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生きるってなんて苦しいんだろう

図書館で国際協力の本を見つけて手に取った。国際協力を仕事にしたい人向けに書かれた本で、どんな職種があって、どんなキャリアデザインを描けるのかといったことが、医療・行政・民間などの分野別に並んでいる。

「看護師」の項目には、国境なき医師団で活動する看護師の履歴書(病院で何年働いて、どこの大学院で公衆衛生修士をとって、どの地域に派遣されたか)が本人の体験談と一緒にのっていた。それにざっと目を通した時点で、耐えられなくなって本を閉じた。

未来が怖い

今のわたしにとっては、この本を手に取ったこと自体が大きな「成果」といえる。おおげさでもなんでもなく。なぜなら昨年の春、大学に休学届を出した直後は、看護に関するいっさいの情報を受けつけなかったから。

背中いっぱいに赤い発疹ができる、涙が止まらない、倦怠感が強くてベッドから起き上がれない、睡眠薬なしでは眠れないといった身体症状から、大学を辞めたい、看護師なんかになりたくない、死んでしまいたいといった精神症状まで、うつ病の絶頂期は心とからだのコントロールがいっさい効かなくなった。

最悪の時期を脱した今は心もからだも安定して、普通に日常生活を送れるようになっている。その証拠に、決まった時間に起きたり、散歩に行ったり、睡眠薬がなくても眠れるようになってきた。

でも、寛解はしていない。遠出をした翌日は例の倦怠感に襲われて起き上がれなくなってしまうし、長時間何かに集中することが難しい。そして今いちばん困っているのは、将来のことを考えると不安に襲われて身動きがとれなくなってしまうこと。病院で臨床経験を積むだとか、大学院に進学するだとか、NGOで働くだとか、国際協力に携わるためにクリアしなければならないタスクを文字情報として突きつけられると、思考回路がショートする。息苦しくなって、喉の奥に何かがせり上がってくるのを感じる。もうだめ。わたしには無理。何も見たくない。聞きたくない。消えてしまいたい。

コップいっぱいの水

今の自分をコップに入った水に例えると、9分目まで水が注がれた状態なんだと思う。コップの縁ぎりぎりまで水が入っているから、新しい水を注ごうとするとすぐにあふれてしまう。「看護師として国際協力に携わる」という目標に近づこうとすれば、当然クリアすべき課題は増える。しかも課題の一つひとつが結構な時間と手間を必要とするとなると、わたしのキャパはあっという間にオーバーしてしまう。

こんな自分は本来の自分じゃない、と思う。あんなにタフだった自分がこんなに弱くなったなんて信じたくない。地団駄を踏みたいくらい悔しい。屈辱的ですらある。こんなはずじゃなかったのに。せっかく目標に向かって一歩踏み出したのに、精神疾患にかかったせいですべての計画が破綻してしまった。もう生きていたくない。頭の中はそんな叫びで満ちている。

その一方で、なけなしの理性が働いているのも感じる。今さらうつ病をなかったことにはできないんだよ。実際、少しでも無理をすれば症状が出てくるでしょう。だからさ、自分が病気だってことを否定したり、病気にならなければできたかもしれないことをうじうじ考え続けるのはもうやめようよ。それより、この先どうやって病気とつきあっていくかを考えよう。症状を悪化させずに大学に通い続ける方法を考えよう。

生きかたを再構築する

「うつ病になった自分」を受け入れたうえで、ライフスタイルや人生設計を再構築する。これが現実的な選択肢なのかもしれない。正直、「うつ病になる前の自分」になんとかしがみついていたい気持ちもあるにはあるのだけれど、もうからだが言うことを聞かない。あの頃のように真面目で、几帳面で、完璧主義で、苦しくても我慢して頑張り続ける人間に戻ることはできない。そもそもうつ病になった時点で、そんなブラックな生きかたをしていたら遅かれ早かれ破綻するということに気づくべきだったんだ。

無理をしない。心とからだを休める。自分を他人と比べない。競争から降りる。自分のペースでできることをやっていく。なんだかここに羅列するだけで、本当にそんなことができるのか不安になるけれど、これからのわたしは今までとは正反対の価値観で生きていく必要がある。小さい頃から培ってきた価値観を転換するのは生やさしいことじゃない。だけど、考えかたや生きかたを変えない限りうつ病と強迫性障害は治らないし、悪化・再発のリスクも高くなる。

あーあ。生きるのは楽じゃない。生きていくってなんて苦しいんだろう。この先、生きていてよかったなんて思える瞬間なんてくるんだろうか。

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