キャリア・クラッシス ③徳川秀忠
◆シリーズコンセプト
前回記事→キャリア・クラッシス ②豊臣秀長
noteで様々な知見を頂いている千世さんが徳川秀忠(以下、秀忠)のほか、戦国2世武将について記事にされてますので、ぜひご一読ください☆
初期 葵紋(画像引用元)
【歴史×キャリア】というコンセプトで、現代の私達のキャリア形成の参考にするのが目的です。
秀忠については、近年の研究が進んだことで『凡庸な二代目』から『次代への基礎を作った二代目』という評価に変わりつつあります。
とはいえ、家康を信奉するあまり極端な性格や行動が目立ってしまい、映像作品ではコミカルに描かれることもあります。
結論
1.レポート目的
2.秀忠の経歴について
秀忠の経歴を下図にまとめました。
1615年の大阪夏の陣までは家康が存命だったこともあり、主に武将として働くが失態も多く、功績は少ないです。
逆に1616年に家康死後から将軍親政を開始すると政治家へ大きく舵を切っています。以降は、諸制度を整え、幕府の組織強化に努めるなどの多くの功績を残しています。
3.秀忠の人物像、能力について
秀忠は、父家康と息子家光がクローズアップされる事が多く、あまり評価されていない印象があります。
近年の研究により、二代将軍となり、家康にコントロールされながらも幕府体制を確立した「影の功労者」という評価もあります。
秀忠は、どういった志向・性格だったのか参考文献からまとめてみました。
(1)参考 百瀬明治「徳川秀忠~徳川政権の礎を築いた男~」より
(2)参考 河合敦「二代将軍・徳川秀忠~忍耐する凡人の成功哲学~」より
4.キャリア分析
徳川幕府による大名統制を表す例として「武家諸法度」等にもとづく改易や取り潰しが引き合いに出されます。
江戸時代に取り潰された大名は248家(外様127、一門・譜代121)ありました。
これを家光が中心に行われたというイメージがありますが、実際は、家康・秀忠・家光の三代においては131家でした。
そのうち秀忠が処分したのは41家(全体比16.5% 三代比31.3%)もあり、果断に執政したことがわかります。
ここまでの内容から家康の三男であり、関ケ原遅参など世評の低い秀忠への疑問は、
①なぜ二代将軍になれたのか?
②家康から期待されていたことは何か?
③継承者として成果を出せるポイントは何か?
という点です。そこで、秀忠を題材にした他の著作からも引用しつつ、次項にてキャリア分析を試みたいと思います。
(2)参考 童門冬二「小説 徳川秀忠」より
①なぜ二代将軍になれたのか?
・長男信康は後継者の最有力候補だったが、織田信長より謀反の疑いで切腹させられた
・次男秀康は武勇に優れていたが豊臣秀吉の命により結城家へ養子に出されていた
・秀忠より下の弟たちは元服して数年しか経たず、戦さの経験も少なかった
・関ケ原の戦い後、家康は有力家臣を集めて後継者の検討をした結果、次男秀康に並んで三男秀忠にも推挙があった
②家康から期待されていたことは何か?
・当時は長子相続がまだ確立しておらず、子供の資質をみて親が判断していた
・秀忠は武功は少ないが、実直で家康がコントロールしやすかった
③継承者として成果を出せるポイントは何か?
・家康の側近政治に対して、秀忠は複数の家臣団(江戸年寄)による合議政治を行った
・秀忠は権大納言、従二位に補任されるなど朝廷(外部)との折衝ができた
・二代目となった秀忠の最優先の達成目標は幕府権威、将軍権力の強化であった
(3)参考 小和田哲夫「徳川秀忠~凡庸な二代目の功績~」より
①なぜ二代将軍になれたのか?
・豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、家康は福岡の名護屋城に詰め、秀忠が江戸城に残って留守を守った
・更に翌年の江戸城で行われた徳川家家臣による年始の挨拶を秀忠がうけるなど、家康から信頼されていた
②家康から期待されていたことは何か?
・家康が江戸~京都の東海道の宿を設定したあと、秀忠がさらに東海・中山・北陸の三道に一里塚を整備し、近世東海道が成立した
・諸大名を統制すべく一国一城令・武家諸法度・禁中並公家諸法度を発し、さらに五山十刹諸山法度により諸社寺にも法制を布いた
③継承者として成果を出せるポイントは何か?
・幕府の天領からの年貢が江戸に収められるようになり、翌年に駿府にあった銀座が移される(現在の東京銀座)など政治の中心を江戸にした
・禁教令によりキリシタン勢力の牽制と海外貿易の統制を行い幕府の利益を拡大した
・朝廷の懐柔策として娘和子を入内させ外祖父の地位を得た
・有力外様大名だけでなく徳川一門であっても改易した
・弟を尾張・水戸・紀州の大名に取り立て御三家を興して江戸の守りを強化した
5.キャリア考察
これまで見てきた経歴などをもとにキャリアコンサルタントの視点から、秀忠の興味・能力・価値観などをまとめてみたいと思います。
6.総括
・秀忠のキャリアにおいて「関ヶ原遅延」は最大汚点(トラウマ)だったと考えられます。
逆に、家康はなぜ秀忠を関ヶ原に最短で行ける東海道ではなく、敵方(真田ほか)のいる東山道(中山道)を行かせたのか気になりました。
これは、おそらく家康の親心だったと想像します。
・継承者の大前提は、すぐに改革をおこすのではなく、メンバーとの信頼関係を構築しつつ、前任者の施策をまずは踏襲することが肝要です。
・継承者は、前任者が優秀で一人で取り仕切っていたとしても、最初は同じスタイルでやってみて、徐々に自分の能力に適したリーダーシップを発揮すればよいのです。
・継承者は、組織の成熟状況やメンバーの習熟度にあわせて施策を拡大または改善を図り、組織の更なる安定を目指すべきです。この施策の成功がメンバーからの信頼向上と、その後のスムーズな運営にも繋がると考えられます。
・継承者は、前任者の施策が完遂できた頃に、独自の施策を少しずつ実行すれば組織は大きな混乱もなく発展できます。
○「メンタルヘルス」の観点から、秀忠は武功の少なさという武家社会では致命的なトラウマを抱えつつ、将軍後継者として外様大名と渡り合うプレッシャーと戦っているように見えます。
しかし、「ストレスマネジメント」のうち、家康死後に家臣団や運営体制を変えることで一次予防を実践しました。
さらに、天海僧正や御伽衆(歴戦の武将)などを相談役につけることで、三代家光に将軍を引き継ぐことに成功したと思われます。
最後に
秀忠は、「恐妻家」といわれて側室を持たなかったことでも
有名ですが、二代将軍という重圧の中、パートナーの理解や
支援は、ひとりの人間として欠かせないはずです。
加えて、秀忠の生母である西郷局は、家康の側室でした。
「自分は本筋の子ではない」という負い目が少なからず
あったので、そういう子を不憫に思って、独自の育児
プランを考えていた可能性もあります。
あまり趣味らしいものが無かったので、本当に江姫との
信頼関係が深かったと考えられないでしょうか?
(純愛説)
その証拠に江姫とは3男4女をもうけるなど、家族との時間が
活力になっていたのかも知れません★
以上
参考文献
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