キャリア・クラッシス ③徳川秀忠
◆シリーズコンセプト
前回記事→キャリア・クラッシス ②豊臣秀長
noteで様々な知見を頂いている千世さんが徳川秀忠(以下、秀忠)のほか、戦国2世武将について記事にされてますので、ぜひご一読ください☆
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初期 葵紋(画像引用元)
【歴史×キャリア】というコンセプトで、現代の私達のキャリア形成の参考にするのが目的です。
秀忠については、近年の研究が進んだことで『凡庸な二代目』から『次代への基礎を作った二代目』という評価に変わりつつあります。
とはいえ、家康を信奉するあまり極端な性格や行動が目立ってしまい、映像作品ではコミカルに描かれることもあります。
結論
・秀忠のキャリアにおいて「関ヶ原遅延」は最大汚点(トラウマ)だったと考えられます。①家康の期待に応えられなかった事 ②関ヶ原の戦いに遅参して家康に恥をかかせたこと
これを文治において覆すべく戦いつづけた人生だったように思います。
・逆に、家康はなぜ秀忠を関ヶ原に最短で行ける東海道ではなく、敵方(真田ほか)のいる東山道(中山道)を行かせたのか?おそらく家康の親心だったと想像します。
・継承者の大前提は、すぐに改革をおこすのではなく、主要メンバーや部下との信頼関係を構築しつつ、前任者の施策をまずは踏襲することが肝要です。
1.レポート目的
・以前、プロジェクトのリーダーに任命されたが、前任者から引き継ぐ中で感じた改善点と前年内容を踏襲するバランスの難しさを感じた。こういった場合の対応のヒントを得るため
・キャリア形成は自己実現・自己成長に向けて取り組むことが多いが、二代将軍に就いた秀忠のように役割が固定化されつつある「継承者」の場合は、どのような心構えでいたのかについて興味が湧いたため
・家康と家光の評価に対して秀忠は低く位置づけられることがあるが、本当はどうだったのか知りたくなったため
2.秀忠の経歴について
秀忠の経歴を下図にまとめました。
1615年の大阪夏の陣までは家康が存命だったこともあり、主に武将として働くが失態も多く、功績は少ないです。
逆に1616年に家康死後から将軍親政を開始すると政治家へ大きく舵を切っています。以降は、諸制度を整え、幕府の組織強化に努めるなどの多くの功績を残しています。
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3.秀忠の人物像、能力について
秀忠は、父家康と息子家光がクローズアップされる事が多く、あまり評価されていない印象があります。
近年の研究により、二代将軍となり、家康にコントロールされながらも幕府体制を確立した「影の功労者」という評価もあります。
秀忠は、どういった志向・性格だったのか参考文献からまとめてみました。
(1)参考 百瀬明治「徳川秀忠~徳川政権の礎を築いた男~」より
・関ケ原遅参の弁解を榊原康政ら重臣が取りなした
→直属の部下からは人望がある?
・上田城攻めに失敗するも総合戦略として天下分け目の戦いに寄与するよう切り替えた
→目標を柔軟に変えられる性格?
・二男秀康のほうが豪毅果断で将器があり、上杉方を押さえる役目を果たすなどが評価
これに対し、秀忠は肉体的に壮健、謙遜恭倹、石橋を叩いて渡る慎重さ、家康の言いつけによく従い実直な性格
→武将よりもマジメな文官タイプだった?
・乳母である大姥の局が、白黒をはっきりさせ、公私を混同せず、慈愛にあふれながらも厳しく接した
→けじめ、節度を重んじる考えが幼少期に定まった?
・公然と複数の側室をもつのが当時の慣例だったが、生涯に一人も側室を持たなかった
→純愛?無欲?女性が苦手?
・家康の傀儡将軍に甘んじず、かといって表立って反抗することもなく、冷徹になすべきことをなし、力を蓄えることに努めた
→面従腹背?陰で努力するタイプ?
・遺体の記録では身長155~158cmで日本人の平均身長と同じ。
身体的特徴は大腿骨稜(太もも)が強く隆起し、脛骨(すね)の発達もすぐれていた
→家康同様、鷹狩などを好んだ?
・家康を信奉し、言いつけをよく守った
→父家康を尊敬し、ロールモデルにしていた?
