つの異なる物質になるから異化みたいな感じなのかな?まぁ、その辺り私もスルーして生きてきたから、君が気になるなら是非とも調べてみてくれ」

「ということで、この身動き一つできない植物達の凄いところをまさに今から言うことになるんだけれど、ただ言うだけではつまらない。君は植物の凄いところはどこだと思う?間違えたら植物の気分になってもらうために埋めることにする」

罰ゲームがワイルドすぎないだろうか。
まぁ、罰ゲームはきっと冗談だろうけれど……たぶん……植物の凄いところか。その言い方だと僕達人間とは違うところ、もう少し広くとらえるなら動物とは違うところといったような意味合いんなんだろう。
植物と動物、生産者と消費者。

「植物は二酸化炭素と水から栄養を作りだすところが凄いところだと思います」

彼女を見る限り穴を掘り始めるような雰囲気はない。

「植物は有機物を合成する、つまりは同化を動物よりもたくさんしているのかなと。予想ですけれど」

「うんうん、いいね。行間の読み方が上手いんだな、君は。その通り、植物は様々な有機物を生み出す同化の化身で、私達動物は様々な有機物を分解する異化の化身みたいなモノだ。良かった良かった、さっきはああ言ったけれど、正直穴を掘るのは面倒だったからね。正解してくれて助かったよ」

罰ゲームは本気だったらしい。ワイルドすぎるだろ。

「実は僕達動物が体内に持つ分子の種類と、植物が持つ分子の種類って全然違うんだ。それは動けない植物達の生存戦略……というよりは、いろいろな分子を作れる植物だけ生き残ったっと言った方が正しいのかもしれないけれど、そういう風に言われている。動けないからこその進化だってね」

たしかに僕達動物は自分で動いて食べ物を探したり、身を守ったり、繁殖相手を探すことができるけれど、動けない植物達は食べ物を自分で合成して、身を守るために毒素を創り出して、繁殖のために虫を呼び集める匂い成分を作ったりしているわけで、生存戦略の結果、たくさんの物が作られるようになったと言われると結構納得できる気がする。

「そして、その植物しか持っていない成分というのはだいたい1種類につき4.7成分くらいではないかという研究があったりするんだけれど、全植物の種類×4.7をすると植物が持つユニークな成分の数が出てくるわけだ。とは言っても、全植物の種類数が分かっていないんだけれど、少なく見積もっても20万種はあるんじゃないかっていわれているから、100万近くの成分を植物界は貯蔵していると言ってもいいかしら」

100万種類の成分を病気に関わりありそうな全ての標的タンパクと結合するか、考えてみただけで星の数ほどの組み合わせに目が回りそうだ。

「しかも、そういった成分を元にして人が改良したりするから、その改良で作られる成分数を考えたら凄いだろ?勿論今の時代、一からコンピューターで分子の形を設計することもできるけれど、いまだ人間ができない合成方法なんかもこの植物達はできたりするからね。まだまだ私達の偉大なる師匠なんだ」

すごいなんてものじゃない。合成に関しては一日の長どころか、数億年の長を持つ植物の凄さを僕は実感した。

「とは言っても、かなりの数の植物は研究されてきたし、生体から薬効成分を発見するには、その種の生き物をかなりの数切り刻まなければならないからね、数が少なかったり栽培ができない植物の研究や動物なんかは結構研究するのが難しかったりするから、ここから植物の研究でバーッと薬が見つかるというのは、何かしら新しい技術が発達しないと難しいかもしれない。それこそ、針を刺しただけで全ての成分を検出してくれて、そしてそれを分子プリンタで複製してやるくらいのことができたら、また植物創薬の時代がくると思うんだけどな」

たしかに絶滅危惧種や珍しい新種を実験のために切り刻むわけにはいかないし、研究するにはそれなりの原料が必要というならここ最近は難しいのかな。と考えていたけれど、彼女はあまり寂しそうな顔もしていない。

「と、そこまでの技術はさすがに今の時代にはないが、AIの発達のおかげで植物の代謝に関わる部分の研究が今すごい進んでいるんだ。メタボローム解析と言われる分野なんだが、今は創薬に直接つながるまでにはなっていないけれど、たぶん……いや、絶対創薬に関わってくる分野だからね。楽しみでしかがたないよ」

それに、と言葉を続けながら彼女は海に向かって歩き出した。

「私達は陸のことはだいぶ理解が進んできたけれど、深海はまだまだ知らないものだらけだ。今知られているのは確か6%くらいなんだっけ?割と最近、海のクロイソカイメンという海綿動物から摂れる成分をもとに抗がん剤が作られたりしたし、海へ探検に出るというのも面白そうだな」

白い波とキラキラと光る水面を背にした彼女の笑顔は、背景以上にキラキラとしていた。

「今も昔も探検というのはワクワクする。薬用資源学、楽しいぞ」

ー薬学旅行記 7  製剤学ー

画像6


「ここまでたくさんの街を観光してきて、僕もすっかりお薬がどういう風に作られているのか完全に理解した。お薬マスターを通り越してマイスターだとか考えている顔してますね」
「……マスターとマイスターは違う国の言葉なだけで、同じ意味だとおもいますよ」

そんな風につぶやく僕、初対面でツッコミができる人は距離感の作り方が上手い人だと思いますと親指を立てている彼女。亜麻色の前髪を編み込んで、小柄とは対照的な大きな丸い眼鏡をかけた彼女はニッシッシと笑っている。世の中には癖の強い人しかいないんだろうな、たぶん。

そんな彼女と出会った広場の周りでも、蒸気が噴き出ていたり、熱と蒸気と機械音で賑やかな工場街と言った印象だ。

「この街は今までの街よりも工場っぽい雰囲気ですね」

小柄な彼女は返事をするだけでも大きく手足が動く。

「その通りです。今まではまさにお薬の街といった雰囲気だんじゃないですか?この街はただの成分を私達が服用できる形のお薬の形にどうやったらできるかを研究する街ですからね。ある意味ここがなければあんた達はにっがーい原薬をそのまま飲んだり、下手したら気持ち悪いのに草をバクバクしないといけないかもしれないんですよ。ビバ製剤学!」

「あー、だから工場っぽい雰囲気があるんですね」

今回の旅で、僕のスルースキルもだいぶ成長した。余計なことを考えることを投げてしまうスロースキルと言ってもいいかもしれない。

「そうなの。例えば抽出したお薬の溶液を錠剤にして投与したいとするでしょ?それにはまず」
「乾燥させないといけない?」
ハハンッと笑いながら彼女は言葉を続けた。
「その通りよ。普通は箱の中にいれてヒーターで温め乾燥するのだけれど、乾燥時間は成分にもよるし、同じ成分でも結晶の構造によっても変わってきたりする。それに、熱に弱い成分の薬なんかもあるから、熱気をずっと当て続けることもできないなんてことも日常茶飯事だわ」

薬が熱や光に弱いことは僕でも聞いたことがある。熱に弱い成分を乾燥させるなんてどうすればいいんだ?

