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競争から降りてもいいですか?

2年前、大学に合格して6年勤めた会社を辞めたときのわたしは意気揚々としていた。「これで本当に自分のやりたいことができる」「看護師として医療支援をする目標に一歩近づいた」。そう本気で信じていたから。大学1年の終わりにうつ病と強迫性障害を発症して1年間の休学を強いられた今は、看護師として途上国で医療支援をすることが本当に自分のやりたいことなのか確信を持てずにいる。

「やりたいこと=できること」ではない

NGOに所属し、途上国で医療支援を行うために必要なのは看護師という国家資格や臨床経験だけじゃない。文化・言語の異なるメンバーや現地住民と協働してプログラムを運営するためには、高いコミュニケーション能力と強いリーダーシップが必須条件になる。5年間大学に通い、6年間民間企業で働いた経験から言えるのは、わたしには「高いコミュニケーション能力」も「強いリーダーシップ」もないという明白な事実だ。

文献を読み込んで論文を書いたり、文書を翻訳したり、物事を批判的に考えることはできる。むしろ得意だ。実際、ゼミの友人たちが卒論で四苦八苦しているのを横目に、わたしは論文を書くのが楽しくてたまらなかった。英文のプライマリーソースを集めたり、エビデンスを順序立てて構成していくのは苦労したけれど、そういう作業に没頭している時間は決して苦ではなかった。一方で、複数人でチームを組んでディスカッションをしたり、リーダーとして議論をまとめる立場に立たされると必ずと言っていいほど苦痛を感じた。できないわけではない。やろうと思えば何とかやれる。だけど嫌でしかたない。そんな状態だった。

要するに、わたしは「内向型人間」なのだ。だから、仮に外向型を装って医療支援NGOに潜り込めたとしても、その先に待ち受ける活動に喜びを感じることはないんじゃないかという気がする。関係機関との折衝、医療従事者間の連携、それに伴う密なコミュニケーションなんて、はっきり言って苦手中の苦手だ。昔からの夢だからという理由で、不得意なことに時間とエネルギーを費やすなんて自分を苦しめるだけだし、早晩心身に不調をきたすのは目に見えている。自分のやりたいことが、必ずしも自分のできることとは限らない。会社員のわたしはこの現実から目を背けていた。自分の力量や守備範囲を超えた目標に酔いしれて、内向型という本来の気質に目をつむっていた。

行動力のある自分はかっこいいという幻想

そもそも、なぜ国際協力がしたいのか。恥も外聞もかなぐり捨ててぶっちゃけると、そういう仕事をしている自分がかっこよく見えるからだ。看護という専門技術と語学力を武器に、貧困や紛争で満足な医療サービスを受けられない人々にケアを提供する。その後は大学院に進学してさらなるスキルアップを積んだうえで、国際機関や政府系組織で働く。こんなふうに活躍する人を勝ち組と言わずに何と言うのか?

自分で書いていて恥ずかしいというか、こんな動機で国際協力しようとするやつは唾棄すべき存在だと思う。でもこれが本音なんだ。心の奥にドロドロ渦巻いている穢らわしい本音だ。困ったことに、わたしは物心ついた頃からそんなふうに生きてきた。「かっこいい」「すごい」と思ってもらえることがモチベーションであり、アイデンティティーであり、進路選択の基準だった。

そういう生き方しかできなかった

わたしは小さいときから外見が地味で、大人しくて、地声が小さくて、背も低くてやせっぽちだった(今でもそれは変わらない)。何もしなければクラスの中で「その他大勢」として片付けられてしまう存在。だからこそ、人一倍努力して「頭が良い子」「行動力のある子」という評価を獲得してきた。先生の目にとまりたい、友達から尊敬の目で見られたい、親に育てたかいがあったと思われたい。その一心でひたすら勉強や課外活動に打ち込んできた。

成人してからもその傾向は変わらず、「わたし=学歴・職歴」という信念の下に、履歴書を埋めるための実績づくりに汲々としてきた。大学内の活動だけでは満足できずに、小学生や在日外国人をサポートする学外のボランティアに手を出したり、中東諸国を自転車で走るイベントに参加したり、手当たり次第に活動していた。その一方で、卒業論文で賞をとっても、学位を取得しても、就職先が内定しても、「もっともっと」という衝動が抑えきれない。何かを成し遂げても、決して満足できない。むしろ「次はあれをクリアしなきゃ」という焦りの気持ちが高まる。ここまでくると、もはや依存症なんじゃないかと思う。学歴・職歴依存症。なんでこんなことになってしまったんだろう。

