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「登場」を反復する人物たちーオタール・イオセリアーニの映画

オタール・イオセリアーニ映画祭

チネ・ラヴィータで先週からはじまった「オタール・イオセリアーニ映画祭」に日参しています。

ジョージア出身で今年89歳になるイオセリアーニの作品をまとめて見てみると、この作家の特異性と普遍性とに、本当に驚かされます。

今回の特集は、短編含め監督作全21作品を上映するという大変貴重な機会なのですが、ひとまず自分の感想として、イオセリアーニの映画がどうしてこんなに面白いのかあらためて考えてみました。

「いつ終わってもおかしくない」映画

イオセリアーニを見ている時はいつも「この映画はいつ終わってもおかしくない」という感覚とともに見ています。

もしかしたらここで終わるのだろうかと思ったが終わらない、ということがずっと繰り返されていくうちに、この映画は本当にこのまま終わらないのかもしれないという気持ちになってきます。

しかし、もちろんそんなことはありえません。
だから実際に映画が終わった時、それまで一度も映画が終わっていなかったという、当たり前の事実に愕然とすることになるのです。

イオセリアーニの映画では、ある場所にある人があらわれ、また別の場所に誰かと誰かがあらわれ、去っていき、他の場所に先ほどのある人がまたあらわれ、別の場所へ行って他の誰かと出会う、といったことが繰り返されます。

カフェに、屋敷に、工場に、ヴェニスやアフリカに誰かがあらわれる。酔っ払いやホームレス、ブルジョアやピアニスト、子供や娼婦、黒人やアジア人、時には鳥や犬など、そういった多種多様な人物たちの登場と退場がひたすらに反復されます。

彼らはピアノを弾いたり、歌ったり、強盗をしたり、喧嘩をしたり、逆立ちをしたりするけれど、しかし何かを積み上げてひとつの大きな物語を語るというよりは、明確なストーリーのないまま、ワンシーン、ワンシーンがそれぞれ一つの小さな映画のようになっています。

だからさしあたってイオセリアーニの作品は、なによりもまず登場人物が文字通り「登場する」ことの映画であると言えるでしょう。

どんな映画でも起こっている「登場」というごくありふれた現象を、ここまで徹底的に突き詰めた作家は他にいないだろうと思います。

映画にとって「登場」とは何か

しかし、そもそも映画において「登場する」とは、一体どういうことなのでしょうか。

これはあまりにも当たり前過ぎて逆に難しい問題のような気もしますが、まず、ある物語において「登場する」とは、なによりも「再び」登場するということです。
つまり、一度出てきた人がもう一度出てきたとき、その人は単なる人物ではなく「登場人物」になる、ということです。

登場人物は、一度目ではなく、二度目にスクリーンにあらわれたときに、初めて「登場」する。
逆に言えば、一度しか出てこなかった人物は単なる「人物」であり、物語にとってはひとつの背景のようなもので、必ずしも「登場人物」ではないでしょう。

そして、三度目、四度目、五度目……に出てくるとき、その人は「すでに登場した人物」として存在し、「登場」はどんどん過去の出来事になっていきます。

しかし、ことイオセリアーニにあっては、事態は少し違って見えます。
人物が何度出てきても、彼はその都度新たに「登場」している、というような感覚があるのです。
そのことには、さきほど書いたように、一つ一つのシーンがそれ自体一個の小さな映画のようなものだ、ということも関係していると思います。

つまり、ある人物が、三度目、四度目、五度目……スクリーンに現れるとき、彼は、二回目の「二度目」、三回目の「二度目」、四回目の「二度目」として(再び)「登場」することを繰り返すのです。

彼が何度スクリーンにあらわれても、それはn回目の「二度目」、つまり彼が登場人物になる「初めて」の反復であるように、私には感じられます。

それは物語の構造に回収されることのない、以前スクリーンにあらわれたという事実以外に何物をも背負うことのない「登場」であり、彼らは常に「先ほど出てきてまた現れたがもう出てこないかもしれない人物」として存在しているのです。

「もう出てこないかもしれない」というのは、何度も「二度目」を繰り返すということによって、「もう一度あらわれること」と「もう二度とあらわれないこと」に、大きな違いがなくなっていくということです。

何か大きな終極のために、物語の都合に付き合わされる必要のない「ノンシャラン」とした人々は、いつスクリーンにあらわれてもよいし、同時に、もうあらわれなくてもよいのです。

そしてこのような、物語を重く背負うことのない軽快さが、イオセリアーニの映画を「いつ終わってもおかしくない」ものにしているのでしょう。

反復される「登場」

人物が、何度でも新たに「登場」を反復すること。
この点にこそ、イオセリアーニの映画が持つ、縦にストーリーを積み上げていく仕方ではなく、横方向へ流れ続けていく漂流者的な身軽さがあります。

つまりイオセリアーニとは、人物と映画の関係性の最小単位である「登場」を繰り返すことで、横へ横へとどこまでも滑り続ける運動のことではないでしょうか。
それは一種の遁走曲、もしくはサーフィンのようなものです。

そこには「いつ終わってもおかしくない」映画が、実際に終わることの奇跡があります。そんな映画の喜びを与えてくれるのは、イオセリアーニをおいて他にはありません。

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