「色々方法はあるけれど、まずはあまり温度を上げずに乾燥させる方法としては溶液をスプレーしてあげる方法ね。髪の毛をセットする時なんかに使う霧吹きを想像してみて。蓋を外して待つのと、全部スプレーでシュッシュってした場合だと、どっちの方が水は早く蒸発すると思う?」

「それは、シュッシュした方が……」

大の大人がシュッシュって言ってるよと笑う彼女が言葉を続ける。
笑いながら言葉を続ける器用さに感心させられるよ。

「そうよ。水は大きな塊のままより、小さな粒の方が乾燥しやすいの。これはまぁ、表面積が広くなる関係なんだけれど、難しい話はいいわ。イメージできているみたいだしね。乾燥しやすくなるってことは、温度をあまり上げなくても乾燥するってことよ。だから熱に不安定なモノにも使えるわ。でも、噴霧するよりももっと温度上げない方法があるのよ」

絶対分からないでしょうという彼女の顔を見ていると、ギャフンと言わせたい気持ちが沸々と湧いてくる。湧いてはくるが、目に物を見せられるような回答を僕は持ち合わせていなかった。

「私の勝ち!熱を加えることができないのなら、凍らせてしまえばいいのよ」

腕組みをして顎を上げて、完全完璧な勝利ポーズを取る彼女に僕はささやかな抵抗を試みる。

「いいや、それじゃあ室温において置いたら溶けてくるだけじゃないか。冷蔵庫ならいざ知らず、一般家庭で錠剤を凍らせているなんて聞いたことがない!凍らせて固体にしましたなんてお茶を濁しても、僕の濁っていない両目をごまかすことはできないぞ!」

ノリノリだ。これはやってみると意外に楽しい。

「ハハッ!それで反論したつもりなのかしら?反論したつもりなのね?私は一言も凍らせて終わりだなんて言っていないわ!凍らせることである程度水と溶けている成分は分離するわ。そしてここからがクライマックスよ!凍らせた溶液を低圧の部屋に入れて温度を上げていくとあら不思議、氷が水にならず、そのまま直接水蒸気となって飛んでいくわ!昇華という現象を利用して乾燥技術まで昇華したってわけ!どう、まだ反論があるかしら!?」

水を凍らせて、それを水に戻すことなく取り除くだなんてそんな…。僕の両眼は昇華という現象が見えないほどには濁っていたのかもしれない。昇華の技術を目の当たりにして僕の両眼まで浄化された気分だ。

「僕の負けだ……」

僕の言葉に彼女は楽しそうに高らかに笑い声をあげる。

そして、僕もけっこう楽しかった。

「貴方、なかなかノリが良いのね。意外だったわ」
「この国に来てだいぶ経ちますからね。だんだん楽しみ方が分かってきた気がします」

そういうとお互いの笑い声で、また通りは賑やかになった。

「まぁ、乾燥という一工程だけとっても、実は薬に合わせてあれやこれやと条件を変えたりして、試行錯誤していたりするの。で、普通に乾燥させると大きさが不揃いの結晶だったりするから、これをまず小さく粉砕して適切な添加剤を加えるわけだけれど、添加剤に関しても最近高分子を消化管から吸収できる凄い添加剤が……まぁ、いいわ。話がながくなっちゃうもの。添加剤だけでも研究がたくさんされていることが分かってもらえればそれでいいわ。そして一度粉々にしたけれど、ある程度扱いやすい一定の大きさの粒子に再度造粒という工程で揃えてあげて、そして錠剤の形に形成してあげて、最後は錠剤の表面をコーティングしてあげるといったところかしら」

一連の流れを聞いたけれど、とても一度で覚えられるような工程ではないし、たぶんそれぞれの工程で複数の方法や機械があって、それぞれの薬に合わせてそれらを選んであげる必要があるんだと思う。
薬の成分をつくるだけでも大変そうなのは今までの旅でも実感してきたところだけれど、薬の形にするのもまた大変なのはなんとなく分かった気がする。

「ということで、ここまでざっと話したのが錠剤の話で……」

そうだった、薬は錠剤だけじゃなかった。

「まぁ、あとは気になった時にでも街を巡りながら調べてみるといいわ。私もキャッキャし過ぎて、疲れてきたしね。こういう薬が薬になる過程を研究するのが製剤学なんだけれど、例えば吸収されやすいようにもっと水に溶けやすくならないかなとか、不安定な構造の薬だけれどどうしようとか、もっと効き目を長くできないかなとか、そういう願いを叶えてあげることが私達の凄いところかしら。製剤学、楽しいわよ」

ー薬学旅行記 8  分析化学ー

画像7


そこは様々なガラス細工が立ち並び、看板や軒先には様々な機械が置かれグラフや数値がのべつ幕なしに表示されている。

「そこにいる君は、ははあん、さては旅人さんだな?大丈夫、何も言わなくてもいい、僕には分かっているからね」

下ろしたら肩甲骨くらいまではありそうな髪をしっかりと上げてお団子にしており、真っ白なビッグシャツをひらりとはためかせて彼女は声を掛けてきた。

どうやら、製剤学の街の彼女から是非案内してくれと言われて、写真を元に僕を探してくれていたらしい。変な人が多い国だけれど、だいたいみんな親切なんだよなぁ。

「この街を一言で言うと、見えないものを見てしまおうというロマンチックな街だね」

両手を眼鏡のようにして彼女は僕を覗き込んだ。

「君は薬用資源の街を歩いて来たんでしょ?そこで切り刻んで成分を取り出して調べるって言っていたと思うけれど、そもそもどうやってどんな成分が入っていて、どれくらいの量入っているかを調べるのさ。だって、いちいち顕微鏡で分子を見るわけにはいかないでしょ?それに植物の中には何万種類っていう成分が入っているのに、それをどうやって分離するのかな?そして分離したそれらはどういう構造でどういう性質で、どんな結晶を作っているのかな?」

そうやって言われると、今まで疑問に思ってこなかった方がおかしいとさえ思えてくる。調べようにも目に見えない物を調べるなんて無理じゃないか。

「そういう無理を叶えて上げるのがこの街、分析化学の街なのさ」

と、いうところで極上の笑顔をするのはこの国の人々の習慣なのかもしれない。最適なタイミングで最高の笑顔をしてくれるから、すごい楽しい気分になる。

「分析といってもまぁ様々だよ。世の中目に見える物よりも、目に見えない物の方が多いからね。例えば窓の外に風が吹いているかは、窓を開けてみないと分からない。でも毎回開けるのも面倒だと思ったら場合どうする?そう、旗でも置いておけばいい。そしたら風があるかないかどちらから吹いているかは室内にいても一目瞭然だ。と、満足したのも束の間、今度は風の速さがどれくらいかも気になってきた。そこで旗を、風を受けるとクルクル回転する玩具に変えてみたところ、その回転する速度で風の速度までわかるようになった」

