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”家族”をぶっこわせ「ベイビーブローカー」

このエッセイは一部ネタバレを含みます。


「ソヨンは自首するよ。おまえも親になればわかるよ。」

赤ちゃんを売る職業「ベイビーブローカー」のサンヒョンが、同胞のドンスにかける言葉だ。定期的に子どもに会える。そうわかっていたら、たとえ法を犯したとしても、自首するだろう、というのだ。

東野圭吾『祈りの幕が下りる時』を思い出す。ひとめだけでも子どもに会いたい。生きているのか、元気なのか、食べるのに困っていないか。言葉を交わすことがかなわないなら、遠くからちらっと見るだけだってかまわない。親の「会いたい」願いはそれほど痛切なものなのだ。

でも、ソヨンが自首した理由は、たぶん「子どもに会えるから」じゃない。

このまま自首しなかったら、息子はお金持ちの夫婦にもらわれていく。自分の存在はなかったことになる。犯罪者の母親より、経済力豊かで慈愛に満ちあふれた両親のほうがずっといい。子どもにとっては、家庭環境がすべてなのだから。

…ということを、否定したかったのではないだろうか。





児童養護施設に育ったドンスが、ベイビーブローカーに手を染めているのは、実入りがいいこともあろうが、施設じゃないところで育つのが幸せだと信じているからだ、多くの子どもを両親がそろう家庭に届けて、そうして幸せにしてやりたいんだ。

しかし、「ふつう」の「家族」がほんとうに、一番幸せなんだろうか。





サッカー選手になれたのなんて一人だけ、施設出身で成功している人なんてほとんどいない、と職員が話すシーンがある。でも、幸せって、成功することじゃない。べつになにかで成功しなくても、幸せにはなれる。

逃亡中のシーンはどれも、幸せそのものだ。遊園地の射的で小学生のように盛り上がる。当番制で、たのしく赤ちゃんのお世話をする。洗車中にびしょぬれになって、みんなで大笑いする。

幸せは日常のふとした瞬間だ。そして「家族」から感じなくたっていいのだ。





先月の安倍元首相銃撃事件の犯人のことが、なんとなく頭から離れない。「宗教に傾倒する母親に耐えられない」「お金がない」とだれかに泣きついたことも、もしかするとあったかもしれない。でもきっと、そのたびに、育ててくれたおかあさんなんだから…、家族なんだから…、と片付けられてきた。

わたしたちは「家族」に依存しすぎていたんじゃないか。

子どもはかわいい。親は尊い。

しかし、それだけで、すべてを相殺するのはムリなのだ。

追いつめられての介護殺人。ワンオペを苦にしての虐待や子殺し。障害をもつ子との一家心中。ぜんぶ、「家族なんだから」と、表面張力ギリギリまで、つらい感情を殺してきてしまった結果だ。





アメリカでは、I'm adopted(わたしは養子です)という自己紹介は一般的だときく。そう、うまくいっしょに暮せないなら、離れたって、全然いい。

旧来の「家族」をぶっこわして、血のつながりがない人と生きていくほうが、これからの時代は幸せになれるかもしれない。

ブーメランに頭をかちわられる可能性はゼロではない。もしかすると、そう遠くない将来、娘に「おかあさんとはもういっしょにいたくない」と告げられるかもしれない。だって、血縁なんてたいしたことではないのだから。そして、彼女は自らの意思でこの家庭を選んだわけではないのだから。

でも、そのときまで。

宇宙のふしぎなめぐりあわせに感謝しながら、いっしょに暮らそう。

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