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公園とそこにつながる人の居場所

うちの娘は最近学校に行かない。去年は週1回どこかで休んで、勝手に週休3日にしていたのだけど、最近は勝手に10連休、なんなら冬休みより長くなりそうな連休をひとり満喫中だったりする。

小学校1年の娘は家でのんびりと、絵を描いたり、子ども秘密基地のメンテをしたり、本を眺めたり、絵の具や水遊びの小さな実験のようなことをして過ごし、栄養バランスの考えられた給食には大幅に劣るテキトーな栄養バランスのお昼ごはんを食べ、歌ったりまた絵を描いたりしている。

毎日学校に行くことが明るい未来を迎える必要条件じゃないことくらい、十分理解しているし、自分の気持ちを大切に行動する娘の意志の強さには感動すら覚えるけど、この母親としての、そわそわ落ち着かない気持ちは一体なんなんだろう?

勉強の遅れが気になる訳ではないし、他人と同じじゃないといけない信仰もない。でも、毎朝「きょう学校行かない」宣言を発出されると、モヤモヤする。おさまるべきところに収まらない違和感のような心地悪さ。誰も悪くないのに、一気に険悪になる雰囲気。

学校に行きたくない理由はよくわからない。寒いとか、つまらないとか、家がいいとか、そんな答えばかり。自由に過ごせる時間は少ないし「行きたい!」と思える面白みがないのだろう。

描いた絵をのせるインスタを始めたりもしたけど、問題なのは、学校以外に行くところがないことなんじゃないか。

地域の子どもの遊び場として用意された場所は、学童も兼ねているから、学校に行かない彼女の選択肢からは完全に除外されている。小学1年生が自分ひとりで歩いて行けるフリースクールのような場所はない。かつて我らがつくし公園の隣にあった子ども会館も閉鎖したまま。

家と学校以外の子どもの居場所。好きなことをして過ごせる場所。行けば誰かに会えて、自分でいられる、安全で安心な場所。

公園の中や隣に大人がいる遊び場があったら、それって本当に最高なんだよね。近所に住んでいた頃よく通った羽根木公園のプレーパークも、いつもいろんな子どもたちで賑わっていた。大人のプレイリーダーがいる時間は焚き火もOKで、学校終わった小学生がものすごく慣れた手つきで、ささっと焚き火でチャーハンつくっておやつに食べていた。都会でたくましく育っている子どもたちの姿はカッコよかったし、なんだか言葉にできない希望のような感覚があった(あの時の笑顔のステキな少年たち、今はどんな風になってるかなあ?)。料理してる子の手際の良さと、いつも食べる役だろうの友だちの「こいつすごいんスよ〜!」っていう自慢げな顔が今でも忘れられない。ベーゴマの師匠みたいなお兄さんがいたり、とにかく、いろんな人がいた。親や先生以外の大人と触れ合って、人と人の、横のつながりを育んでいく場所。

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いまは閉鎖してしまった長谷子ども会館も、小学生は1人で行けて、ボードゲームしたり卓球やったり、おじいちゃん先生と将棋やったり、ごろごろしながらマンガ読んだり、隣のつくし公園で遊んだり、赤ちゃんから大きな子まで、子どもたちは誰もが自由に過ごしていた。

学校とはまた違う居場所。塾じゃない、目的が限定されてない、思い思いに過ごせる場所。公園とそこにつながる人の居場所。公園にプラスして、人がつくるコミュニケーション。

子どもの居場所に限定されてないけれど、公園+人のコミュニケーションとして面白そうだなと思ったのは、佐賀県江北町のみんなの公園。芝生広場+大屋根スペースにカフェがあったりして、ピアノが弾けたり、地域の人の声をお手紙のように紹介したり、多世代交流のひとつの形みたい。

さらに面白いなと思ったのは、「ここで何がしたいか?」の視点で地域の人と一緒に考えてつくったらこうなって、法律上は公園という形を取らずに公園にしたこと。


暑い夏に、大雨に、多世代や多様なニーズの人たちのために、外のような、中のような、屋外でもあり屋内でもある、そういう場所がこれからはもっと求められてくると思う。そして、公共施設の再生や公園の再整備なども進んでいく中で、公園+いつも誰かいてほっとできる室内(図書館だったり遊び場だったりカフェだったり)という施設がもっと増えますように。

公園がひらいて、子どもはもちろん、みんなの居場所になると、きっともっともっとご近所が楽しくなるんじゃないかと思う。そして地域みんなで子どもたちを見守り育てていけるんじゃないかと思う。

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