見出し画像

どんなにくだらなくても趣味は趣味でいい

noteは楽しい。趣味のひとつと言える。おそらく、今この記事を読んでいるあなたも同じだろう。

noteが好きな人は「物事を言語化するのが好きな人」だと思う。そういう人は「なぜ、自分は〇〇が好きなのか」なんてことを考えがちかもしれない。

私は自分が好きなことに対して、その理由を言語化しようと試みるクセがある。うまく言語化できないと落ち込んだり、趣味リストから外したくなったりする。しかし、最近ふと「好きは好きのままでいいのでは?」と思った。


スポーツ観戦はくだらない

例えば、私は「スポーツ観戦」が趣味だがハッキリ言ってくだらない。

すごくボールを蹴るのがうまい11人2チームを、あるところに閉じ込めて、ボールを1個与えて、蹴ってお互いに持って行く。こういう風な力学的条件を与えた時に、最後は動いて面白いって、勝った負けたとかないじゃん。現象だから。渋谷のスクランブル交差点の交流と同じだよ。

岡田斗司夫

これはサッカーを例にスポーツ観戦をディスる岡田斗司夫の談話。やや暴論に思えるが一理ある。スポーツ観戦なんて単なる「現象の観察」だし、スポーツ興行は社会に必須な事業ではない。平和で暇な国でしか成り立たない事業だろう。

私の趣味のひとつである「プロ野球観戦」にも同じことが言える。

  • なぜ、自分とは無関係なチームの勝敗に一喜一憂するのか

  • なぜ「球を投げるのがうまいお兄さん」と「その球を棒に当てるのがうまいお兄さん」がチヤホヤされるのか

  • 野球選手がゴミ収集員の100倍稼げるのってオカシクね?

冷静になると、こんな疑問が湧いてくる。でも、その疑問に答えを提示しなくていいし、答えを提示できないからといって落ち込む必要もない。下手に理性を働かせてしまうと、人生の宝物である「趣味」を失ってしまう

退屈と趣味

人間が最も恐れることのひとつは「退屈」だ。

人間は部屋にじっとしていられず、必ず気晴らしをもとめる。つまり、退屈というのは人間がけっして振り払うことのできない”病”である。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

人間は自然現象の一環として誕生し、数年経つと死ぬだけの存在。そこには意味も目的もない。いわゆる「人生の意味なんてない」というやつだ。

「気晴らし」を知っている人間は、人生が無意味である事実を楽観的に解釈できる。「どうせ人生に意味はないのだから、テキトーに気晴らしをしながら死を待てば良い」と思える。一方で「気晴らし」を知らない人間は、人生が無意味である事実に絶望する。死ぬまでの間に何をすれば良いのかわからなくなってしまう。かといって、自らの意思で死に至るのも怖い。この絶望的な状況こそが「退屈」だ。

人間は退屈で充満した「正気の世界」に戻らぬよう、ドラッグに依存するかの如く「気晴らし」を求めるのかもしれない。その「気晴らし」の代表例が趣味と呼ばれるものだ。趣味は「生まれた意味」にはならなくても「生き続けたい理由」にはなる

趣味に、もっともらしい理由は不要

趣味に優劣はないはずだが、世間の風潮(あるいは自分にインストールされた削除しがたい旧式OS)では趣味にまで優劣が付けられている感じがする。例えば「読書」と「ゲーム」を比較した場合、読書の方が高次の趣味とされる節がある。

これは趣味に「有用性」を求めているからではないか。読書といえば思考力が鍛えられるとか、教養が身に付くといった効果やメリットが強調される。しかし、そんな外聞の良い説明は不要なのだ

「読書は先人の知恵を学べて見識が広がる」とかいうことを、いちいち自分に言い聞かせなくて良い。趣味については知能レベルを下げて「なんか知らんけど楽しい」で良いのだ。

なんか知らんけど、千葉ロッテマリーンズが勝つと嬉しい
なんか知らんけど、スピッツの曲を聴くと感動する
なんか知らんけど、noteを書いていると楽しい

かくいう私も好きな理由を掘り下げたり、趣味の有用性を探したりしてしまう。実際に「noteが楽しい理由」を考えたこともある。

本記事は、自分への戒めでもある。「言語化が趣味」ともいえるが、効果や意義を言語化できない趣味も自信をもって認めて良いのだ。

あとがき

本記事は池田清彦『人生に「意味」なんかいらない』の影響を受けている。気楽に生きよう系のエッセイにとどまらず、生物学的な観点からも書かれているのでオススメ。

私は自分が書いたたくさんの本が究極的には無意味だと知っているが、本を書くのは私にとって楽しいし、読んで面白がってくれる人も多少はいる。人生の意味を求めて悩むよりも、意味などないと悟って、自分が最も得意なことをして楽しく生きたほうがいい。
ただし、他の人が楽しく生きるのを妨害してはいけません。多くの人がそのことを理解すれば、世界は今よりずっとハッピーになるだろう。

池田清彦『人生に「意味」なんかいらない』

どんなに無意味な行為でも気を晴らせるのならば、それは尊い。楽しく生きている人を「それは無意味だ」と否定し、役に立つこと(勉強や労働)を強制するのは愚行である。無意味でも、無価値でも、役立たずでも、どんなにくだらないことでも、自分が楽しければ良いのだ。

ブログのサーバ費に充てさせていただきます。