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【小説】小指の神様-⑨Secret of Kozue-san

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第九話

まあ、莉子ちゃん
いらっしゃい

 梢さんが、縁側のガラス戸を開けて庭から戻ってくる。その姿には、過ぎ去った朱夏の光が射していた。吹き込む草生きれと、焚かれた白壇の香りに、思わず息を呑む。

あなたがもう
成人式なんてねぇ

あんなに
小っちゃかったのに

 久米島紬を纏った梢さんは、そう言ってまぶしげに微笑む。そして桐箪笥から多当紙たとうしに包まれた一枚の着物を取り出し、畳の上に置いて紐を解いた。

本当に
この着物でいい?

あなたのお母さん
万里子のときは

お古はいやっていうから
新しいの買ったし

好きなのを
着ればいいのよ

 それは白地に紅い束ね熨斗のしが刺繍された引き振袖だった。私が頷くと、梢さんは嬉しそうに着物を広げ始める。

わたし
結婚式のお色直しに
これを着たの

あのときが一番
幸せだったかも
しれないわね

 遠い目で懐かしげに紋様に触れたあと、彼女は一瞬、頬を歪ませて、睫毛を閉じた。

 それから、ふぅっと息を吐き、腕を組んで、袖の内側の両手で自分を抱きしめているようにして言った。

 「それから色々あって…夫と別れたのは、結婚して三年くらい後かしら、万里子が生まれて、一寸ちょっとしてから。ずっと我慢してたの。母には、他に女の人がって言ったけど、そうじゃなくて」

 梢さんはもう一度、ふぅと息を吐き、肩の力を落とし、小柄な身体をさらに縮こませて、再び話し始めた。

 「あの人は、気まぐれに、私の背中を爪で、固い爪で引っ掻くの。何度も。皮膚をぐ、奇妙な音がする...気がするけど、痛みは感じない。そのときは。なにも感じない。ただ震えが止まらないだけ」

 「そんな私を見て、あの人は、薄ら笑いを浮かべながら、ああ、お前は綺麗だ。こうやって紅く染めると白さが際立つ。そう言って、私を抱くのよ」

 歯の根が狂い始めた唇を噛んで、彼女はその痛みからしか生まれない言葉を紡ぎ出していく。

 「ずっと、そこから目を逸らして生きてた。ほら、背中って見えないでしょう。見たくなければ見なくても済むの。でも、ある日、なぜだか、急に思って、どうなってるのかしらって」

 「すごく怖かったけど、三面鏡の前で襦袢じばんを脱いで、振り返ったら、すごいの。赤茶けた古い傷と真っ赤な蚯蚓腫みみずばれが無数に走ってた。でも、あんなに目を逸らしてきたのに、一度見たら、今度は目が離せなくて。しかも凄く、凄く痛い。ひりつくように痛い」

 ほろりと、見開いた瞳から涙が伝う。彼女は、それをぬぐうでもなく息を繋いだ。

 「わたし、知らないうちに、万里子を背負しょって、あとはこの着物だけ。どうしてかしら。そうなの、万里子とこの着物だけ持って家を飛び出した」

 「ひたすら鯉川の土手を走って、走って、一瞬、川に入ろうかと思ったけど、背中には万里子がいて、そこが、痛いのに暖かくて、死ぬこともできなくて。ただ走って、走って、気が付いたら実家ここに戻ってた」

 梢さんはそこで止まって、しばらく震えていた。座敷には、その荒い息遣いだけが響く。私はただ黙ってそこに居た。

 やがて、彼女と私の境界で眠っていた繭のような沈黙が解けると、そのかぼそい糸の内側から絞り出すような声で、梢さんは言った。真っ直ぐに私を見て。

 「あなたは少し...わたしに似てる。万里子は...違うけど。あの子は自分のことを、綺麗なところも、そうじゃないところも、十分に知って、上手いこと使うことができる。でも、あなたは、どこか危うげで、その肌も、自分自身も、持て余して壊してしまうかもしれない」

 「大人になって、あなたには、わたしのようなことが起きないように願ってる。あなたが...そんなことには吸い寄せられないように。けど、世の中には、そんなことも...あるのよ。起こってしまうの。それをね、知っておいて欲しかったの」

 そこまで一気に話し切ってようやく、梢さんは一息つくと、膝の上にきちんと揃えられた手から力を抜いて、袖口で涙を拭く。顔を上げた梢さんは、いつもの梢さんに戻っていた。

これは
二人だけの秘密ね

あらやだ
わたしったら

お茶も入れずに
話し込んじゃって

 梢さんはそう言って、正座を崩し立ち上がって歩き出すと、襖の手前でふんわり振り返り、あの丸味まろみのある声で言った。

莉子ちゃんは

あなたを
大切にしてくれる
人を見つけてね

 そしてにこやかな笑みと共に、彼女は暗がりの中に、廊下の闇へと姿を消した。少し間を置いてから、その後を小指と神様が追って行く。

 誰も後ろを振り返らず、そして戻っても来なかった。

😌お読み下さりありがとうございます😌
次回、最終話です

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