風は目に見えないけれど、目に見える物の中には風の影響を受けて動くものがある。目に見えない物はその影響を受けた目に見える物から推測すればいいということか。

「なるほどね、確かに見えない物を見えるようにする技術です。例え話に風を持ってくるあたり、ロマンチックなのは本当みたいですし」

自分で言っていたのに、いざロマンチックと言われると恥ずかしいらしく、微妙な表情を赤くしている。

「まぁ、分析化学はそれ自体で国になっているような分野だけれど、薬学の国ではその研究や技術を応用して、薬学の研究に利用しているんだ。主に性質を調べる定性分析と、どれくら量があるかの定量分析。前者の場合はpHを調べたり水への溶けやすさを調べたりなんかが分かりやすいと思うし、後者の場合は薬品の濃度調べたりが分かりやすいのかな。もちろんそれだけじゃなくて、分子なんていうものすっごい小さい物質の構造を調べたり、そんな小さな物質が、またまた小さなタンパク質という物質にちゃんと結合してるかどうかを調べたり。時代とともに技術が進化していることもあって、どんどん見える世界が広がっていくのが分かるよ。まぁそんな感じでさ、分析化学、楽しいんだ」

ー薬学旅行記 9  物理学/化学/生物学ー

画像8


街行くは様々な国の人々で、まさに港町、貿易で栄えたといった街並みだ。
「イェーイ、君は旅人さんだね。って声を掛けるとだいたい正解なんだよね、この辺りはさ」

透き通るようなプラチナブロンドをかき上げながら、彼女は登場した。

「ここの公園は物理学の街、化学の街、生物の街の真ん中くらいにあるんだけれど、どの街も外の国からドンドンとイロイロなもの輸入しているからね」

街を見回すと、本当に外国の様々なモノが取引されている。そして、それを買う側はそれが薬学にどんな風に役立てることを考えながら、真剣に目利きをしている。

「今までいろんな街を回ってきて、サマザマな研究をしている国だって思わなかった?昔は植物を飲み込んでみて症状がどうなるかを調べるという採集と経験の学問だったにも関わらず、これほど広く深い学問になったのはタンジュンメイカイ!物理学と化学と生物学のおかげなのよ!」

彼女の後ろの巨大な市場を見る限り、本当に様々な取引がされている。それは言い換えれば、各分野で薬学に使えるモノがたくさんあるということなんだろう。

「生理学や薬用資源学の分野では生物学が大きく利用されているけれど、私達の神経は『電気』を利用してシグナルを伝えていたりするし、分子の性質を理解するためには物理学が活躍するわ。それに、代謝とは化学反応のことだけれど、化学反応で化学の知識を使わないわけはないでしょ?生理学だけをとってみても、全部必要なのよ。薬学ではそういった知識を使って、どう薬学に活かすことができるかを日夜考えているってわけ」

たぶんこれは薬学に限った話なんかじゃなくて、学問は全部どこかしらと繋がりあって広がっているっていうのが、薬学だと見えやすいってことなんだろうな。

「物理学で特に薬学に寄与しているところだと、そうですわね、結晶に関する部分とはかなり薬学の発展に寄与していると思うわ。標的タンパクの構造を推定するためには、タンパク質を結晶化する必要があるの。だから、物理学のお陰で標的の構造が分かったようなものですわ。あとは製剤学あたりでは熱力学や流体力学などの知識も使われているかな。あとはそうね、最近だと量子力学も分子同士の結合や原子同士の結合辺りで使われているらしいけれど……正直私もあんまりわかっていないわ」

本当に、物理学の知識をどれだけでも応用してやろうという意思を感じる気がする。

「化学に関してはだいたい全部使ってるんじゃないかしら」

応用してやろうという意志どころじゃなかった。

「まぁ、さすがに全部は言いすぎかもしれないけれど、お薬のほとんどは有機物なので、有機化学は重要だもの。そしてお薬を合成しなければなりませんので、当然物理化学の分野も必要にだし、分析化学の街は確か回ってきたんだよね?だから重要だし……んー、まだ応用できていない部分を上げた方がはやいかなって思うくらいには、薬学の根幹になっているかな」

そう言われると気になるので、僕は応用できていない部分を訪ねてみた。

「応用できていないのは材料化学と、あとはポリマーとかかな。もちろん全く関わりがないわけではないけれど、本当に研究してできた材質やポリマーを応用して錠剤の設計につかったり、展開材としてつかえないかと研究されるくらいで、まだまだ薬にあった材料を作るぞ、みたいなところまでは行けていないかなとは思う。もちろん主流じゃないってだけで、そういう研究をしている人もいるとは思うけどね」

物理は多くの知見が流用されていて、化学はほとんどの分野と関わりがあって、あとは…。

「生物は全部だよ。文字通り全部」
全部ということだ。
「しいて挙げるなら、宇宙生物学、古生物学くらいだと思う。たぶんね」

「薬学は学際的って良く言うけれど、実際の所全部の学問はそれぞれ大なり小なり影響し合って発展していると思うから、実はどんな学問も学際的なんだと思う。薬学はただちょっとそれが見えやすいってだけ」
そして彼女は、「でも」と続ける。
「見えやすいから、すんごい楽しいよ!いろんな分野の知識がどんどんと繋がっていくのが見える。そして、そんな利用方法や応用があったのかって感動させられる。だから楽しい!物理学も化学も生物学も、楽しいよ!」


ー薬学旅行記 10  環境衛生学

画像9


馬車の中で標高が高くなってきたためか、涼しくて美味しい空気が僕の肺を満たした。

御者の着いたよという言葉で僕は山の上の街に着いたことに気が付いた。

「おや、いらっしゃい。こんな山奥の街まで大変じゃなかったかい?」

柔らかい声と柔らかい笑顔、綿毛のように真っ白な髪をした女性が、僕に手を伸ばして迎え入れてくれた。

「今までいろんな街を歩いて来たんだね。ここには環境衛生学の街があるくらいで、基本はノンビリしたところでの。僭越ながらあたしが案内するからの、ゆっくり見ていくといい」

空気が美味しいし、水も美味しい。なんだか体全体が浄化されて、綺麗になっていく気分すらしてくる。

「健やかな気分になってくるじゃろう?あたしも他の街から帰ってくるとおんなじように思うでな、わかるわかる、その気持ち」
そう言うと彼女はハッハッハと快活な笑顔を振りまいた。

「病態生理学の街に言ったってことは、病気と人体についての関わりみたいなのを見てきたと思が、どうじゃ?」

今回の旅では病気の原因は様々で、その仕組みを調べるのは難しいという話が中心だったけれど、人体の機能が狂ってしまうのが病気に繋がるというのはなんとなく分かった。

「病態生理学が人体と病気について調べる学問とするなら、環境衛生学は人体じゃなくて、環境と病気の関連を調べている街じゃ」

病気と環境。

「病気の原因は千差万別。遺伝子が大きな原因になっている物があれば、自分の免疫のせいで病気になることもある。そして、感染症のように環境が原因ということも当然ある。こんな綺麗な空気で、綺麗な水で、綺麗な土にも細菌はたくさんおるし、毒素も含まれている。まぁ、人体に影響のないレベルじゃけどな」

