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卒倒読書のすすめ 第二回 村上春樹『羊をめぐる冒険』

村上春樹の小説を読むと「なんだかんだで面白くてムカつく」と思う。これまでにあなたは村上春樹の小説を読んだことがありますか。「なんか今更ベタやし」とか言わないで、もし読んだことがないなら、ちょっと読んでみてもいい、かも。

私にとって村上春樹の小説は、初めて付き合った恋人みたいな感じだ。別れてからいろいろな人生経験して、もっといい男とも付き合ったし、人間的深みもちょっと身につけて大人になったけど、ふと彼のことを思い出すと「あの頃が一番、純粋に人のことを好きだったのかな……。」ってしんみりするみたいな。そういう、野暮ったくてうざったい気持ちを誘発させる。彼に少なからず影響受けてるって実感して、くすりとしながらちょっとムカつく。

なにしろ『羊をめぐる冒険』は、読書体験の入り口になった本なのだ。
中学校に入学したとき、お祝いに母親からこの本をもらった。それぞれの家庭にはそれぞれの定番の話題があると思うが、我が家においては9割が本についてだった。そしてある年齢に達すると課題図書のように、母親から本が渡される。そんな中の一冊が『羊をめぐる冒険』だった。変なタイトルだ、そう思いながら読み進めたときの衝撃。今読み直しても、あの衝撃をもう一度味わえないのが歯痒い。とにかく頭からバケツいっぱいの冷水をぶちまけられたみたいだった。小説ってこんなに面白いものなのか。時間の入れ替え、非リアリティ表現によって、逆に浮き彫りになるリアリティ。温度の低いユーモアに、出てくる言葉のおしゃれさ。この小説には小説という形態でしかできない表現の面白さがあり、それはこんなにも心に寄り添ってくるものなのか。とにかく、それまでの世界が一度崩壊し、想像し得なかった未来都市が新たに築かれていくようだった。この本を読んでいない時間がとにかく惜しくて、授業中も隠れて (隠れられず) 読み、ハルキストの声のデカい太った国語教師に嫌われた。私も嫌いだったから問題ない。村上春樹の作中の登場人物的雰囲気の人間としか現実でも喋りたくないと思った。

主人公の〈僕〉は、広告コピーの仕事をしている。「二十五まで生きるの」「そして死ぬの」と言っていた誰とでも寝ちゃう女の子が二十六で交通事故で死んで、その葬式に参列した翌日、妻は何一つ残さず家から出て行った。神秘的な美しさの耳を持つ女の子と出会い、ある日、旧友の〈鼠〉から手紙が届く。〈鼠〉はどうやら北海道にいるらしい。同封されていた羊の写真。その羊の写真をきっかけに、〈鼠〉の行方を追って、星形の斑紋を持つ羊をめぐる冒険がはじまる。

なんだそれ。どんな本なの?と聞かれて、こういうあらすじなんだと一筋縄に説明できない。奇妙な話だ。しかし、この小説では主人公の周りのあらゆるものが消えていくという点だけが、とにかく一貫して描かれている。消えるのは誰かであり、誰かが所有していたものであり、風景である。

あるものは忘れ去られ、あるものは姿を消し、あるものは死ぬ。そしてそこには悲劇的な要素は殆んどない。

そのなかで主人公は凡庸であり続けようとする。彼の哲学は会話にも表れている。

「何が起こったのか、自分でもうまくつかめないだけなんだ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でもそれには時間がかかるんだ。」

凡庸さというのは一つの鈍さでもある。人は凡庸さを身に着けることによって弱さを隠すもしくは忘れるのだ。〈僕〉に関わる友人たちは、うまく凡庸を纏い続けられなかった人ばかりだ。仕事のパートナーは社会から与えらる役割を果たすためにお酒を飲み、それによって凡庸さから逸脱してしまう。〈鼠〉ではより顕著に弱さが描かれる。

「一般論はよそう。さっきも言ったようにさ。もちろん人間はみんな弱さを持っている。しかし、本当の弱さというものは本当の強さと同じくらい稀なものなんだ。絶え間なく暗闇にひきずりこまれていく弱さというものを君は知らないんだ。そしてそういうものが実際に世の中に存在するのさ。何もかもを一般論でかたづけることはできない」
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさや辛さも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」

鼠はおのれの意思で弱さを見つめているのだ。鼠はおのれの弱さを自覚している。そしてそのうえで弱さを捨てられない人間なのだ。

世界が凡庸である限り、それに合わせて凡庸であり続けなければならない。では、凡庸を纏い続けられなかった人間は、人間としてダメなのか。本書にあるのは「それも事実だ」ということだけである。消えるものも、残されるものも、どちらが悲劇というわけではないのだ。
当時、私は「変わっている」と言われることが恐ろしかった。実際のところ変わってなどいないから。社会の作る「異常」を恐れた私は、早く逃げ出したかった。しかし、逃げ出すことに後ろめたさを感じていた。立ち向かわなくてよいのか。声を枯らさないまま生きるのか。そんな戸惑いの中、出会ったこの本にあるのは、弱さというのは強さ同義で、死というのは生と同義で、この二つには何の意味もないのだという事だった。救われてしまったのだ、好きにならずにいる方が難しい。

本書を読んだのち、村上春樹の長編小説をもっとたくさん読むし、やがて世界はどんどん広がって、いろんな文学との出会いが待っていた。しかし、中学一年生のこの瞬間の私には『羊をめぐる冒険』が世界で一番だった。大人になってお酒をちびりちびりやりながら読み返していたら、もはや血肉となって本と自分の境目がわからないくらいの影響を受けていることがわかった。同じ思想と死生観を持つから付き合ったのか、それとも付き合ったから私がそうなったのかはわからない。初めての恋人ってそんなもんでしょ。
あなたも、いま、閉じ込められた小さな部屋の中で、あのときの私みたいに『羊をめぐる冒険』が全てになったらいいのに。そいで、忘れられない元彼の呪縛として、この作品に彩られたらいいのに。それくらい鮮烈で美しい、儚さをもった本なのだ。


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