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卒倒読書のすすめ 第一回 エイミー・ベンダー『燃えるスカートの少女』

「痛い」という言葉では足りない、とよく思う。痛みというのは種類が多い。地獄ぐらい多い。まず、外傷的痛みもあれば精神的痛みもある。その時点で、同じ「痛い」で片付けるのはどうかと思う。
ズキズキ、チクチク、ヒリヒリ。こんな言葉を先頭につけて表現するにも限界がある。

『燃えるスカートの少女』は痛い小説だ。
読んでいて感じる、残酷でひどくさびしく、冷静ながらも繊細で優しいこの痛みを「痛い」だけで表現したくない。ヒリヒリとも違う、もっと染み込んでくるような深い痛さだ。

16の短編からなっているこの小説は、どの話の中でも不思議で奇天烈なことが起きる。突飛で不条理な出来事だらけだが、そこから感じる痛みやさびしさは、どれも現実的で生活していて感じたことがあるものばかりだ。そして登場人物たちは、この不条理に決して取り乱したりしない。淡々とさびしさや痛みを受容していく姿が、エイミー・ベンダーの鋭い言葉で綴られている。この受容こそが、人生の癒しであり美しさなのだと言わんばかりに。

『思い出す人』はこの小説の一話目。
「私の恋人が逆進化している。」という衝撃的一文からこの話は始っている。ある日突然、恋人が逆進化を始めてしまうのだ。彼女は日々、猿の、海亀の、サンショウウオの彼を、限界の線引きを考えながら見守る。世界をさびしいと思っていた彼は、彼女のさびしさそのものになってしまう。彼女は自分の頭骨に手を当てて考える。もし、この骨が拡張したとき、できた隙間を一体何が埋めるだろうかと。

『マジパン』では、父の父親が死んで一週間後、父のお腹にサッカーボールほどの大きさの穴が開いてしまう。覗き穴のように向こう側までぽっかりと。そして、こんな会話が繰り広げられる。

どこに行っちゃったんだと思う?私はたずねた。
何が、皮膚かい?と父はいった。
ぜんぶ、と私はいった。皮膚とか、あばら骨とか、胃液とかぜんぶ。
まだぜんぶあるんだと思うよ、と父は言った。ただ脇に押されているだけだろう。
かっこいいじゃない、と私はいった。父のまわりでおこなわれる、ちょっとバスケットボールみたいな新しいスポーツを想像していたのだ。

このもの悲しいおかしみは、日常のどこかで繰り広げられているものだろう。お腹に穴があいてしまった父と、その娘の間にはおそらく痛みのズレがある。しかしそれぞれにこの事実を受容しているのだ。

短編たちの中で最も強烈な痛みを感じるのはおそらく『癒す人』だろう。町に突然生まれた、火の手を持つ少女と氷の手を持つ少女。手をつないだ時だけ二人は普通の女の子になる。運命的な結びつきを感じるふたりであるが、あっさり一緒にいることをやめてしまう。同じ孤独を共有できるであろう唯一の人間であるように思えるのに、スッと関わるのをやめて、それぞれに痛みを抱える。このクールなリアリティはエイミー・ベンダーしか描けないと思う。二人が手をつないだ時、火の手の少女は「すごくほっとする」と言い、氷の手の少女は「私にはちがうな」と言う。運命的な二人ですら、その間には埋められない溝があるのだ。しかし、それぞれが抱えた痛みは、誰かを癒すものとなる。ひと同士の越えられない溝を、誰かが負ってしまった傷を癒すのもまた、痛みという優しさなのだ。

さびしさ、悲しさ、痛み。私はそういった虐げられる感情に愛着を持っている。”楽しい” というのはたまにとても暴力的だ。
生きていて、明るくしてなくちゃいけない、楽しくしてなきゃいけないと疲れちゃうこともあるでしょう。気を張って一日過ごし、ふっとソファに沈むとき、この本はきっとあなたに寄り添ってくれると思う。少しでもあなたがこの世界にさびしさを感じるなら、なおさら深く優しく、抱きしめてくれるはず。
さびしい世界に抱きしめられる心地よさ。そして、さびしい世界を受容し、逆に抱きしめ返してしまうような尊さが、この本には満たされている。


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