ゴクゴクと水を飲み干す彼女の気風の良さに惚れ惚れする。

「あたし達は一人で生きているわけではない、この世界の様々なモノと一緒に環境の中で生きている。じゃから、環境に病気の原因があることもある。そういう病気の原因となるモノを特定したり、そういうモノで病気にならないようにするにはどうすれば良いかというのが環境衛生学の真骨頂じゃな」

とは言ってもいまいちイメージがわかない。手洗いによって感染症が防げるし、こういうのを衛生行為なんて言ったりするし、そこだけはなんとなく分かるけど、それ以外に……

「環境が原因の病気と言われてもなかなか思いつかんじゃろ。それはある意味、今お前さんが生きている環境が衛生的だということじゃ。先人に感謝することじゃな」
といって彼女はまたハッハッハと笑う。

「おそらくお前さんが想像している感染症や細菌が出す毒素による食べ物の汚染なんかも環境衛生学としては重要なところじゃ。重要すぎて、最近は感染予防学として街を築いているくらじゃしな。ただ、毒はもちろんそれだけではない。植物にも動物にも様々な毒があるし、なんだったら地球そのものが出す毒もあるわい。鉱山から流れてくる水は金属が多く溶け込んでいたりするが、過剰の金属はあたし等にとっては病気の元だったりするからの。そういう環境中にある様々な毒素や病気の元を調べ、それらを取り除くにはどうすればいいかをとまぁ、先人たちの努力によって人間の『生キルヲ衛ル環境』、つまりは人間社会が出来上がってっていうわけじゃな」

そりゃそうか、別に地球は人間のために存在しているわけじゃないんだから、当然人間にとって都合の悪いモノがあって当たり前で、そういうモノと上手に距離感を取るように、人間の街が出来上がってきたと思うと、

「本当に、先人に感謝ですね。様々な病気から守られた社会という環境の凄さの一端を見た気がします」

そうじゃろうてと、また快活に笑う彼女だが、「けどな」とつぶやいた。

「けどな、社会もまたそれはそれで『環境』なんじゃ。つまり、人間が社会を形成したがゆえに出てきた病気というのもあるってことじゃな」

社会もまた環境……確かに。

「まず分かりやすいとしたら、食べ物じゃな。昔に比べて食べ物は潤沢になったけれど、それ故に過剰な栄養素が病気の原因になったり、腐敗や味を調える食品添加物も栄養素と同様過剰になると毒になったりするしのう。食品が豊富になった人間社会ならではの病気ではないかの」

人間が自分たちを守るために新しく築いた環境によって、新しい病気が生まれてくるというのはちょっと皮肉かもしれない

「あと分かりやすいとしたらアレルギーとかかね。工業が発達して、今まで環境になかった新しい素材や物質が増えてきたけれど、こういうモノがアレルギーの原因になっていたりすんじゃ。まぁ、アレルギー自体は別に自然物質でも普通に起こる、自然な病気じゃ。ウルシを触ったらかぶれるし、蜂に刺されると腫れるし、喘息なんかも昔からある病気じゃしな。ただ、新しく作られた物質だと、アレルギーが出た際に見落とされて重篤化してしまう可能性もあるし、問題になりやすい物の一つじゃな」

「今まであまり考えたことなかったです。環境によって起こる病気かぁ、しかも自分たちが作りあげた社会環境がまた病気を作ることあるなんて。でもそういうのを調べて僕達が病気になるのを防ぐ学問がこうやって発展しているって考えるとありがたいものですね」

そういう僕に、彼女はチッチッチといささか古めかしいリアクションを取った。

「環境が人を病気にするということは、逆もあると思わんか?」

逆……とはつまり人間が環境を病気にする?

「そう、人間は環境を病気にすることができるんじゃ」
「そっか、そうですよね。例えば工場だったり、鉱山作業だったり、そういうので環境を汚染したきた事実がありますし、確かに逆もありますね」

「そういうことじゃが、別に工場や鉱山がなくても人間はその身一つで環境を汚染できるんじゃよ。山の下の街々ほどではなくとも、この街にもそれなりの人が住んでおる。では汚い話じゃが……まぁ汚染の話なのだから汚いのは当たり前じゃけど、この街の全員がし尿や糞便を一気に川に流したらどうなると思う?」

……汚いし臭いし凄そう。

「糞便には多くの腸内細菌が付いておるから、それだけでも動物たちにとっては問題だとは思うけれど、それ以上にそういった排泄物を栄養にして川の細菌が増殖したりもして、動物や植物に悪影響を及ぼすようになる」

人間と他の生物の関係性というのは、僕が今まで思っていた以上に近くて、絡みあっている。自分の生活がそのまま、他の生物たちの環境に影響する。よく考えなくても当たり前だ、だって同じ環境で暮らしているのだから。

「そう、その上お前さんがさっき言ったみたいに工場や鉱山や、その他いろんな人間社会の活動が空にも陸にも海にも、全部影響を及ぼしておるし、そうやって汚染された環境が動物や植物だけでなく、あたし達自身をまた病気にしたりもする」

彼女は立ち上がり、大きく息を吸って「じゃからな」と言葉を続けた。

「じゃからな、あたし達は動物や植物にあまり迷惑をかけないように、環境が病気にならないように、し尿や糞便をキレイにしてから川に返すにはどうしたらいいか、工場から出てくる煙はどういう成分が問題で、どうしたら毒を空に出さないようにできるかなんかも研究しているんじゃ。あたしらの『生キルヲ衛ル』ためには、同じ環境にいる他の生き物たちの『生キルヲ衛ル』ことも大事ということじゃな。大きな世界の中に生きる自分たちを感じられるからの、環境衛生学、楽しいぞ」

ー薬学旅行記 11  医薬品情報学/医療統計学

画像10


山の環境衛生学の街から一変、次の街は待ちゆく人々が手持ちの機械を操作し、デスクに座る人たちもカタカタと機械を動かしながら、うんうんと唸っている。

「どうもどうも。君のことはすでに山の上の彼女から伝わっているよ。ここは医薬品情報学の街、そして向こうは医療統計学の街だよ。君のことをよろしくと言われているからね、どうぞよろしくしようじゃないか」

Tシャツにハーフデニム、そして外にハネたボブカットが、彼女をとてもカジュアルな印象にしている。

「んじゃあ、ダラダラと余計なことを話していても君にとって有益にもならんだろうからね、良い感じに良い具合の案内をさっそく始めようか」

ダラダラと余計なことを話す事こそが、旅の醍醐味だと僕は思っているのだけれど、良い感じに良い具合の案内とか言う人は、たぶんだいたい無駄話をしてくれるタイプな気がする。