(2)参考 河合敦「二代将軍・徳川秀忠~忍耐する凡人の成功哲学~」より
・物事に動じない性格
→13歳のころ侍臣に書を朗読していると牛が乱入してきたが、そのまま勉強を終えた
→能楽を鑑賞している時に大地震が起こった。秀忠は「屋根も崩れていないし、柱も倒れていない」と平然としていた
・人の好き嫌いが激しかった
→好きな物は徹底的に愛し、嫌いな物は容赦なく潰した。家康のように清濁併せのみ、たとえ気に喰わぬ奴でもうまく用いたり、泳がせておいたりする度量の広さはなかった
・歴戦の猛者から政治を学んだ
→藤堂高虎や立花宗茂のような名将をつねに手元に置き、彼らから謙虚に学んだ
・織田信長から人事革命を学んだ
→秀忠がもっとも尊敬していた人物は織田信長だった。そのため明智光秀の謀反を非難しつつ
「人を従わせることを好み、人に仕えることを嫌ったため、本能寺の変を誘発してしまったのだ」と主張している
・実直すぎるがゆえの逸話
→いったん決めたことは何があっても貫き通す。例えば明日いついつまでに鷹狩に出発するとお触れを出したとする。すると食事中であっても定刻になれば箸を投げ出して出発した
・秀忠が家光に残した遺言
→晩年、病気になっても毎日身なりを整えて政治の話を聞き「政治のことを1日でも聞かないと、気になって気分が悪い。政治に大小はない。天下の主たるものは、死に至るまで政治をとる義務があり、それが私の本意だ」
4.キャリア分析
徳川幕府による大名統制を表す例として「武家諸法度」等にもとづく改易や取り潰しが引き合いに出されます。
江戸時代に取り潰された大名は248家(外様127、一門・譜代121)ありました。
これを家光が中心に行われたというイメージがありますが、実際は、家康・秀忠・家光の三代においては131家でした。
そのうち秀忠が処分したのは41家(全体比16.5% 三代比31.3%)もあり、果断に執政したことがわかります。
ここまでの内容から家康の三男であり、関ケ原遅参など世評の低い秀忠への疑問は、
①なぜ二代将軍になれたのか?
②家康から期待されていたことは何か?
③継承者として成果を出せるポイントは何か?
という点です。そこで、秀忠を題材にした他の著作からも引用しつつ、次項にてキャリア分析を試みたいと思います。
(2)参考 童門冬二「小説 徳川秀忠」より
①なぜ二代将軍になれたのか?
・長男信康は後継者の最有力候補だったが、織田信長より謀反の疑いで切腹させられた
・次男秀康は武勇に優れていたが豊臣秀吉の命により結城家へ養子に出されていた
・秀忠より下の弟たちは元服して数年しか経たず、戦さの経験も少なかった
・関ケ原の戦い後、家康は有力家臣を集めて後継者の検討をした結果、次男秀康に並んで三男秀忠にも推挙があった
②家康から期待されていたことは何か?
・当時は長子相続がまだ確立しておらず、子供の資質をみて親が判断していた
・秀忠は武功は少ないが、実直で家康がコントロールしやすかった
③継承者として成果を出せるポイントは何か?
・家康の側近政治に対して、秀忠は複数の家臣団(江戸年寄)による合議政治を行った
・秀忠は権大納言、従二位に補任されるなど朝廷(外部)との折衝ができた
・二代目となった秀忠の最優先の達成目標は幕府権威、将軍権力の強化であった
(3)参考 小和田哲夫「徳川秀忠~凡庸な二代目の功績~」より
①なぜ二代将軍になれたのか?
・豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、家康は福岡の名護屋城に詰め、秀忠が江戸城に残って留守を守った
・更に翌年の江戸城で行われた徳川家家臣による年始の挨拶を秀忠がうけるなど、家康から信頼されていた
②家康から期待されていたことは何か?
・家康が江戸~京都の東海道の宿を設定したあと、秀忠がさらに東海・中山・北陸の三道に一里塚を整備し、近世東海道が成立した
・諸大名を統制すべく一国一城令・武家諸法度・禁中並公家諸法度を発し、さらに五山十刹諸山法度により諸社寺にも法制を布いた
③継承者として成果を出せるポイントは何か?
