見出し画像

うつになった前と後

うつ病になった前と後で何がいちばん変わったかといえば、「目標やプライドがなくなったこと」かもしれません。

そのことに気がついたのは、図書館で日経ウーマンを立ち読みしていたときのことです。転職に有利な資格の勉強だとか、女性が管理職になるためのスキルだとか、資産運用だとか、組織でバリバリ働いてかつ退職後も安泰な人生戦略が濁流のごとく視界に流れ込んできたときに「ああ、これはもう無理だな」と感じました。

精神疾患にかかる前は、わたしにも明確なキャリアパスがありました。大学を4年で卒業したら医療機関に就職して看護師としての実務経験を積み、国際NGOに所属して海外で医療支援を経験し、その後は大学院で公衆衛生の修士を取得してさらなるステップアップを目指す・・・という向学心のかたまりみたいなキャリアを描いていました。

でも、今は違います。毎月20万円くらいのお給料がもらえて、週に2日は休みがとれて、残業代がきちんと支払われて、パワハラやセクハラのない常識的な環境で働ければそれでいい、というのが正直な気持ちです。キャリアアップとか大学院とか管理職とかいった上昇志向は一切ありません。海外で働きたいという欲求ももうありません。都会で暮らしたいとすら思いません。人口密度が低くて、刺激や情報が少なくて、空気と水のきれいな田舎で暮らしたいと思います。「春は花を見て、夏は太陽を浴びて、秋は落ち葉を踏んで、冬は静かに春を待つ」ような生活が理想です。季節の移り変わりに合わせた無理のない自然な暮らしをして、一瞬一瞬を大切に生きられたらそれでいいと思います。

比べてみると、なんだか別人みたいですね。どうしてこうなっちゃったんだろうな。理由は自分でもわかりません。ひとつだけわかっているのは、「長期的な目標を立ててそれに向かって全力疾走する」という今までのライフスタイルでは、心と体がもたないということでしょうか。今のわたしには睡眠時間を削って勉強することができません。午前も午後も授業が詰め込まれているとヘトヘトに疲れてしまいます。要するに、無理がきかない体になってしまったんです。心にも体にも負担をかけずに生きられる方法を模索したら、現在のようなスタイルに落ち着いたということなのかもしれません。

昔の自分に戻りたいか? 恥を忍んで言えば、戻れるなら戻りたいというのが本心です。うつ病になりたくてなる人なんていません。もしこの病気にかからなければ、いろんな場所でいろんな経験をして、たくさんの刺激や学びを得ていたんじゃないかと考えると悔しくて自分を呪いたくなります。わたしと同じような志を抱いて大学に入学した社会人学生の仲間たちは、わたしを置いてどんどん先に行ってしまいます。悔しくないわけないじゃないですか。

でも、どうしようもないんです。彼らに追いつこうとして無理をすれば症状がぶり返しますから。そうしたらまた、眠れない、文字が読めない、考えがまとまらない、ベッドから起き上がれないという「うつ地獄」に逆戻りです。わたしには再び休学するという選択肢はありません。だから、今まで以上に自分の体が発する声に耳を傾けます。最低7時間は眠り、適度に運動します。きちんと自炊して栄養のある食事をします。部屋をきれいに片付けます。朝晩丁寧にスキンケアをします。スマホの画面を眺めるのは朝と夕方の短時間にとどめます。そうして淡々と暮らします。焦燥感や嫉妬といった雑念がわきあがってきたときには、愛読する作家の言葉を思い出します。

人生の目的は100メートル走を全力で走り切ることではなく、ただ堅実に日々を積み上げていくことである。

夏川草介「新章 神様のカルテ」
アメリカの禁酒団体の標語に「One day at a time」(1日ずつ着実に)というのがありますが、まさにそれですね。リズムを乱さないように、巡り来る日を1日ずつ堅実にたぐり寄せ、後ろに送っていくしかないのです。そしてそれを黙々と続けていると、あるとき自分の中で「何か」が起こるのです。でもそれが起こるまでには、ある程度の時間がかかります。あなたはそれを辛抱強く待たなくてはならない。1日はあくまで1日です。

村上春樹「職業としての小説家」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?