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卒倒読書のすすめ 第六回 大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』

世の中が悪意に満ちたひとだけだったらいいのにとたまに思う。でも実際、私のまわりにいるのはやさしいひとばかりだから、嫌悪する人間も自分の鏡だから、たまにつらくてつらくて堪らなくなる。『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』はそういうひとたちの話だ。

主人公の七森はぬいぐるみサークルに所属している。生きていてつらいことが起こっても、そのことをしゃべったら相手は傷ついてしまうのではないか、そしてさらにそれを見た自分は傷ついてしまうのではないか。そんなふうに思って表に出すことのできない気持ちを抱えたひとたちが、このサークルではぬいぐるみに想いを打ち明けている。やさしすぎる七森は、恋愛に疑問を持っている。自分は男だから、女の子を怖がらせたり傷つけたりしているかもしれない。自分が持つ加害性、誰かに何かを押し付けること、それを自分の中で押し殺して生きていく七森は、やがて自らが深く傷ついていく。

ぬいぐるみサークルの外で七森は居心地の悪さをいつも感じている。それは悪意から来るものだけじゃなく、社会が生む居心地の悪さ。

あいつらの、僕らの言葉がどこまでも徹底的に個人的なものだったらよかった。嫌なことをいうやつから耳を塞いで、そいつの口を塞いでそれで終わりなら、まだこわさと向き合えた。でもそうじゃない。どんな言葉も社会を纏っている。どんな言葉も社会から発せられたものだ。
僕も最低で、この最低を抱えて生きていくことに酔えたらどんなに楽だろ。注意、したい。怒れるようになりたい。でも、こわいんだ。僕はただ、他のひとたちにも、自分の言動でひとが傷ついているかもしれないって気づいてほしい。

家族や友人、そういった身近なひとから垣間見える差別は、そのひとたちが悪人ではないことを知っているからこそつらい。そして、自身もそのひとたちとともに同じ社会を作る、加害性を持った人間なのだ。だから、生きることは、ひととと関わることは、とてもこわいのだ。それでも関わりたいひとがこの世の中にはいるし、どうにかして気持ちを伝えたい時だって訪れる。

僕ら、人間じゃなければよかった。心とからだと言葉が、こんなふうにずらすことのできないひとつのものだったら。

ひとは同時にたくさんの感情が浮かんでくる。悲しさ、うれしさ、嫌悪、暴力。そのなかから何かひとつを抽出して言葉にする。いちばん大きい気持ちだけを口にするわけではない。だからひどいことを言ってしまったりする。つらい時につらいって言えないし、つらいって言ってほしくても言ってもらえなかったりする。やさしさが生む誰も悪くない居心地の悪さや、もどかしさ、すれ違い。でもそれは、ぬいぐるみサークルの外にだって、ちゃんと種類の違うやさしさがあって、そのやさしさを、こちらに向けてくれているひとがいることを示している。

耳に入ってくるたくさんの悲しいニュース、周りの人の差別的発言や、ホモソーシャルのノリや、それらが絡み合う振舞いを目の当たりにしたとき、とても怖くて、つらくて、たまらなくなることが私にもある。ひとのやさしさを知っているからこそ、そんなやさしいひとでも気づくことのできない、生活に根付いた忌むべき思想があることを目の当たりにして、立ちすくんでしまう。仕返しのつもりで少し相手を傷つけてしまったし、知らないところでも、きっと傷つけている。なのにどうしてごはんを食べられるの、忘れていられるの、こどもに笑顔を向けたりできるの。
私はそんなとき川をみにいって、身投げを想像する。もちろん本当に飛び込むわけではないし、川に飛び込んだところで都合よく死ねるわけない。ただ、概念として自死してみる。この世界から離脱してみる。だれも傷つかない世界にきたと錯覚してみる。そして、そんなことを考える自分の不誠実さにがっかりしていた。
でも、この本の中ではぬいぐるみサークルの人が、私の身投げの代わりに、ぬいぐるみとしゃべっていた。この本を読んでひどく共鳴し、安心した。

きれいだ、と思うことばよりも先に目は一瞬を焼き付けている。その喜びの中で七森は、もっともっと未来に生まれたかったな、と思う。だれも傷つかないでいい、やさしさが社会に埋め込まれたもっともっと未来に。

差別的な発言や、自分が傷ついた発言に対して、それを注意出来たら一番いい。でも、その行為自体に傷ついてしまうひとだっている。そういうひとたちの居場所だってあっていい。その人たちが心を痛めて、死んでしまわないように。やさしさがやさしさじゃなくあたりまえになるように。この本は、やさしいひとたちがぬいぐるみとしゃべらなくてすむ日が来るまで、小さな逃げ場所としてひっそりと、そこに佇んでいる。



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