・幕府の天領からの年貢が江戸に収められるようになり、翌年に駿府にあった銀座が移される(現在の東京銀座)など政治の中心を江戸にした
・禁教令によりキリシタン勢力の牽制と海外貿易の統制を行い幕府の利益を拡大した
・朝廷の懐柔策として娘和子を入内させ外祖父の地位を得た
・有力外様大名だけでなく徳川一門であっても改易した
・弟を尾張・水戸・紀州の大名に取り立て御三家を興して江戸の守りを強化した
5.キャリア考察
これまで見てきた経歴などをもとにキャリアコンサルタントの視点から、秀忠の興味・能力・価値観などをまとめてみたいと思います。
(1)興味
・父家康を尊敬し、その意向や期待に応えること
・父家康への尊敬が強すぎるが故に彼の行動に大きく影響していると思われる
・父家康から引き継いだ幕府の強化をすることが自分の使命だと考えて行動していた
・晩年、家光に遺した言葉にある「政治のことを1日でも聞かないと、気になって気分が悪い」などから、将軍執務を重視していた
(2)能力
・部下の疲弊も厭わず進軍速度を見誤るなど目的を重視し過ぎる面あり
・身体的特徴から鷹狩などの運動を好んだ
・法度や仕組みを管理・運用する能力が高かった
・複数の家臣から意見を聞き、まとめるのが上手かった
・銀座の移設、海外貿易の統制など、経済への理解度が高かった
○「ホランド理論」における
C(慣習的:情報を明確に秩序立てて整理できる活動を好む。組織的、事務的、責任感、緻密)
R(現実的:道具、物、機械、動物などを扱うことを好む。組み立てや修理にかかわる職業を好む。地に足がついて実践的)の傾向がみられる
(3)価値観
・自分に期待し、任せてくれる父家康に精一杯、奉公したかった
→上田城攻めは当初家康からの指示だったので攻略にこだわった?
・有力な外様大名が多い中で徳川幕府を安定させることに心血を注いだ
→死後、家康と再会した時に𠮟責されるのを恐れて将軍執務に邁進した?
・武功も少なく、関ヶ原遅参をしている自分には将軍の威光が足りない事を理解していた
→個ではなく組織で動いた。藤堂高虎や立花宗茂のような名将から謙虚に学でいた
○「L・サニー・ハンセン理論」のうち「統合的人生設計」(個人や家族のニーズでだけをかんがえるのではなく、地域社会や世界的なニーズまでも考えにいれる)を実践している
○「社会認知的キャリア理論」のうち、「武家社会かつ家康の後継者」という枠組みの中で、①家康から評価されること、②徳川幕府を強化することが最大の自己効力感につながっていたと思われる
○「8つの意思決定のスタイル」のタイプ類型では、家康が存命中は「従順型スタイル」だが、家康死後は「計画型スタイル」のような行動がみられた
6.総括
・秀忠のキャリアにおいて「関ヶ原遅延」は最大汚点(トラウマ)だったと考えられます。
逆に、家康はなぜ秀忠を関ヶ原に最短で行ける東海道ではなく、敵方(真田ほか)のいる東山道(中山道)を行かせたのか気になりました。
これは、おそらく家康の親心だったと想像します。
※例えると、創業社長(家康)が、大学院卒の息子(中納言 秀忠)を入社させました。
ただ、古参の取締役や部長たちとの信頼関係を作る必要があります。
そのためにも『プロジェクトリーダー』としての経験と、小さくても良いから『成功実績』を積ませたかったのではないでしょうか。
・継承者の大前提は、すぐに改革をおこすのではなく、メンバーとの信頼関係を構築しつつ、前任者の施策をまずは踏襲することが肝要です。
・継承者は、前任者が優秀で一人で取り仕切っていたとしても、最初は同じスタイルでやってみて、徐々に自分の能力に適したリーダーシップを発揮すればよいのです。
・継承者は、組織の成熟状況やメンバーの習熟度にあわせて施策を拡大または改善を図り、組織の更なる安定を目指すべきです。この施策の成功がメンバーからの信頼向上と、その後のスムーズな運営にも繋がると考えられます。
・継承者は、前任者の施策が完遂できた頃に、独自の施策を少しずつ実行すれば組織は大きな混乱もなく発展できます。
○「メンタルヘルス」の観点から、秀忠は武功の少なさという武家社会では致命的なトラウマを抱えつつ、将軍後継者として外様大名と渡り合うプレッシャーと戦っているように見えます。
しかし、「ストレスマネジメント」のうち、家康死後に家臣団や運営体制を変えることで一次予防を実践しました。
さらに、天海僧正や御伽衆(歴戦の武将)などを相談役につけることで、三代家光に将軍を引き継ぐことに成功したと思われます。
最後に
秀忠は、「恐妻家」といわれて側室を持たなかったことでも
有名ですが、二代将軍という重圧の中、パートナーの理解や
支援は、ひとりの人間として欠かせないはずです。
加えて、秀忠の生母である西郷局は、家康の側室でした。
「自分は本筋の子ではない」という負い目が少なからず
あったので、そういう子を不憫に思って、独自の育児
プランを考えていた可能性もあります。
あまり趣味らしいものが無かったので、本当に江姫との
信頼関係が深かったと考えられないでしょうか?
(純愛説)
その証拠に江姫とは3男4女をもうけるなど、家族との時間が
活力になっていたのかも知れません★
以上
参考文献
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