第4回おまけ【晋の文公の年齢考察】

 今回は引用が多めなので、漢文アレルギーの方はご注意ください。

シルバー世代の星?

 中国でも日本でもしん文公ぶんこうは人気のある歴史上の人物です。作家の宮城谷みやぎたに昌光まさみつ先生の代表作『重耳ちょうじ』はそのままズバリ晋の文公・重耳が主人公の歴史小説です。
 一般的なイメージとしては、苦労に苦労を重ね、19年という長い放浪生活の末に60歳を越えて君主になったという大器晩成の代表格といったところでしょう。
 高齢のイメージが強い晋の文公ですが、この時代、せい桓公かんこうや宋の襄公、秦の穆公等一国の君主であっても具体的な年齢に言及された記述はあまりありません。しかし、晋の文公については『史記 晋世家』に次のような記述があります。

「献公即位,重耳年二十一」
(晋の)献公けんこうが即位し、重耳の年は21だった
『史記 晋世家』

「重耳出亡凡十九歳而得入,時年六十二矣」
重耳は亡命して19年で帰ってきて、この時年は62だった
『史記 晋世家』


 晋の献公の即位が紀元前676年で、晋の文公の即位が紀元前636年です。このことから重耳は紀元前697年に誕生したという計算になります。日本語版Wikipediaにも重耳の生年は紀元前697年としています。

姉弟の年齢

 ここで少し気になる人物がいます。秦の穆公の妻・穆姫ぼくきです。秦の穆公の解説にも以下のエピソードに登場した女性です。

・晋から秦に輿入れし、召使いに後の名宰相・百里奚ひゃくりけいがいた。
・晋の恵公けいこう夷吾いごが秦に敗れて捕虜になった時に助命した

 上のエピソードについては『史記 秦本紀』と『春秋左氏伝』の両方に記述があります。

「四年,迎婦於晋,晋太子申生姉也」
(秦の穆公の)四年、晋から妻を迎え、晋の太子・申生しんせいの姉であった
『史記 秦本紀』

「執虞公及其大夫井伯,以媵秦穆姫」
(晋の献公は)の君主と大臣の井伯いはくを捕えて、秦の穆姫のようとした
『春秋左氏伝 僖公五年』


 虞の大臣・井伯とは百里奚のことで、媵とは召使いのことです。また、申生は重耳の兄なので、穆姫は重耳にとっても姉であることがわかります。
 ここで問題になってくるのが穆姫の年齢です。女性の年齢を話題にするのは気が進みませんが考察を続けます。穆姫が秦の穆公に嫁いだ「穆公四年」は紀元前656年です。そして、百里奚が召使いになったのは「僖公五年」は翌年の紀元前655年です。紀元前655年は申生が死亡し、重耳が亡命した年です。史記の記述を元にするなら重耳はこの時42才ということになります。

列女伝れつじょでんでの記述

 本当に女性の年齢を話題にするのは気乗りしないのですが、単純計算で穆姫は秦の穆公に嫁いだ年齢は40歳を越えていた計算になります。結婚適齢期という言葉を聞かなくなって久しいですが、古代のお姫様が40歳を越えて輿入れするというのは流石に違和感を覚えます。
 更に、前漢ぜんかん劉向りゅうきょうが編纂した優秀な女性のエピソードを集めた列女伝れつじょでんにはこのような記述があります。

「穆姫聞之,乃與太子罃、公子宏,與女簡璧,衰絰履薪以迎」
穆姫はこれ(晋の恵公が戦いで敗れて捕虜になった事)を聞いて、太子のおう、息子のこう、娘の簡璧かんぺきと喪服を着て薪を用意して迎えた
『列女伝 賢明伝秦穆公姫』


 穆姫には秦の穆公との間に少なくとも3人の子供がいたと考えられます。ちなみに晋の恵公が捕虜になったのは穆姫が嫁いでから約10年後です。紀元前の世界で40歳を越えて10年間で3人の子供を出産するのはかなり危険で困難ではないかなと思います。現代の基準でも高齢出産にあたる年齢です。

春秋左氏伝の記述

 春秋左氏伝には重耳の年齢の手がかりになる記述があります。これは重耳が死んだ後の評価に関する記述です。

「我先君文公,狐季姫之子也。有寵於献。好学而不貳。生十七年,有士五人。有先大夫子余,子犯,以為腹心,有魏犨,賈佗,以為股肱。有斉,宋,秦,楚,以為外主。有欒,郤,狐,先,以為内主。亡十九年,守志彌篤」
先君である文公は狐季姫こききの子である。献公に愛された。学問を好みわき目も振らなかった。生まれて17年で5人の賢者を得た。まず子余しよ子犯しはんは腹心になった。魏犨ぎしゅう賈佗かた股肱ここうの臣となった。外には斉、宋、秦、楚と交流した。内にはらん氏、げき氏、氏、せん氏と交流を持った。亡命して19年、志を守り続けた(春秋左氏伝 昭公十三年)


 年齢について直接的なありませんが、17歳で五賢士を配下に加えているとしています。そして19年の亡命生活について言及しています。亡命の始まりが史記の記述通りだとするとこの時43歳となり、17歳から43歳まで一切触れていないのは不自然です。素直に春秋左氏伝の記述を読むなら17歳で亡命生活を始めたと捉えるほうが自然に思えます。この部分は確たる根拠のない推測です。
 しかし、重耳が亡命時点で17歳だったと仮定すると、姉の穆姫の年齢も輿入れの時20歳前後と推定できます。この年齢であれば秦への輿入れも違和感のない年齢となります。

国語こくごの記述

 『国語』という歴史書があります。著者は春秋時代の左丘明さきゅうめいと言われています。生没年は不詳ですが孔子こうしと同時代の人とされています。左丘明は孔子が書いたと言われる歴史書『春秋』に注をつけて『春秋左氏伝』の撰者としても知られています。その左丘明の『国語』には次のような記述があります。

「晋公子生十七年而亡」
晋の公子(重耳)は生まれて17年で亡命した
(国語 晋語四)

 ここでははっきりと17歳で亡命したと書いてあります。『国語』と『春秋左氏伝』は『史記』よりも成立が早く、より重耳のいた時代に近い歴史書です。そのため重耳が亡命時点で17歳だった説はある程度の信憑性があります。中国語版Wikipediaではこちらの説を採用しています。

真相は土の中?

 しかし、『史記』の編者である司馬遷しばせんは『国語』や『春秋左氏伝』の記述は当然精査しているでしょうから、他に根拠があったと考えられます。
 西暦280年頃に発掘された『竹書紀年ちくしょきねん』や2000年代になって見つかった『清華簡せいかかん』といった2つの出土された史料も確認してみましたが重耳の年齢についての言及はありませんでした。
 しかし、近年になっても新史料の発見・発掘は続いており、もしかしたら重耳の年齢論争に決着が付く日が来るかも知れません。

 もっとも、真実がどうであったとしても大衆のイメージとしてはなかなか変わるものではないかも知れませんが。それこそマリー・アントワネットのお菓子発言の様に。

 特に山もオチもないお話になってしまいましたが、おまけは以上となります。次回の第5回【荘王そうおう】で一旦中国史ぷち講座は終了となります。