どんなにくだらなくても趣味は趣味でいい
noteは楽しい。趣味のひとつと言える。おそらく、今この記事を読んでいるあなたも同じだろう。
noteが好きな人は「物事を言語化するのが好きな人」だと思う。そういう人は「なぜ、自分は〇〇が好きなのか」なんてことを考えがちかもしれない。
私は自分が好きなことに対して、その理由を言語化しようと試みるクセがある。うまく言語化できないと落ち込んだり、趣味リストから外したくなったりする。しかし、最近ふと「好きは好きのままでいいのでは?」と思った。
スポーツ観戦はくだらない
例えば、私は「スポーツ観戦」が趣味だがハッキリ言ってくだらない。
これはサッカーを例にスポーツ観戦をディスる岡田斗司夫の談話。やや暴論に思えるが一理ある。スポーツ観戦なんて単なる「現象の観察」だし、スポーツ興行は社会に必須な事業ではない。平和で暇な国でしか成り立たない事業だろう。
私の趣味のひとつである「プロ野球観戦」にも同じことが言える。
なぜ、自分とは無関係なチームの勝敗に一喜一憂するのか
なぜ「球を投げるのがうまいお兄さん」と「その球を棒に当てるのがうまいお兄さん」がチヤホヤされるのか
野球選手がゴミ収集員の100倍稼げるのってオカシクね?
冷静になると、こんな疑問が湧いてくる。でも、その疑問に答えを提示しなくていいし、答えを提示できないからといって落ち込む必要もない。下手に理性を働かせてしまうと、人生の宝物である「趣味」を失ってしまう。
退屈と趣味
人間が最も恐れることのひとつは「退屈」だ。
人間は自然現象の一環として誕生し、数年経つと死ぬだけの存在。そこには意味も目的もない。いわゆる「人生の意味なんてない」というやつだ。
「気晴らし」を知っている人間は、人生が無意味である事実を楽観的に解釈できる。「どうせ人生に意味はないのだから、テキトーに気晴らしをしながら死を待てば良い」と思える。一方で「気晴らし」を知らない人間は、人生が無意味である事実に絶望する。死ぬまでの間に何をすれば良いのかわからなくなってしまう。かといって、自らの意思で死に至るのも怖い。この絶望的な状況こそが「退屈」だ。
人間は退屈で充満した「正気の世界」に戻らぬよう、ドラッグに依存するかの如く「気晴らし」を求めるのかもしれない。その「気晴らし」の代表例が趣味と呼ばれるものだ。趣味は「生まれた意味」にはならなくても「生き続けたい理由」にはなる。
趣味に、もっともらしい理由は不要
趣味に優劣はないはずだが、世間の風潮(あるいは自分にインストールされた削除しがたい旧式OS)では趣味にまで優劣が付けられている感じがする。例えば「読書」と「ゲーム」を比較した場合、読書の方が高次の趣味とされる節がある。
これは趣味に「有用性」を求めているからではないか。読書といえば思考力が鍛えられるとか、教養が身に付くといった効果やメリットが強調される。しかし、そんな外聞の良い説明は不要なのだ。
「読書は先人の知恵を学べて見識が広がる」とかいうことを、いちいち自分に言い聞かせなくて良い。趣味については知能レベルを下げて「なんか知らんけど楽しい」で良いのだ。
なんか知らんけど、千葉ロッテマリーンズが勝つと嬉しい
なんか知らんけど、スピッツの曲を聴くと感動する
なんか知らんけど、noteを書いていると楽しい
かくいう私も好きな理由を掘り下げたり、趣味の有用性を探したりしてしまう。実際に「noteが楽しい理由」を考えたこともある。
本記事は、自分への戒めでもある。「言語化が趣味」ともいえるが、効果や意義を言語化できない趣味も自信をもって認めて良いのだ。
あとがき
本記事は池田清彦『人生に「意味」なんかいらない』の影響を受けている。気楽に生きよう系のエッセイにとどまらず、生物学的な観点からも書かれているのでオススメ。
どんなに無意味な行為でも気を晴らせるのならば、それは尊い。楽しく生きている人を「それは無意味だ」と否定し、役に立つこと(勉強や労働)を強制するのは愚行である。無意味でも、無価値でも、役立たずでも、どんなにくだらないことでも、自分が楽しければ良いのだ。
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