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CBT#0 「好きだ・できた・楽しい」を記録する

3週間ほど前から、認知行動療法(CBT)を始めました。CBTといっても病院やクリニックで専門家と行う本格的なものではなくて、テキストに沿って取り組む自己学習型のものです。テキストは英国における認知療法の第一人者で、オックスフォード認知療法センターのメラニー・フェネル Melanie Fennell 博士による『自信をもてないあなたへ 自分でできる認知行動療法』(阪急コミュニケーションズ, 2004)です。

なぜこんなことになったのか

3月上旬に精神科病院を退院し、体調も精神状態も少しずつ安定してきた4月に入ってから、これまでの自分の行動や動機についてのふり返りを始めました。焦点は「なぜこんなことになったのか」です。2019年に初診を受けてから3年が経過しましたが、うつ病が寛解する気配はありません。それどころか希死念慮をこじらせて自死を計画し、閉鎖病棟に医療保護入院する羽目になりました。にもかかわらず、この期に及んでまだ病気と向き合えていない自分がいます。くそっ、こんなはずじゃなかったのに。なんでわたしだけこんなひどい目にあうんだ。わたしが何をしたっていうんだ。間違ったことは何ひとつしていないのに、という不毛な脳内会話をいまだに続けています。レベルを落として生活しなさいという主治医の助言にも内心反発して、うつ病になる前のライフスタイルやキャリアプランを手放すまいと必死になっています。自分の体が激務に耐えられないという事実を直視できず、やればできると自分に言い聞かせています。

なにより、今までの価値観やライフスタイルを手放してしまったら、この先何のために生きていけばいいのかわからなくなってしまうことを恐れています。うつ病を克服した当事者が Twitter で「1日8時間・週5日フルタイムで働くことがそもそも無理なんだ。今、僕は週3日のアルバイト生活だけど、おかげでうつ病から回復することができた。もう元の生活には戻れない!」みたいなツイートを発信しているのを見ると、ゾッとします。こんな生活や価値観を選択しようものなら、一生負け組になってしまう。何もかもあきらめて、競争から降りた人になってしまう。そうしたら、何のために生きているのかわからなくなってしまう。病気になる前に思い描いていた「社会のために活躍するわたし」を手放したら、自分には何も残らない。過酷な環境でも他人のために働いて、人から認めてもらうことで生きがいを感じていたのに。他人のために自分を犠牲にすることができなくなったら、わたしの人としての価値が失われてしまう。

加えて、まわりの目を強烈に意識していることが競争から降りることを困難にしています。大学(卒業した大学・在籍中の大学)の知り合いには意識高い系の社会人がたくさんいます。学業を修了して仕事を持っているにもかかわらず、現状に甘んじることなく大学に入り直して勉強したり、資格を取ったりする人が多いのです。彼女たちが頑張っているのに、自分だけ戦線離脱はできない。うつ病という屈辱を払拭し、この泥沼からはい出して元の道に戻らなければと焦っています。仮に戦線離脱を余儀なくされたとしたら、「あの子たちは第一線で活躍して着々とキャリアを築いているのに、わたしは誰の役にも立たない人生に甘んじている」と感じて、残りの人生を後悔と恥辱にまみれて過ごすことになると信じています。

医療職者として社会のため、人のためにバリバリ働く以外のキャリアを一切想定してこなかったので、この計画が病気によって頓挫した今、何を頼りに生きていけばいいのか、どうやって体勢を立て直せばいいのかわからなくて、途方に暮れてしまったのです。なぜこんなことになってしまったんだろう、と。

自己犠牲の背後にあった「低い自己評価」

ここに書き出した「わたし」の人物像やこれまでの経歴、性格、行動パターンからいくつかの特徴を見出すことができます。

  • 自分を犠牲にしてでも他人の役に立つことが重要だと考えている。自己犠牲的な行為によってはじめて自分は価値のある人間だと思うことができる。他人から認められることによって、自分は生きていていいんだと実感できる

  • 仕事が最重要で、私生活はかえりみない。自由時間も知識の習得に努め、そんな生活に喜びを感じている。ただし、「あいつらは遊んでいるのに、わたしは勉強していて偉い」という不健全な喜び(優越感)である

  • 完璧主義ゆえに、仕事で何かを成し遂げても達成感や満足感を感じることが少ない。いつも何かに追われ、急き立てられるような焦燥感を感じている(やってもやっても満足できず、すぐに次の課題を探そうとする)

  • 人生の軸が「他人からどう見えるか」に置かれている。その行動指針は、他人(社会)の役に立つ働きをしているか、他人から見て恥ずかしくないか、他人からすごいと思ってもらえるか、である

  • プライベートや趣味は無きに等しい。10代前半から勉強ばかりして友だちと遊んだ経験がないため、遊びを知らない。それ以前に遊びを「悪」、趣味や休息を「怠惰」とみなしている。うつ病になってから臨床心理士や作業療法士にすすめられて始めた編み物やパズルに興じている間も「怠けている」という罪悪感を拭いきれず、純粋に楽しむことができない

やれやれ、とんでもないやつだなと自分でも書いてて思います。頭でっかちで、心のねじ曲がった、プライドの高い人間です。こんな人とはお近づきになりたくありませんね。その反面、かわいそうな人だなとも思います。真面目・ストイック・努力家という本来であれば好ましいはずの性格が高じて、遊ぶことも人生を楽しむことも自分に許容できなくなっているのですから。とはいえ、ひとつだけいいことがあります。それは、これまでの価値観・ライフスタイルが持続可能なものではない、ということをわたし自身が認識しているという点です。こんな考えを持ち続けていたら、うつ病の回復は見込めません。自分で自分の首を絞めて、遠くない将来、今度こそ本当に自死してしまうかもしれません。

それではどこから手をつけたらいいのだろう、と思って手にとったのがこの本でした。読み進めていくうちに、どうやらわたしの自己犠牲的な行動は低い自己評価によって支えられ助長されているということがわかってきました。この本は低い自己評価がどのようにして生まれ、どんな悪循環が生じるのかを教えてくれるだけでなく、自己評価の低さを乗り越えるためのいくつかの実践的なエクササイズを提案してくれます。今回、わたしが note に記録するのもそんなエクササイズのひとつです。

低い自己評価によって自分に優しくしたり人生の楽しみを味わうことを妨げられてきた人は、楽しいことを思いつくのが下手です。思いついても、自分には楽しいことをする資格がないとか、自分を甘やかしたりくつろいだりすることに後ろめたさを感じることが少なくありません。というか、わたしもそんな禁欲主義者のひとりです。

そこで、自分はどんなことに楽しさ・満足感・達成感を感じるのかを観察するために、「好きだ・できた・楽しい」と感じた出来事を記録しようと思います。この観察は、日々の楽しみや達成感を最大限に高めるための、余暇も含めた充実した人生を歩むための基礎資料となります。記録をつけることで、「苦しい・死にたい・楽になりたい」としか考えられない今のわたしに、ささやかな変化が(どんな変化なのかは想像もつきませんが)現れることを期待したいと思います。

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