「閑話なんて挟むこともなく、この街の面白いところをどんどん話していっちゃうぜ。何はともあれ、薬そのものは紛れもなく『物質』だけれど、薬を理解するためにはそれを情報化してあげる必要がある。つまり薬がいくら出来上がっていたとしても、それがどんな薬なのかという情報が伝わっていなければだーれも使うことができない。どんな薬なのかという情報がない薬を実際に使うなんて、それはもうドーナツの穴だけ残して食べるのと同じくらい困難なことだね。つまりこの街は面白いってことだ!以上!」

はてさて、これはドーナツの穴だけ作るのと同じくらいの難問だ。僕は元来ツッコミという属性ではないにも関わらずだ、得意満面なドヤ顔を披露し続けている彼女に対して、果たして僕は適切なツッコミというものをお見舞いすることが……いや、ご提供することができるのだろうか。
などと考えあぐねていると、彼女の手持ち機械が音を上げ、彼女が機械に向かって話はじめた。
得意満面から気まずそうな顔になり、最終的に機械に向かって「ごめんて、おばあちゃん」と言って、機械をポケットにしまった。

「あー、山の上のおばあちゃんに怒られた。ちゃんと街を案内するので、先ほどのことは許してもらえないだろうか」

どうやら僕の下手なツッコミを披露せずに済んだようだ。良かった良かった。とは言っても、最初の話も唐突な結論をのぞけば、全然分からないという話でもなかった。

「案内がまだ続くようで安心しましたけれど、最初に言っていた『薬があっても、それがどんな薬か分からなければ誰も使えない』というのは確かにって思いましたよ」

「でしょ?あれは分かりやすい言い回しだって私も思う。ので、おばあちゃんが言っていたのをそのまま私のものにすることにしたんだ」
ニヒッと笑う彼女の笑顔をみていると、いつかツッコまざるおえない状況がきそうで戦々恐々としてくる。

「つまりはさ、薬じゃなくてもそうだと思うんだけれど、例えばこの機械がどういうモノかって知らなければ使えないわけじゃん?そしてこの機械を修理しようと思っても、構造を知らないと修理はできないわけじゃん?薬そのもの、機械その物がそこにあったとしても、実はそういった『情報』がないと、どれだけ便利なモノも無用の長物になりさがっちゃうんだよね。便利っていうのは、モノと情報がセットで初めて成り立つんだって、私はこの街に来て理解したよ。だから、君にもそういう所を見て欲しいかなって思ってる」

あの親にしてこの子あり。まぁ、実際には祖母と孫みたいだけれど、ちゃんとこの子自身も上手な例えをするものだ。

「つまりは薬にまつわる情報を研究しているってことですよね?ただ、情報を研究するっていうのが、今までの国の雰囲気と違いすぎてなかなか難しいですね」

「だよねー、わかるわその気持ち。そもそも目に見えないじゃん?情報ってやつそのものはさ。だから情報ってなんなのっていまだに私も思ってるよ。実際、『情報とは』みたいなのは数学とか物理学でもしかしたら研究されているのかもしれないけれど、さすがに私達は情報自体を研究しているわけではなくて、例えば『薬の情報』だと、代表的なのは薬の効果や副作用やあとはどんな構造をしているのかとかかしら。そういう薬の情報をまとめたデーターベースを作ったり、逆にどうやって調べればそういう情報をスムーズに集められるかみたいなものまで含めてかしら」

「つまり、薬理学や薬物動態学、化学、物理学などなど、他の街が研究した結果を情報として調べやすくするための研究ってことですか?」

「そうそう、今言っていたのはそんな感じ。要約が上手いね。あとは実際に薬を人に使ってどうだったかが実は一番大事な情報なの。だって、ネズミやサルと私達ってやっぱり違うもの。それどころか、人間の中でも男女や人種や年齢や、様々な違いがあるわ。だから、実際にどんな人に使ってみて、どんな効果や副作用が出たかっていうのが、とても重要視されている情報かなよ。他の街の実験で得られた結果に加えて、そういう実際の使用してみた結果がお薬の情報って感じかしら」

今までの実験結果全部を取りまとめていると思うと、かなり広い範囲で網羅的なんじゃないだろうかと思っていると、彼女は続けて口を開いた。

「それが薬について知るには、そもそも薬を使う私達体のことも知らなければいけないし、病気のことも知らなければいけない。で、人体だけが原因じゃないっておばあちゃんに聞いたんだよね?だから、本当は環境の情報だってまとめられるのが理想。……まぁ、つまり今のところそこまではなかなかシステマチックにできていないっていうのが実際かな」

薬を知るということはそれに関わる全部の情報を扱ってことだと思うと、かなり広い範囲なんてもんじゃないな、これは。とは言っても、まだなんというか……イメージがわかない。

「なんとなく、広い範囲の情報を集めないといけないのは分かったんだけれど、『情報を扱う』っていうのが抽象的すぎて、なんとも」
そういうと、彼女はこめかみに指を当てて、んーと呻きながら考え初めた。

「これは完全に私見だから、もっと良く分かっていそうな人を街で見つけて聞いて欲しいなって思うんだけど、それでもいいかな?」
むしろ、彼女の私見が気になって僕はコクコクと頷いた。

「現在の医薬品情報学っていうのは、新薬の開発や新研究に繋げる側面よりも、医療現場で適切に薬を使うためにどうやって情報を取り扱うのがいいのかっていう学問っぽい感じなの。だからね、情報の取り扱いっていうのは実験結果やヒトに使用してみた結果といった情報の収集すること、そしてその情報がどれだけ正しそうかを実験方法や結果から精査すること、そして精査した結果を医療スタッフや患者さんなど相手が理解しやすい形に加工すること、そして提供する情報をもとにどうやって治療方針やお薬選びをどうすれば良いか提案すること、この4つの段階のレベルを上げていくことがたぶん今のところの医薬品情報学だと思う」

思った以上に実践的だった。今までの街が実験や調査をベースにしていたけれど、この街は医療現場や社会をベースにしている感じだ。
そう思っていると、彼女は「今のところはまだね」と言葉を続けた。

「これからはたぶんもっと凄くなる!……はず」
僕は彼女の次の言葉を待った。

「これこそ私見どころか、私の単なる希望的観測だけどさ。他の国にも『情報学』ってつく街はたくさんあるの。例えば生物情報学だったり、化学情報学というものもあるし、なんだったらより社会分野に近いところでも金融情報学なんて街もあるわ。そして、そういった街では機械に学習させることで、人では見つけられない法則を見つける技術が当たり前に使われているの。そして、今まで見付けらなかった新しい法則を見つけたり、精度の高い予測を行っていたりするんだけれど、それが私達の街ではまだほとんどない。だから、たぶん、きっと、これから使われると私は信じてるわ」

