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はじかれたボールはその後、ネットのどちら側に落下するのか

だいたい今の私の状態。

ジョジョの奇妙な冒険(私の聖典)「スティール・ボール・ラン」にはこんな言葉が出てくる。

テニスの競技中、ネットギリギリにひっかかって、はじかれたボールはその後、ネットのどちら側に落下するのか…? 誰にもわからない。そこから先は「神」の領域だ。どちら側に落下するのか?……それは無限の領域。父親の今現在の価値観で選ばせるのか? 彼に知らせるな……彼は何も知らない方がいい。
だから、おまえが選べジャイロ。これがツェペリ一族の……「役割」であり「宿命」だ……。

荒木飛呂彦『スティール・ボール・ラン』

症状が出てから1年半ほど、私もネットに弾かれたボールを見ている感じだ。
正確な病名がつかない僕にできることは多くない。

毎日薬を飲み、そこそこストレッチをし、日常生活を送る。

その間にも理由もわからず徐々に体が動かなくなり、真綿で首を締め付けられるような心境というのは、こういうことかもしれないと思ったりする。

自分に残された時間は有限である(誰しもそうだけど)ことを、否応なく身体が教えてくれる。

中島敦の山月記にある有名な一節は持病だったという喘息と併せて考えるとわかりみが深い。

理由もわからずに、押し付けられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずに生きてゆくのが、我々生き物のさだめだ。

中島敦『山月記』

もしかしたら僕は、あと3〜4年もしたら寝たきりになって、この世からいないかも。

昔、長男がまだ保育園にいた頃、「僕、いつかパパとママと離れて暮らすの?僕ずっとずっと三人一緒がいいなあ」と笑って言っていた。僕はとても嬉しくて「パパもそう思う」と抱きしめた。一生忘れないと思ってたけどその約束、ずっとはやく破っちゃうかもしれない。

でも「パーキンソン病は天寿を全うできる病気です」という(ちょっと変な)言葉があるが、その通りに僕は人並みに?長生きするかもしれない。

今の僕には(現代の医学でも)そのどちらかわからない。あるいはわかっても出来ることは大して変わらないのかもしれない。

しかし、それこそジャイロが言うように「納得は必要」だ。

マイケル・ J ・フォックスはパーキンソン病について「この病気の残酷なところは、徐々に自分らしさを奪っていくことです」と言っていた。

今は比較的自分を保っていると思うけど、何にせよ治らない病気なことは変わりないから、いつまでもそうはいかないかもしれない。

子供達には大変申し訳ないが、多分僕がいなくても大丈夫だと考えたりする。息子も娘も芯が強い。

でもそんな心配もいらないのかもしれないし、杞憂だったと鼻で笑えるのかもしれない(いや、鼻で笑うのは難しいかもしれないが)。

でも何も考えずにいるわけにもいかない気もする。

テニスボールはネットの上で、ふわふわ浮いたままだ。

この社会と人の心の中のありようには限界点がある…
「死刑制度」「延命」 それは矛盾した特異点なのだ
我々ツェペリ一族は社会のその考えに立ち入ってはならない
それが我々一族の役割…………
ネットにはじかれたボールなのだ
だが ツェペリ一族は『奇跡』の存在も信じている
『奇跡』が起こる事を祈ろう
ボールがネットの向こう側に落ちる事を……

荒木飛呂彦『スティール・ボール・ラン』

死刑制度と延命とは、その漫画を形成する価値観を反映させた象徴的なもので、その時代に生きる彼らの宿命について物語の中でぜひ皆様にも体験していただきたい。

特にクライマックスで主人公ジョニー・ジョースターが迫られる「選択」は圧巻です。

と、なぜかジョジョを推す話になってしまった。

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