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ジブリと私 (谷垣記)

 馬鹿真面目に文学やら小説やら創作やらに就いて文章を拵えるのも程々にして、偶には本当に趣味が有ると云える物に言及するというのも一興でしょうから、私こと谷垣は、此処で、生来初めて、自分の文章を私の趣味の為に、詰り、ジブリの為に費やそうと思います。

 私が初めて触れたジブリ作品はVHS版の「もののけ姫」であったように記憶して居りますが、其の初めて触れた当時は谷垣未だ五歳程の未就学児かそこいらでしたから、抱きたる印象と云えば、まあ何と幻想的で美しい事だろう云々というのでもなく、五歳に「もののけ姫」は、譬えて云わば、初来日の西洋人に佃煮を振舞うような無謀にも通ずるものが無いとも言えない、其れは余りに未知のもので、故に末恐ろしくって堪らないような、しかし、異国の奇妙(佃煮)も五歳児に「もののけ姫」も、そのいづれには、怖い物みたさに負けると云った運命があるようで、私の知り合いの西洋人なぞは、佃煮が軈て大の好物に成り、最後は松前漬に落ち着いたようで、当の五歳児谷垣も、血生臭い描写や稍残酷な物語を子供心ながらに壮大な冒険譚に昇華して、以来、生粋のジブリストを自称するようになったので御座います。

 さて、私のジブリ遍歴でも殊に熱中した作品を挙げるとこうなります。

「もののけ姫」→「となりのトトロ」→「ラピュタ」→「ナウシカ」
→「千と千尋」→「ゲド戦記」→「ハウルの動く城」→「猫の恩返し」
→「アリエッティ」→「耳をすませば」→「マーニー」→「風立ちぬ」

生粋のジブリストと云うからして最前線に居るのかと思われた方には済みませんが、「君達はどう生きるか」は実は未だ観ません。観よう観ようと思って、愚図愚図していると遂に近くの映画館で放映が締め切られてしまいました。近年の大後悔と云えば、其れに尽きてしまう。ジブリ作品は映画館で見てこそだ、なぞと、復刻で幾つか過去の作品が映画館で観られた頃に大口を叩いて居た私は、其の過去の私に対して本当に済まない事をしてしまいました。ああ、しかし、「ナウシカ」を映画館で観た時の、あのプロローグから、どんとナウシカのテーマが掛かる瞬間、あれにはちょっと言表しようもない感動を覚えたものです。意味も無く後ろに座る子連れの主婦らしい女の人を振り返ってしまったのも好き思い出です。やっぱりジブリは映画館で観てこそだと私は思ってしまう。個人で愉しむのは、ジブリでも音楽の方で好い、作品自体はやっぱり映画館でしょうか。

 処で、ジブリは何も作品ばかりで愉しむんじゃあ勿体無いという処から広がりを見せたのかは知りませんが、ジブリのグッズが揃って売られる「どんぐり共和国」や「三鷹の森ジブリ美術館」「ジブリパーク」等、今や、ジブリは何だか現実世界そのものに進出して、其の方でも人々を熱狂させて居るのは云う迄もない事実でしょう。アートブックや諸々作品の設定資料集云々やら出版方面でも御盛んで、鈴木氏の著作なぞも評判らしい。聞けば、舞台公演も遣るとか何とかで、最早何でもありの形相を呈して居る昨今ですが、私は上に書いたような作品自体に関しないジブリをも好きかと云われれば、そんな事は全然なく、寧ろ其の方に関しては、生粋のジブリストなぞという看板を提げるのは最早認められないでしょう。いや、トトロの綿詰めの一つや二つ土産で貰う分には嬉しい、しかし、例えば、天沢聖司のあの部屋や千と千尋のあの汽車等が再現されただのなんだのと聞いても、其れには左程高揚しない。ラピュタのロボット兵なぞは、あんなもの現物で観ると其れこそ恐ろしい以外の何物でもないでしょう。詰り、私の云いたいのは、天沢の部屋は月島の眼で看るからこそ憧れるし、千と千尋の汽車は、千尋があそこに乗るからこそ、彼女の心に同情してどきどきもするし、ロボット兵はシータと有るパズーの、彼女に向けられた無邪気な恋心に融和された恐怖心と子供らしい可愛げの有る無知が有るからこそ、ああして真に感動して、対面できるのだという事です。いや、此れが若し子供なら話は少し変わりもします。彼等の感受性は、ジブリの作品そのものだから。しかし、私はもうそうは成れない、天沢の部屋に行ったとしても、きっと私は、私のぎしぎし鳴るであろう足音にとんと興の醒め醒めしてしまう事でしょうし、あの汽車に乗れば、私の図体の嫌に大きいのに辟易するでしょうし、ロボット兵は、どうでしょう、いや、やもすれば其ればっかりは感動しないとも言えません。
 詰りです。私は、所謂ジブリオタクと云われる処には存せず、やっぱり何処迄云っても私の内で完結するジブリストなんでしょう。何故と云えば、正直の処、宮崎駿の取材記録や鈴木敏夫の記事や、ジブリ作品の裏話やら他所の人間が遣る解説やらには一向興味は有りません。ジブリ飯も、あれを再現した動画やら何やらが話題に成りますが、全然美味そうと思わない、手間だと思ってしまう、そんなら其のジブリ飯が出るシーンを見ながら、茶漬けでも食った方がましなような気がする。美味そうに食って居る彼等が重要なんでしょう。