情報学と付くがゆえのコンプレックスを彼女は感じているのかもしれない。生物情報学や金融情報学などが、その法則性や予測性を目的とした学問なのだとしたら、医療現場でのスムーズな情報の利用を目的とした医薬品情報学とはそもそも向いている方向が違うのだから気にする必要はない気もするけれど、それでも彼女は悔しそうだった。

「きっとね、これからの医薬品情報学は他の国の力を借りて、今まで集められなかった種類のデータを集めること、そして薬、ヒト、病気など、今は別々の情報を統合的に扱う手法を開発すること、そして患者さんの生活環境や考え方なんかを考慮して、患者さんごとに効果が高く、副作用が少なく、そしてストレスが少ない可能性が高い治療方法がなんなのかを予測する方法を発見すること。そんなすごいことをしてくれると私は信じてる」
そこまで言い切って、彼女はまた笑顔になった。

「そこまで考えいる人間がいるなら、きっと大丈夫ですよ。ここに一人いるなら、きっと国中を探したらたくさんいる。そんなもんです」
彼女はさらに口角を上げた

「ということで、医薬品情報学の街の話でかなり時間を取っちゃったんだけど、そういう情報を読み解くのには統計の知識が大事なのよ」

すっかり忘れていたけれど、そうだった。まだもう一つの街が近くにあったんだった。

「薬って同じ薬だったら、どれもほとんど変わらないわ。ロット番号1番の錠剤と9999番の錠剤を比べても、実際的には同じって言ってもいいくらいには違わないわ。でも、人間って全然違うの。今、世界には70億人以上いるんだけれど、まったく同じ人なんていないの。たとえ一卵性双生児でも、食べたものは違うかもしれないし摂っている水分の量は違うかもしれないし、恋人は絶対違うはずでしょ?同じお薬を飲んだとしても、飲む側の人間がそれぞれ違うから同じ結果になるわけがないでしょ?つまり、効果があるか副作用が出るかなどは確率の話になってくるんだけれど……」
そこまで言って彼女は言葉を止めた。おそらく僕が困り眉になっていることに気が付いたんだろう。

「分かった分かった。できるだけ簡単に話すように頑張ってみる。えっとね、統計学は調査対象が一個じゃなくて複数個ある場合……まぁ"個"じゃなくて"回"とかでもいいけれど……つまり複数がグループになったものを数学的に調べる方法だと思ってくれればいいわ。そして、具体的に何を調べるかと言うと、そのグループの特徴やグループ同士の違いを数式や数値、確率で表現するのが統計学という感じかしら。例えば今後何年以内に大地震が来るかを大地震の特徴から予測したりするけれど、たぶん違いはもっと身近に感じられると思うわ。では質問、この国全員の男性と女性、どちらの方が身長が高いと思う?」

あまりにも唐突に分かりきった質問に少し困惑しながらも……
「それは男性じゃないですか?見る限り普通に男性の方が身長高い人が多いと思うし」

「なるほど、見た感じね。じゃあ、どうすればそれをもっと分かりやすく私に表現してほしいなぁ。なんとなくじゃあ納得できないかなぁ。分かりやすい数値とかで比較できないかなぁ。……って言われたらどうする?」
「それならまぁ、普通に身長の平均値とかで比較すれば分かりやすいんじゃないでしょうか」
「そう、その平均値も実は統計学なんだよ。二つのグループの違いを明確にする学問から生まれた、分かりやすく馴染みのある利器だね!とは言っても、この国全員の身長を今から測るのって無理じゃない?現実的に考えてさ」
「それはまぁ……そうですね。じゃあ、そこら辺の人に頼んで、何人か測ってみた結果で予測してみれば」
「何人かって、何人?」

意地悪そうに笑う彼女に対して、答えに詰まり焦りを感じ始める。
「何人って言われても……」
「何人の身長を測れば、この国の男女の身長の平均値に違いがあるのか、そしてどれくらい違いがあるのかが統計学を学ぶことで分かっちゃったりするんだな、これが。さっき法則性って言ったけれど、医薬品情報の街で言っていた『機械に学習させて高精度な予測を行う』っていうのも、実は統計学の発展した先にあたりするの。今回例にあげた男女はかなり分かりやすかったけれど、薬の効果有り無しや副作用の頻度なんかを評価しようって言う時は、男女程分かりやすい違いじゃないから、統計学の力を借りて、本当に違いがあるのか、どれくらい違いがあるのかを数値で明確にするのよ。雑多に散らばっただけに見える世界から、特定の法則を見つけ出す、そんな学問って言ってもいいかもしれないわね、医薬品情報学も医療統計学も、すごい楽しいわよ」

ー薬学旅行記 12  医療経済学ー

画像11


スーツを着た人たちがせっせと街を行きかっている。今まで以上に人の歩く速度が速い気がする。商いの声がいたるところからする事務所街に僕は来ていた。

そんな人が急流のように流れていく道の真ん中で、一人ゆったりとした雰囲気でこちらを見ている女性がいた。

「どうもー、お待ちしておりました。あんまり時間がないんですけれど、少しだけ、この街をご案内しますー」

流れの速い街の中で、そこだけ時間の流れが違った。とても時間がないとは思えない、丁寧な所作や喋り方がとても印象に残る女性だった。

「今の時代医療って大変なんですよー?高齢の方の割合が増えて、労働に従事する人の割合も減っているんですよー。でも、お薬や医療の開発にかかる研究費はどんどん上がっているし、病院だけじゃなく介護施設なんかも必要な時代になってきているしで、大変なんですよー」

大変なのは理解できるのだけれど、彼女の話しぶりのせいで、なんだか大変だという気持ちが入ってこない。

「だからー、私達のこの街、医療経済学の街が頑張っているんですよ」
胸の前で拳を作る彼女は心許ない感じがするけれど、信頼はできるとそんな感じがした。

「薬について学ぶ国で、正直経済学についての街があるなんて正直思っていなかったので、結構ビックリしました」
「はは、ですよねー。けれど、医療を受けるのは人間ですが、提供するのも人間なんですー。つまり医療もまた人の営みで、人の営みに永遠なんてモノはないけれど、そういう営みの流れを良くして、少しでも永く健全に保つためには経済学、大事なんです」

流れを整える、少しでも永く健全に、それを僕は知っている。

「まぁ、そんなふんわりした話じゃつまらないと思うので、もう少しだけ具体的に言うと、まずは医療保険どうすれば人々の負担が少なく、かつ患者さんに最大限のサポートができるのか考えたりですね、お薬の効果と費用のバランスを考えたりもするんですけれど、電化製品とかと違って副作用っていうリスクもあったりするので、そういう部分を考慮した費用対効果を考える必要があったりですねー、将来どんな医療や分野にどれくらお金が流れるようになるかっていうのを予測したりですねー、まぁそんな感じですね」

