組織ブレーキの難しさ
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日本は国家的なプロジェクトが始まって、変更や中止すべき事象があらわれた際、一度止まって、広く議論・検討することができないのが弱点です。
コロナ対応でも病床増設、医療者ケア、治療薬認可、給付金、自衛隊への救援要請などが従来の法令・規制・業界慣習に阻まれて後手後手に回りました。これにより助かるはずの命が多く失われました。
現在も初期コロナ対応からの移行が遅れており、世界経済への回復軌道に乗り遅れてます。経済回復の遅れは、賃金と消費の停滞にも繋がります。。。
このように、日本は、最初の計画立案にエネルギーを費やし、そこに拘るあまり、考慮すべき情報があっても個人の判断で無視したり、責任者が決断できなかったり、組織ブレーキを掛けるのが不得手ともいえます。
さらには、意思決定をする立場の人間が組織内の雰囲気に左右されるのです。
1942年12月の日米開戦は、外交上の問題から避けられなくなり、もともと対米戦を想定していた海軍が主導でした。
陸軍はソ連を睨みつつ、日中戦争の泥沼にハマって余力がなく、対米戦には消極的だったといわれます。(諸説あり)
この時点で陸海軍が協働していたら、中国大陸はもちろん、後の悲劇が起きるアッツ島やサイパン島、ガダルカナル島、沖縄諸島などの戦況が変わっていたかも知れません。
当時の日本海軍は「艦隊決戦」を主戦略としていた事もあり、必然的に連合艦隊(※)司令長官である山本五十六氏(以下、山本長官)が対米戦の実務責任者となります。
※連合艦隊とは
※連合艦隊司令長官とは
そして、運命の【1941年12月8日(ハワイ日時12月7日) 真珠湾攻撃】の日を迎えます。
真珠湾攻撃の是非をふくめ、山本長官の評価は「英米通」、「山師」など大きく分かれます。
実際は、負けず嫌いという性格、相手の心理を読む頭脳など、優れた軍人であるのは確かです。
個人的に山本長官(※)は、「英米通」であるが故に、強大すぎる英米と戦うため「山師」にならざるを得なかったのだと思います。
※山本長官について
山本長官は、様々な資料で「軍人である以上、開戦となったら戦わなくてはいけない。1~2年は暴れてみせるが、その後のことは自信はない」という趣旨の悩みを吐露していた事が確認されています。
駐米海軍武官時代にニューヨークの喫茶店で、米国の資源を少しでも浪費しようと、砂糖をたくさん使ったというエピソードもありますね。
また、家族や部下想いで情が厚く、「やってみせ、言って聞かせ、、、」の素晴らしい訓示も遺されました。きっと、平和な時代なら教育者として成功していたかもしれません。
山本長官は、もう一つの運命の日【1943年4月18日 南太平洋のソロモン諸島・ブーゲンビル島】にて移動中、米軍機の襲撃に遭い搭乗機が撃墜(※)され、のちに死亡が確認されます。
※海軍甲事件
この撃墜事件は、予期されていたなど諸説ありますが、あえて危険に接する行動に出たのは、山本長官なりの部下や日本への「終戦のメッセージ」だったと考えます。
これは偶然かもしれませんが、多くの人に熱狂的に愛された西郷隆盛氏と共通している部分が多いと感じます。
西郷隆盛氏の場合、城山の決戦にて割腹したことで停戦し、薩軍は降伏しました。
しかし、山本長官の死後も太平洋戦争は続き、あとは史実の通りです。。。。
別の視点では、本当は1940年にも「東京オリンピック」が予定されていたそうです。
もし、ここで停戦して戦略を見直したり、「平和の祭典」を開催できていたら、どのように日本の歴史が変わったのか別の機会に妄想したいと思います。
ただ、世界的な「大艦巨砲主義」の流れには逆らえず、大和だけは建造されたでしょう。
そして、日本が大敗せずに戦争を終えられたら、大和は戦争遺構の一つとして、現在まで保存されたかも知れません。
それこそ、呉に係留されて大和自身が「ミュージアム」となっていたり、もしくは横須賀にて、日露戦争で活躍した「戦艦三笠」と並んで展示されたかもです☆
組織を動かすにも、止めるにも膨大なエネルギーが必要です。個々人の想いが重なればコントロールは難しいです。ならばより一層、「意思決定のルール」を明確にし、「組織にブレーキ」をかけれるようにしなければなりません。
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