ありのままの自分ではダメだった

会社で働いていた頃に、コルカタ(インド)にあるマザーハウスでボランティアをしたことがある。そこでヴィクトリアというアメリカ人と知り合った。年の頃はおそらく60代。現役時代はニューヨークのメトロポリタン美術館で働いていたという知的で、アメリカ人にしては(と言うのは偏見かもしれないけど)物静かな女性だった。そのヴィクトリアに思わず胸の内をこぼしたことがあった。「ボランティアの中には医療従事者もいて、彼らの方が何の技術もないわたしよりずっと役に立っている気がする。看護師のボランティアと働いていると、自分が役立たずに思えてくる」と。ヴィクトリアはそんなわたしの不満を真っ向から否定した。「みんながみんな医師や看護師だったら、現場が回っていかないでしょう。医療者ではないからできることもあるじゃない」

ヴィクトリアには申し訳ないけれど、このときのわたしには彼女の言葉がすんなり入ってこなかった。ありのままの自分が受け入れられなくて、何の技術も知識もないわたしは無力でしかない、もっと役に立つ人間にならなきゃいけないと思っていた。今だったら、当時のわたしにこう声をかけるかもしれない。患者の傷を手当てしている看護師と、洗濯物を洗ったり配膳をしている会社員のどちらかに優劣をつけるなんてできないんじゃないの? 仕事の内容こそ違うけれど、病気や障害のあるインド人の力になりたいと思ってはるばる海外まで来ているという事実に違いはないんだから。でも、あの時のわたしにはそれができなかった。ありのままの自分は役立たずで無力な存在だと思い込んでいたから。

幼少時からの異常なまでの承認欲求は、自分に自信が持てないことの裏返しといえる。自尊感情が極端に低いせいで、常に自分はダメ人間だという思いがある。だから、頑張って高いパフォーマンスをして周囲から褒められないと安心できない。問題は、褒められたからといって必ずしも自尊心が満たされるわけではないことだ。上には上がいるし、ひとつの課題をクリアすればまた別の課題が浮かび上がってくるから、いつまでたっても気が休まらない(例えば、看護師免許を取得しても、次は大学院で公衆衛生修士を取らなきゃいけない。その次は国際機関でインターンした経験が必要だ。その次はNGOで働いた実績がないといけないというふうに)。立ち止まったら終わり。走り続けないと誰かに追い抜かれてしまう。まさにラットレースだ。

競争社会の弊害

この社会では、まだ幼い頃からあらゆる種類の「競争」にさらされる。幼稚園では運動会のかけっこだし、小学校に上がればテストや受験競争になり、大学生になれば就職戦線になる。社会人になったらなったで出世競争が待っている。数十年に及ぶ「競争」の結果、わたしは無意識のうちに人に優劣をつけるクセがついてしまったようだ。正社員は非正規社員より優れている。医師や弁護士といった専門職は、一介の事務員より優れている。結婚して子どもがいる人は、未婚で子なしの人より優れているというように。

人生は競争。勝つか負けるか。勝った人は称賛されるし、負けた人は蔑まれたり、もっと頑張れと叱咤激励される。そんな社会でもまれるうちに、常に上を目指して努力したり行動したりする人間が正しくて、何もせず普通に暮らしている人間は怠け者だという価値観がわたしの中に根を下ろしてしまった。

うつ病と強迫性障害になって、一連の競争から一時的に降りなければならなくなって初めて、今まで漠然と感じていた生きづらさの根源を見た気がする。すべてはこの「勝つか負けるか」というメンタリティだったんじゃないか。これが元にあるから常に上を目指す衝動にかられ、目標を達成しても満足できず、自分の欠点を誰かに知られるんじゃないかビクビクして過ごしているんじゃないだろうか。

競争から降りる

今回わたしがうつ病と強迫性障害を発症したのは、ある意味「良いきっかけ」なのかもしれない。低い自尊心とゆがんだ承認欲求と強迫的な上昇志向に裏づけられたこれまでの生き方をいったんリセットするためのきっかけ。人からどう思われるかじゃなくて、自分本来の特性と気質に合った生き方へ軌道修正するためのきっかけ。

これまでのわたしは、はっきり言って幸せではなかった。物質的には恵まれていたけれど、精神的にはいつも追い詰められた生活をしていた。もういいんじゃないかと思う。31年間必死に努力して、我慢して、フル回転で働いた。だから、もっと楽に生きてもいいんじゃないか。幸せになることを自分に許してあげてもいいんじゃないか。

いっそのこと、今ここで宣言しようと思う。「わたしは競争から降ります」と。どんな職業につこうが、どんな学位をとろうが、未婚だろうが既婚だろうが、もうそこに「意味」はないんだ。大事なのは、生きているかどうか。ちゃんと生きているか。息をしているか。自分を大切にしているか。それだけで十分ではないですか?

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