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【シロクマ文芸部:今朝の月】SS:Moon holiday

 今朝の月は白く乾いていた。そして思った、この渇きはどこからくるのだろうと。

 周囲は、朝の営みの気配で満ちている。来たる喧噪の中に答えが、答えでなくともヒントくらいは落ちてやしないかと、彼女は出雲湯いずもゆ の上空まで飛んで行った。

 夜は退屈だ。空から動くことができない。しかも今日のような薄い三日月の日はあまり目も開かないので、なにもかもがぼやけて見える。

けむ を感じる。もう近いかな

 闇に紛れて、私に話しかける人は多い。でも薄明を迎えると、そこに私がいるかなんて普通の人は気にしない。だから銭湯にある煙突の階段から下界に降りて遊ぶ、そんな日もあった。

 出雲湯は今どき珍しい薪で風呂を焚く24時間営業の銭湯だ。この時間帯は、朝が早い老人や仕事の前後にひと風呂浴びる勤め人が僅かながらも居た。

 番台で入浴料を払い、タオルと石鹸を購入する。洗い場で一通り流してから、凝り固まった身体を湯に通した。壁面の富士山を眺めながら手足を伸ばすと、すぐにでも満月に戻れそうな気がした。

 逆上のぼ せないよう早めにあが り、バスタオル一枚のまま扇風機の前に立ってフルーツ牛乳を飲む。ついでに回転する風流にあああああああぁぁぁぁぁぁぁと声を震わせて笑う。

 ひとしきり満喫して外に出ると、男湯の暖簾の方から出てきた青年と偶然、たぶん視線が合った。

おはようございます
今日も暑くなりそうですね
と彼は言った

 私は微笑むことしかできなかった。日中の私は耐えられないほど存在が薄いため声を掛けられることに慣れていないのだ。

 すでに日が高い。青年が言うように炎暑の予感がするが、本番まで猶予がありそうだったので少し歩くことにした。

 学校へ向かう小学生の波とすれ違う。中には、私を指差したり、あからさまに避ける子もいる。それでも粛々しゅくしゅくとして通り過ぎれば特段の異議も余韻も残らない。そんなものかな。

 そのうち目前に現れた駅から東急池上線に乗って蒲田まで出ると、駅前の漫画喫茶に入り、ビーフカレーを食べて漫画を選んだ。

 個室は1.5畳ほどの床に全面マットレスが敷かれていた。ひっくり返って足を組み「坂本ですが?」を読む。続いて「ファブル」と「ポーの一族」を。

 それからあの青年のことを考えた。

 彼は町工場の夜勤工員として働いていた。工場の窓越しに見かけたことがある。そこにはF15戦闘機の模型が並んでいた、非常に精巧に作られた100機以上の模型。彼はその一つ一つの機体を手作業で彩色していた。

 一つ紛れて満月の模型もあった。彼はそれを手に取り、私に見せて言う。

これは絡繰からくりなんだよ
29.5日の周期で
満ち欠けを繰り返すんだ

 そして側面の丸いボタンを押すと、実際に月が動き始める。微かに歯車の音がしたが、耳を澄まさないと聞こえないほどの微音で、それ以外は分身うつしみといえるほど私に生き写しの月だった。彼は囁く。

この月を空に返して
君はここに残ればいい

 それはただの夢だった。私も存分に知っていた。それでも私のクレーターが満たされるのを感じた。

 我に返ると時刻は15:30を過ぎている。夏の夕暮れは線路のように長いけれど、空に空白を作らないためにも早く帰るに越したことはない。

 超過した時間分を支払って、来た電車と道を急ぐ。そしてスカートの裾を気にしながら、出雲湯の煙突脇の階段を登り頂上に立つと、夕日と交代するように何食わぬ顔で上空へと舞い戻った。


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#シロクマ文芸部
#今朝の月

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