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社会人という言葉が嫌い??

 このタイトル、ヤフー質問コーナーで見つけたフレーズである。特にこれについて嘲笑したり共感したりする話ではない。筆者がこのフレーズに思うのは、日本人の”所属意識”そのものである。筆者は大学受験で現役時失敗し、浪人を経験するとき、特に対世間の際困ったのは所属、身分の説明であった。浪人時代は自分の立ち位置をどう説明すればいいか、真面目な人ほど、言葉に窮したことと思う。そこが日本人をメタで眺める際、ヒントになることではないかと考える。


 大学受験だけでない。就職浪人や資格試験浪人など、人生において引っ掛かりうる多くのモラトリアム期間に身分証明が切羽詰まることがある。とりわけ、お巡りさんの職質などで、疑念を抱かれるのはどうにもこの”無所属”というタームなのだ。小中高大というコースを歩む人の場合、どこかで無所属でいることは大いにあるはずだ。それは勿論意図せずしてである。そして大学や専門学校を出た後、景気に恵まれ、無事に卒業時に仕事があてがわられれば、土台本ブログを省みる必要などない。本稿はそういうシームレスな人生経験者に向けたものではないことをお断りしておく。


 大学や就活や資格試験は多くの場合”選抜”されるものだ。選ばれてその上でその身分を得るわけだ。しかし、上手くいっているときはいいが、大抵どこかで躓くのが人生だ。仕事や資格は景気如何によって大きくその採用枠が増減する。それは一人の人間の意思ではどうにもならない現象なのである。筆者は浪人時代、自分と社会との間に超えられぬ溝のようなものを精神的に感じた。それはクラスのスター集団を傍から羨望の眼差しで見つめている、気弱な学生のようなものだ。


 所属という言葉は立場という壁に囲まれた利益であると常々思う。何とか会社所属、何とか大学所属、多くの立場がその利益の恩恵に預かっている。言うなれば、パスポートを国内で持っていないとはじかれてしまう国際社会の縮図がそこにある。


 ここで訂正しよう。始めに日本人の所属意識と述べたが、恐らくこれは先進国では共通のIDという自己証明の必要性を如実に示していることなのではないだろうか。ここで気になるのが旧来からある日本の戸籍制度だ。日本人は戸籍に全員載っている、というが、事実婚のパートナーや愛人やその子供は無戸籍な場合が往々にしてある。これは要は社会において立場の証明から漏れてしまっている状態である。国の調査によるとその人数は九百人以上に上ると言われているが、果たしてそれが上限だろうか。貧困や健康問題など、戸籍をあてがわれない国民を救う方法も国として進めなければ、社会問題として大きく立ちはだかる恐れがある。


 ここから本ブログのタイトルに戻ると、社会人という立ち位置は実はない、ないというか総称に過ぎない。世間において、戸籍や社員登録など社会に所属するというのは実は野放図であることが多いという事が分る。身分をもう一度確定させるにはマイナンバーやパスポートなどの国の割り当てが実は肝心ではないかと筆者は思うのだ。

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