そんな話をしていると、すぐに時間が来てしまったようだ。彼女はまたゆったりとした別れの挨拶をして、丁寧な所作で踵を返すと、街の人たちと同じ速度で流れていった。

僕は彼女の最後の言葉を思い出す。
「誰かを治療するための医療が、社会の病気の原因になっちゃったら洒落にならないじゃないですかー。医療経済学、楽しいですよ」

ー薬学旅行記 13  医療倫理/薬事関連法規

画像12


「倫理とは何か!という言葉を、しかして私は説明できたことがないのだよ」

次の街に着いた僕は、フワフワとしたシルバーの髪をサイドで結っている彼女に唐突に話しかけられた。

「ここは倫理と法律の街、そして私は旅人の君を案内する役割を任命され……いや、指名されたんだっけ?まぁ、この際はどっちでもいっか。とりあえず任されたわけだけれど、いかせん大問題がある。倫理とは何かを説明できないのに、私はこの街を案内できるというのだろうか。ということで君に聞きたい。倫理とはなんだろうか、医療倫理とはつまり何を指す言葉なのだろうか」

それを僕は聞きに来たはずなのだけれど。

「僕も良く分かりませんけれど、なんでしょう。人が社会を生きる中で、お互いを尊重するために持つ心みたいな感じでしょうか。もっと端的に言うとすれば、人道に則った行い?」

顎に手を当てながら数秒停止していた彼女が動き出し、頷いた。
「なるほどなるほど。特に目新しい考え方ではないけれど、言わんとすることは分かった気がする。君の言に従うとするならば、この街の見どころも分からず、一人では右往左往してしまうであろう君を、力及ばずとも案内をするというのは倫理的行動と言えるのかもしれんな」

そう言うと彼女は、あまり期待せずについて来いと僕を促した。

「過度に期待されても、正直私としても困るわけだ。つまり、今この現状では過度な期待こそ倫理にもとる行為ということなんだ。よろしく頼む」

そんな無理矢理なハードルの下げ方に感心しながら、僕は後をついて行った。

「医療においては倫理はかねてからずっと言われていたことでもある。古い記録だと、6000年前にまで遡る。その時代に医学の父と呼ばれたヒポクラテスという偉いおじさんがいたのだけれど、彼が立てた誓いが、今の医療倫理の根幹にいまだ根付いていたりする。ざっくり言うと、医学を学び教えること、患者にとって最も良いと思われる治療をすること、害となる治療は行わないこと、依頼されても人を殺す薬を渡さないこと、誰に対しても平等に医療を行うこと、そして患者の生活に関わる全てのことを秘密にすること」

たしかに、現代においてもその考え方は十分通用する気がするし、むしろこれしかないといった気持ちすらするくらいだ。

「このヒポクラテスさんの誓いをもとに、70年くらい前にジュネーブ宣言という倫理に関する宣言文が国際的な医師会で宣言され、何度も改訂されながら、現在の医療倫理の決定版みたいな感じで受け取られている。ヒポクラテスさんと言ってることが似ている部分もやっぱり多いけれど、違いをあげるとしたらそうだね、治療について患者と情報をしっかりシェアし、今後の人生をどのように生きたいのかという患者の意志を最大限に尊重するような文章が増えているので、そこらへんが6000年の間で変わった部分なのかな」

たしかにヒポクラテスさんの言葉を聞いて、現代でも通用するとは思ったけれど、倫理観というのは思った以上に時代に左右されないものなのかもしれない。

「そして薬剤師倫理規定というのもある。あるにはあるけれど、まぁ、概ねジュネーブ宣言と変わらないので割愛するよ。だいたいこれが今の医療者が持つべきと言われる倫理なのだけれど、医療とは医療現場だけのものではない。こと、薬学においては創薬もまた医療の一つと言えるわけだ。そしてまた創薬部分においても倫理が存在する。かつて人間は戦争中に大量の捕虜を使って人体実験をしたりしたんだけれど、これは人道に則った行為と言えるだろうか」

まったくもって言えないだろう。

「そう、全然言えない。ということで、人体実験は倫理的に否定されるべき行為なわけだけれど、では人体実験をしていない薬を効くだろうと思って投与するのは倫理的にどうだろうか。この薬が発売されれば不治の病の患者が何万人も助かるかもしれないけれど、人体実験は倫理的にNGだから開発するのはやめておこうというのは倫理的にOKなのだろうか。という、倫理の袋小路みたいなことがしばしばあったりする。この場合はより人の社会にメリットがある方法を選択するというのが、一般的っぽいな」

「つまりこの場合は、『できるだけ安全に人体実験をするのが正解』ということですか?」
良く知っているねと頷く彼女。
「さすがに僕も臨床試験というものがあるのは知ってましたから。」

「君の言うとおりだ。もちろん完全に万全に安全というわけにはいかない。そこで、被験者の意志を最大限に尊重しなさいという医学研究の倫理をしるした宣言がヘルシンキで行われたんだ。医療従事者の規律を明文化したジュネーブ宣言、医学研究の規律を明文化したヘルシンキ宣言、そしてもう一つ、どの患者も必ず維持されるべき権利というものがあるとして、規律ではなく患者の権利を明文化したリスボン宣言。この辺りが主要な倫理だと思う」

そこまで話してくれた彼女は、少なくとも街の外の人間からすれば十分に倫理に詳しい気もする。全然分からないということはないと思うのだけれど。

「そして考えれば考えるほど結局分からなくなる。患者の意志とはとどのつまり好みや考え方のことであって、それは患者ごとに違うはず。つまり人の数だけ意志の数があり、それは患者によって変わる行動を倫理で規定することはできないはず。ただ、そうなってくると結局私達の心の持ちようが重要なのであって、どう振る舞うかは倫理の外の話になってくるんじゃないかとかね。まったく分からんよ、倫理というやつは」

ははんと、心の中で思わずらしくもない笑いを浮かべてしまった。
彼女が分からないというのは、単純明快な話で、それこそとどのつまり真剣に向き合っているからこそ、いまだ答えが出ていないということなのだろう。ヒポクラテスさんの宣言に正しさを覚えながらも、本当はもっといい答えがあるのではないかと思ってしまうのだろう。
無知の知といよりは単にひたむきなのかもしれない。

「他にはまぁ、臓器くじや便器のクモなんて呼ばれている思考実験があったり、そういう思考実験の現実的な例のようなモラルジレンマなんていうのもあるけれど、いちいち説明するのも大変だからな。もし興味があるなら自分で調べてみるのも一興だと思うぞ」

たぶんあまり長く話すタイプではないのだろう。ふぅと深く息を吐いてこちらを見た。
「申し訳ないんだが、薬学に関わる法律について一から説明する体力はもうないみたいだし、さらに問題なのが薬学に関わる法律について一から説明する気力がまったくないということだ。実際の所、私達以上に法律の国の人間の方が詳しかったりするしな。私達は薬学を営む上で知っていなければいけない知識としてそれを学ぶことが多いけれど、そういう法律や制度が社会にどういう影響を与えているのかを調べ、そしてどういう法律や制度が必要かを、薬学の専門サイドからも、もっと研究していくべき必要はあると考えている。何はともあれ、誰が自分を殺してもおかしくないという時、人は家から一歩も出られないけれど、法律で殺人を禁止することで人は安心して外を歩けるようになる。規律が生む自由、規制が生む権利という一見矛盾したものがこの世にはあったりするからね」

