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才能との闘い~現実派を自認して~

 人生で敵わないと思った人は沢山いる。そう思う人は多いはず。他聞に漏れず自分もそうだ。現実には皆がみんな、自分は中の中、もしくは中の下と認識する人も多いと思う。



 学生時代を振り返れば、他者の才能との闘い。社会人になってからも圧倒的スキルとの闘いである。よく、人の上に立ちたいという単純で向こう見ずな願望を思い描く人がいる。特に子供がそうなのかもしれない。しかし、それが時を経るにつれ、現実と向き合い、自分の不能な部分を知り、不能と可能の境界が決して曖昧模糊ではない事を踏みつけられるように知らしめられたとき、残った感情はそれでも歩く、歩こうなのだと思う。


 散歩が好きな理由はこれかも知れない。脚が疲れてようが、雨降りだろうが、この一歩から始める外の世界は止められない。というか、人は絶望を叩きつけられるとき、存外京王線刺傷事件の犯人のようなジョーカーに恋い焦がれる感情には支配されないと思う。ジョーカーに憧れるレベルの絶望はまだ、甘いと考えている。というのも世の中には貧しくても声を上げるのを我慢し、親子で飢餓で亡くなるという家族がいる。この日本でだ。栄養失調で失明する人だっている。絶望の深みを探せば、到底人に八つ当たりするという考えがあまりに浅はかであることを知らされる。


 才能との闘いとは何だろう。トップ層の金科玉条か、はたまた努力の天才の専売特許か。違う。一般人の這い上がる格言とは絶えず才能との闘いであると筆者は信じる。人には出来ることと出来ないことの二択に迫られる事情がある。巷の報道で騙られる真実の格差に、人は憤怒し、失望し、そして誰かを批判する。無論ここでいう真実の格差とは皮肉の言葉として申し上げている。著名な俳優も亡くなってから、何億もの借金を抱えていたという報道も世界ではめずらしくはない。一般人の道とは何か。絶え間なく続く戦いの螺旋に挑戦すること、圧倒される才能の間隙を縫い、自分の居場所を開拓する。これは社会人としての生き方にも通ずるものがある。


 人には居場所がある。しかし、その居場所は簡単には当人に合図は送らない。その為の汗をかくことを二つ三つ超えないと居場所は手に入らない。一人ひとりに哲学があり、ストーリーがある。筆者もこのnoteで多くの挑戦者たちの成功談、それに至るまでの失敗の経験を読んできた。それは人の世は完成されていない、建設途中の踊り場である事を奇貨として知りえなくてはならないということだ。今、インターネットを通して筆者が問いたいのは、まだこの世は未完成で、筆者も含め多くの人々が模索しているのだ、自分の強みを。


 ここまでお読み頂いた読者に筆者は何が語れたかを逡巡もしてしまうが、この浅学非才にお付き合い頂いた事に改めて御礼申し上げます。

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