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それでも僕は、バスの揺れ方で人生の意味が解った日があった

バスの揺れ方で人生の意味が解った日曜日

スピッツ「運命の人」より。

人生の意味を求めてバスに揺られることなんて僕はしない

僕は、草野正宗という詩人が好きだ。

例えば、こんなことを唄える人だ。

ただし、彼はその「人生の意味」を、明確に、具体的に、語りはしない。

なにせ、彼はそのまま「愛はコンビニでも買える」と断言するし「無料のユートピアも汚れた靴で通り過ぎ」てしまうのだ。終いには「余計な事はしすぎるほどいい」と誘いつつ「自力で見つけよう神様」と僕を突き放す。

だから僕は、絆されて人生の意味を求め、貴重な日曜日をバスに揺られてみることなんてしない。(ただバスに揺られることは好きだ。)

彼の詩には彼の知る真理があるのかもしれないし、ないのかもしれない。鼻唄と共に、鼻の穴からこぼれ落ちた音符達に気まぐれの名前を与えただけなのかもしれない。

そんなことは彼にしか解らないことだし、ここで語ることなどしない。

ただただ、彼の詩の持つ、想像力で遊ぶ余地、そんな隙間が僕の心を掴んで離さない。

それでもあの日、僕はバスの揺れ方で人生の意味をほんのちょっと知った

2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒

僕は、バスの中にいた

僕は後部座席の片隅に座っており、終点は目と鼻の先だったのだが、降りることは許されなかった。なぜなら、抗いようのない大きなそれが来たから。

その一瞬、僕は無重力を知った

あの瞬間、バスのタイヤは巨大なバネに化けていたに違いない。

僕は、確かに、浮いたのだ。

明確に、「いたずらに時が過ぎていく」様を感じたのもそれが初めてのことだったかもしれない。

幸い、バスは転倒しなかった。

目の前の終点を通り過ぎ、どこか遥か彼方まで連れて行かれていてもおかしくなはなかったかもしれないそのバスから、僕は降りることができたのだ。

それが何だったのかを知るのは、それから十数分も経過してからになる。

晴れて望み通り投げたボールが 向こう岸に届いた

もしかしたら、届かなかったかもしれない。

望み通り生きているかは解らない。どこに届くかすら解らない。

恥ずかしくても まるでダメでも かっこつけて行く

それでも、苦しい時は、あの日のバスの揺れを思い出し、ふらつきながらも自力で生き方を見つけるしかないのだ。

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