そこまで言うと、彼女は大きなあくびをしながら、眠そうに手を振った。

「ということで、案内はここまで。まぁ私も案内できてそれなりに楽しかったよ。それに、それなりに、医療倫理と医療法規、楽しいものだよ」

ー薬学旅行記 15  薬物治療学ー

画像13

かくして、僕の旅も終わりが近づいてきた。巡る街はここが最後になるだろう。

「ようこそ、おこしくださいました。ここは薬物治療学の街です。クリスさんのお話は、他の街の友人たちから伺ってます。話しやすくて言い方だって聞いてましたけれど、実際に優しそうな方で良かったです。力不足かとは思いますけれど、不肖私がこの街のご案内をさせていただきますね」

今までの街を思い出す。あまりの丁寧な対応に逆に混乱してしまうほど、僕はこの国に馴染んできていたようだ。逆にむず痒さのようなものすら感じてしまう。

「様々な街を巡られてきたと聞きました。結構長い時間かけてこの薬学の国を旅してくださったんですね。何はともあれ、この街を最後にしてくださったのは慧眼です。なんてったってこの街は全ての街の集大成ですから。簡単に申し上げますと、すでに出来上がった薬があり、それなりにお薬についての情報もあり、法律や倫理に則った治療行為をしている、そんな状況で安全により効果的な薬物治療を行うためにはどうすれば良いのかという実践レベルの研究を行うのがこの街なんです。今までは薬にフォーカスを当てて観光してきてくださったと思いますが、他の街とこの街の一番の違いは、薬ではなく人によりフォーカスが当たっていることかもしれません。なぜなら、薬が効くかどうかなんて『人に依る』からです」

薬が効くかどうかは人に依るというのを言い切る人に、僕はこの国で初めて会ったかもしれない。

「たぶん医薬品情報学か医療統計学の街あたりで少し似たお話をしていると思うので、重複していたら申し訳ありません。まったく同じ人間はいないので、お薬がまったく同じ効果を示すなんてことはありませんし、副作用も同様にまったく同じになることはありません。これはもう、お薬の方をいくら調べてもどうにもなりません。なので、薬物治療学では患者さんを見るんです。その方の年齢や性別、体格、他に疾患や薬はないか、経済的に余裕はあるか、そしてその方がどんなことが苦手で、今後の人生をどんな風に生きていこうかという意志をふまえたうえで、治療効果と副作用のバランスを決めて、薬物治療の提案内容を決めるんです。そして医師や看護師など他の医療従事者とどうやったら上手にコミュニケーションを取れるのか考え、そして治療行為が経済的に医療費を圧迫しないか、犯罪に悪用されないか、耐性菌など社会に大きな影響を与えることがないかなども踏まえて、創薬ではなく『薬を使う』という部分で、より良い薬物治療を達成するために何ができるのかを模索していくのが薬物治療学です」

この長い文章を、噛まずに一息で話し終える彼女の実力に感嘆の息を漏らしながらも、そんな長い文章になってしまうほど、広い分野を応用しているのだとういのが良く分かる。

「なので正直なところ、あまり目玉スポットと言いますか、ご紹介できるところがないんです。先程も言いましたけれど、患者様毎に治療が異なる場合もありますし、治療が同じだったとしても対応は全然違ったりするので、もし本当に知りたいと思った場合、住んでもらう以外にはどうしようもない気がしますね」

案内すると言った手前、少し心苦しくもあるのだろう。
少し困ったような笑顔を浮かべる。
「ですけど、だからこそ、様々な人のストーリーに出会えるので、薬物治療学、楽しいです」

ー標高で見る薬学の国ー

標高マップ


大きな地図の前で僕はベンチに座りぼんやりとそれを眺めていた。

「お待たせして悪いけど、船の準備ももうすぐ終わるからね。も少しだけ待っとってね」

船に荷を積みながら、くるくるとした単発をゆさゆさと揺らす女性に僕は返事代わりの会釈をした。

「改めてみるとすごいな。研究対象で一番小さいのは物理学の原子や電子レベルの大きさで、人のサイズになって街のサイズになって、最終的には街どころか国レベルの大きさまで。こんな幅広いスケールを、薬学の国は網羅してるのか」

感心していると、先ほどの女性が話しかけてきた。
「この地図にはない街もまだまだたくさんあるんだけれど、の国に住んでいる人間はそういった街をだいたい4年から6年くらいかけて、修行で回るのよ。もちろん私も回ったけど、あれあれでなかなかきつかったわね」

彼女はきつかったと言いながらも、どこか楽しかった思い出にひたっているような気もする。

「その修行が大変なのは結構簡単に想像できる気がします。僕は今回弾丸旅行でしたけれど、それでも日記をつけてなければ、見るものが多すぎて何の知識も持ち帰れなかったと思います」

そう言う僕に、「そうかいそうかい」と言いながら彼女は大きく笑った。

「ところで、無粋な質問かもしれなけれど、あんた何で男装して男みたいなしゃべりかたしているんだい?勿論本人の自由だからいいんだけどさ」

と、その気風良く笑う女性は私にストレートに疑問を投げかけてきましたわ。この国に来てからこの方、そんな風に尋ねられたことはありませんでしたわ。

あ……でもそう言えば、この国に来てから一度たりとて「お兄さん」とか「男性」って言われたことなかったかも。

「結構上手に変装できていたと思っていたのですけれど、案外今までもバレバレだったのかもしれませんわね。まぁいいですわ。実は、この変装には貴女様が想像もできないような大きな理由がありますの!」

「それは」と言う私の言葉を興味深げに彼女は待っている。

「何を隠そう、"気分"ですわ!女性が一人旅する小説とかって、男装していたりしますでしょ?だからその方が気分がノルし、アガルしと思って男装してみましたわ!」

彼女は一瞬キョトンとしたけれど、また彼女らしい気持ちのいい笑い声をあげた。
「はっはっは、そりゃ大事だ。なんてったって旅は気分が一番大事だからね」

そう言いながら、彼女は楽しそうに今までで一番大きな笑い声を上げた。

「それじゃあ、旅の終りに申し訳ないけれど、乗船リストに名前を書いといてくれ。本名でね」

良い国でしたわ、本当に。皆様親切で、お話も面白くて、そして何より皆様楽しそうでしたわ。またいつかこの国に来た時、どんな風に変わっているのか、楽しみですわ。

差し出された乗船リストに私は名前を書いた。

                                                    -薬学乙女たんbot (@pharm_lady_tan)-

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?