つい熱が入ってしまって言及し忘れて居た事ですが、ジブリと云えば、「ほたるの墓」がもう、あの時期に流されなくなって久しいようで、その代り何を流して居るのかちっと私は判りませんが、一応何か戦争の特番でも遣って居るんでしょうか。あの時期と云えば、「ほたるの墓」でした。身を寄せた先の親類の家では除け者にされ、食うに困って畑で盗みが入れば戦争孤児なぞ一見して分かるような坊主頭を殴りつけるおやじの威勢が凄まじく、毎年毎年嫌な気持ちになったものですが、其れでも、毎年毎年見てしまう自分が居たものです。決して自発的に看たいような物では有りませんが、何だか流されると義務として看なければならないような心地で、家族一同沈鬱な寝入りをしたのを覚えて居ます。あの時期にあの作品を観る習慣の有ったご家庭は皆定めてそうでしたろう、仕事や家事以外で親の真剣な顔付を観るの機会は余り有りませんし、殊に兄弟があれば、あの一時だけは、平生喧嘩ばかりしていても、ちょっと大事にして遣ろう位の意気が芽生えて来る。戦争なぞ起こしてはならない、其れ以上に、あの作品がさも年中行事の如く流される意義は確かに有りました。まあ戦争特番でも別段文句は無いのですが、しかし極単純に歴史というものに自然沸き上がる興味が深刻を妨げてしまそうな気がしてなりません、其処は素直に「ほたるの墓」を流せばいいだろうと私は思うのですが。

 以前母親か誰かに云われてはとした事ですが、
 「お前は元来所謂アニメ好きなんだろう」
と云われて、自分では全然その自覚が無いものですから、
 「何故、」
と聞くと、
「そりゃあお前、腐る程ジブリを見て居るからだ、」
とこう云うんですが、何せ私は云わば五歳からジブリを見て居りますから、其の方ではエリートと云って差し支えないようなもの、
「あれの何処がアニメだ、」
と云って遣りましたら、
「逆にあれの何処がアニメじゃないんだ、」
と此の問答で判る通り、両者分かり合えない運命に在るようで、
「あれはジブリであってアニメではない、」
とは余程云いたい処をぐっと堪えて、何だか腑に落ちない処を苦笑で誤魔化した事があります。
 しかし、ジブリは確かにアニメでしょう。其の認識が一般でしょう。が、思うのですが、例えば、幼少の頃から昼夜を共にする可愛い可愛い飼い犬を、他者の言葉で「犬」と片づけられると何だか侮辱されたような気がするでしょう。「此の犬はいくつになる」とか聞かれると、最早応える気に成らないのは私だけでしょうか。
畢竟ジブリも私の中では其れ位の地位に有るということなんでしょう。

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